こんな修羅場は願い下げだね・・・
この騒動は、小学校の学習旅行でバス乗務中だった夏帆の後輩バスガイドである古賀が、業務の途中で東北自動車道盛岡インターチェンジ北側下り線の路肩で故障して停車してしまったスケルトンから飛び降り、その先の非常駐車帯にある非常電話まで走って行き、そこで倒れてしまったという事に始まる・・・
そんな彼女は当日の朝から腹痛を抱えての業務となっていた。本来であれば見習として先輩バスガイドと一緒に乗務するはずの彼女は、一緒に乗務するはずだった先輩バスガイドが急遽生理痛で乗務できないこととなり、いきなりの独り立ちとなってしまった。だから、朝の点呼で体調不良を申し出ることもできず乗務を続け、小岩井牧場名物のジンギスカンも食べられない状況に・・そして悪いことは重なるもので、乗務していたスケルトンの調子も悪く最終的には高速道路本線上でエンジン停止。しかも、惰性も続かず非常駐車帯まで到達できず停車してしまう・・・
そこで、社則に則った三角表示板と発煙灯の設置をして非常電話まで駆けて行ったのまでは良かったのだが、路肩で力尽きその電話の袂に倒れ込んでしまった。そんな彼女は横向きに倒れ、身体を丸くしたままお腹をおさえ、額からは脂汗が流れていた。それは誰が見てもただ事ではないことがわかる・・・そんな状況だった。
そこに、たまたま時間調整のために盛岡インターチェンジ付近で待機していた夏帆の元に業務無線が飛び込み急遽向かった先にいたのが倒れた後輩だったという顛末だ。その倒れた後輩を介抱していたときの夏帆の脳裏に、その数日前に夏帆の部屋にフラッと現れた時の会話が蘇る。
「避妊はカレ任せ・・・」
あっけらかんにそう話す彼女に対して、夏帆はその言葉にどこか不安を覚えていた。しかも、最近寮のお風呂で見る彼女はどこか女性的で、心なしかお尻もふっくらしてきたような気もする。しかも、新卒で支給されたばかりの制服のスカートがキツくなってきたという始末だった。
夏帆はそんな彼女に不安を抱えながらも「まさかね・・・」という気持ちでその不安に蓋をしつつ、今回の業務で使用する着替えなどを整えていたことを思い出していた。。。
夏帆が続けている今回の業務の途中で、その故障したスケルトンの救済のため夏帆の乗務する車両がエアロクイーンからエアロキングに変わってしまったが、ハンドルは変わらず渡部運転手が握っていた。夏帆は先ほどその渡部運転手に持ち場を離れることを伝え、揉め事の渦中にいる古賀の元へ向かうために乗り心地の悪いAE86型という赤クロレビンの助手席に身を任せていた。
今回の物語はそんなところからスタートします。それでは・・・
「・・・・帆ちゃん!夏帆ちゃん!」
「えっ?」
この時夏帆は古賀の状態を考えていて、ハンドルを握るエンちゃんの問いかけが耳に入らなかった。さらに気付くと、赤色の4点式シートベルトの両肩の部分を掴んでいた自分の掌に汗をかいている。
夏帆はそんな状況の中、運転席からの問い掛けに答える。
「えっ?あっ・・・ごっ、ごめん。聞いてなかった・・・」
「心配だよね・・・あの倒れていたガイドさんって夏帆ちゃんの後輩だよね・・・あの様子ってただ事じゃないよね?救急車で搬送されたから安心しちゃっていたけど・・・」
このエンちゃんというオトコもどうやら何かを察し、ヤバい何かを感じ取ってる様子であることを夏帆は感じ取っていた。と同時に、夏帆が倒れていたその古賀から容体について聞き取った重要なことを思い出す。
・・・前回の生理がいつ来たのか覚えていない・・・
察しのいい方ならピンと来たと思うが、やはりこれはその古賀が妊娠初期であり、しかも切迫流産しそうになっていた・・・と解釈するのが妥当なところだろう。
夏帆の右側でハンドルを握るこのカレも、その後輩の救出に携わっていた時から前記のようなことが想像できていて、なんとなくそんな状況から一筋縄ではいかない厄介な状況を察していたのだった。
実はこのオトコ・・・実際にそんなことが自分の身に降りかかったという経験者だったりする。これは追々説明するとして、その古賀が言っていた生理の遅れについて、夏帆は思わずとんでもない質問をしてしまう。
ちなみに夏帆は未だ生娘・・・
「もしさ・・・前にわたしが下宿に泊めてもらった後、わたしが妊娠しちゃった・・・なんて事になったらどうした?」
その時、青信号で発進しようとしたAE 86型赤クロレビンが「ガクッ・・」という前につんのめるような衝撃と共に停止し、消えた排気音の代わりに後ろからクラクションの音が聞こえてきている。
この時夏帆は、自らが乗っているレビンの車内の空気が凍り付いたのを感じていた。何気に口から出てしまったそんな重大発言に驚きながらも、今更どうしようもなく話を続けることとしたが、そんな夏帆の右側では、今ほど問いかけられたオトコが心なしか焦った様子でキーを回しながらセルが回る音と共に挙動不審となっていた。こんな時に限ってエンジンがかからないものである。
そんなオトコがやっとのことでエンジンを掛けると、ハンドルの前のデジタルメーター速度を刻み始めた。そしてなぜか冷や汗をかきながら右手でギュッとハンドルを握り、左手でギアをシフトアップしたそのギアが4速まで入った時、そのオトコの重い口を開いた。
「えっ?マジ?・・・あの時やっちゃってたって事?」
この時明らかに目が泳いでいる。そんなエンちゃんの目を横目で見ながら夏帆の意地悪な質問が続く。
「だったらどうした?」
その時夏帆は、そう尋ねながら4点式シートベルトで拘束されている自らの身体が動く最大の可動範囲の中で体を捻り、運転するエンちゃんの顔を下から見上げた。
「夏帆ちゃんが僕の首元にキスマークをつけたって事ぐらいしか分からなかったけど・・・」
それは、レビンの排気音にかき消されその末尾が聞き取れないような答え方だっだ。それはどこかオドオドした口調で・・・
それに対して夏帆はちょっと意地悪な返し方をする。
「え〜ショック!・・・覚えてないの?わたし、あんなことしたの初めてだったのに・・・」
「じゃ・・・本当に?ごめん!」
「今まで黙ってたんだけど、あの時のエンちゃんってまるで獣のように何度も何度も・・・」
もちろんエンちゃんの首元につけられたそのキスマークはもちろん夏帆が付けたものだ。でもそれは、寝落ちしてしまってテコでも目を覚さないエンちゃんに剛を煮やした夏帆が思い余って付けたものだった。
実はその日の夏帆は、やっとのことでエンちゃんとのデートに漕ぎ着けた思いから、そのまま自らのはじめてを捧げる覚悟で挑んだ夜だった。しかし・・・その相手は夏帆のそんな思いも知らずに指一本出さなかったのである。
そしてその翌朝、夏帆を連れ一緒に銭湯に行った時、そんな夏帆の思いを知らないそんなオトコが洗い場の鏡に映る自身の首元に付けられたキスマークを見つけたという次第であった。
昨晩は日中の疲れからか、隣で悶々とする夏帆を差し置いて寝落ちしてしまい、翌朝までの記憶がない・・・という、このオトコにとっても最悪の状況となっていた。
その時、夏帆は困った顔をするそのエンちゃんを見兼ねて口を開く。
「そうだったら良かったのにな・・・って、ハ・ナ・シ!」
その話を聞いたエンちゃんは、まるでため息でも吐くかのように言葉を返す。
「いや〜焦った・・・もしそれが本当なら、今すぐにでも夏帆ちゃんの実家に行ってキチンと挨拶しなきゃならないと思ってさ・・・」
「挨拶って?」
「うん・・・キチンとおつきあいさせて貰って貰ってますって報告しなきゃ・・・」
「あら・・・案外律儀なのね?」
「うん・・・とりあえずスジの通らないことは嫌いっていうか・・・」
「エンちゃんのスジを通すところ見たかったな・・・」
「えっ?それって・・・?」
「うん。そういうこと!舞衣先生が言ってたよ・・・健康な男女が一緒にいてお互いを意識すればそうなるのは自然なことだって。むしろそうならないのは不健康・・・だって」
「じゃ・・・今の僕たちって不健康ってことになるのかな・・・?」
「そうだよ!全くの不健康!舞衣先生が言ってたよ・・・ハタチそこそこの大学生はヤリタイ盛りだって」
「ちょっと・・・何?その言い方・・・」
「違うの?」
「いや・・・人並みには・・・その・・・」
その時、国道4号から46号へ右折するために右折車線にレビンが停車していた。そして、その右前方に横断歩道橋が見える。
顔を赤らめそう答えるエンちゃんの目線が、その横断歩道橋の橋桁をチラチラ見ているのに気づいた夏帆がその目線を追うと歩道橋を渡る制服姿の女子高生であった。しかも、その歩道橋は本来あるべき裾隠し板が付いておらず、ルーズソックスを履いた短めのスカートの中に白いものがチラチラと見え隠れしている。
「エンちゃん!コレ!」
夏帆は思わずエンちゃんの視線を引き戻すべく自分のスカートの裾を指差した。
実は、盛岡駅を出発してから時々助手席に座る夏帆の膝の辺りに向けられているのを夏帆は知っていたのだ。
そうである。夏帆の青い制服のスカートの裾は膝上10センチとなっており、その女子高生にも負けてはいない。しかも、膝下の長いそのストッキング越しの脚の太ももの辺りまで見え隠れしている。
それに夏帆の隣のオトコは根っからの制服フェチである。この時夏帆は、歩道橋を渡る制服姿の女子高生にジェラシーを感じてしまったのである。
「ねえ・・・見たい?」
そう言いつつ夏帆は自らスカートの裾を捲る仕草を見せた。
「ちょっと待った!こんなところで・・・隣を走ってるダンプの運転席から見えるって!」
「ん?わたしは構わないよ・・・見たくないの?あの夜は普段着だったけど、今はバスガイドの制服っていうオマケ付きだよ!」
「そっ・・・それは・・・今は運転中だし・・・」
いきなり核心をつかれたオトコというものはなかなか反論できないものである。その反論できない超健康なそのエンちゃんというオトコは、その健康が故やらかしてしまった過去の過ちを悔いて夏帆に手を出せないという事情も抱えていた。
そんな事情など微塵も知らない生娘の夏帆は、その質問に一区切りつけるためにタネ明かしをする。
「残念ながら、あの夜は何もなかったんだよね・・・でも、もしそれでデキちゃったら・・・ってこと!」
夏帆は思わず聞いてしまったそんな下世話な話に、その尋ねられたエンちゃんがどう答えるのかさらに興味が湧いてきた。
「そりゃ・・・もちろん責任はとるよ!ヤったことの責任として、まず夏帆ちゃんのことを幸せにする義務があるし、こちらから小比類巻家に出向いて夏帆ちゃんのお父さんに殴られなきゃならないし・・・夏帆ちゃんをウチの義父さんと母さんに紹介しなきゃならないし・・・」
「う〜ん・・・お父さんってやっぱり殴っちゃうのかな・・・?」
「だって、可愛い娘を知らないオトコに取られちゃうんだよ?」
「それって、俗に言う「嫁入り前の娘を傷モノにされた」・・・ってヤツ?」
「有体に言えば・・・」
なんか、話が逸れますます下世話な方向に向かっているような・・・
「じゃ、今度わたしをエンちゃんのお母さんに紹介して欲しいな・・・」
「でも、母さんとのどか(妹)は花巻で合流するはずだよ」
「えっ?おっ・・・お母さんとのどかちゃんも?」
「あれ?聞いてなかった?」
「うん。初耳・・・えっ?ちょっと待って!挨拶ってどう言えばいいんだっけ?不束者ですが・・・だっけ?」
「あれっ?義父さんの時は自然だったのに、どうして母さんに対してはそんなに緊張するの?」
この時エンちゃんは、ここぞとばかりの反撃を試みたようだ。
「だって、エンちゃんのお母さんだよ?エンちゃんを産んだ本人だよ?緊張しないわけないじゃん!」
「別に気を使うような人でもないって・・・ちょっと変わり者だけど・・・」
「だって・・・わたしってお母さんからすればどこぞの馬の骨とも分からないオンナだよ?しかも、理央さんみたいに綺麗じゃないし、ペチャパイだし・・・」
今度は、夏帆の言葉の末尾が排気音でかき消されている。そんな様子を見た隣のオトコが大きく息を吸った。
「理央のことは関係ないっ!」
この時のエンちゃんの口調はいつもと違って強かった。先ほど往復ビンタをされてそれを根に持っているのか、そもそも自分の知らない何かがあるのか・・・
夏帆がそう思った隣で今ほど強い口調で言い放ったオトコが口を開いた。
「オトコが責任を取るってことは、つまり・・・結婚するってことでしょ?」
結婚・・・それは今まで「いつかはそうなればいいな・・・」なんて思っていた遠い将来の」ことだと思っていた。まだ19歳の自分にそんな言葉が纏わり付くとは・・・
「そっ・・・やっぱり、そんなところだよね?でも、ちょっと早いよね・・・」
そう答える夏帆の声はどこか上擦っていた。
「でも、母さんって今の夏帆ちゃんと同じ19歳で結婚してるし、僕が学生ってことを除けばなんていうことはないと思う・・・」
「エンちゃんさえ良ければわたしはいつだって・・・」
「結婚ともなれば、何より夏帆ちゃんが独身時代にしか出来ないことを奪い取ってしまう訳だからそれなりの・・・」
「たとえば?」
「女の娘同士でどこかへ行ったり・・・」
「それと?」
「ディスコに行ったり・・・」
「それって結婚してもできることだけど?」
「でも・・・赤ちゃんが出来ちゃったらなかなかそうもいかない・・・」
「うん・・・いくら育児は分担・・・って言ったところで、おっぱいあげなきゃならないし・・・ん?」
「だからそれなりの・・・」
この時夏帆は自分の身体の異変に気づく。それは、心なしか乳房が張ってきたことだ。これは夏帆にとって乳房が膨らみ始めた中学生だった頃以来の感覚のような気がする。
こっ・・・これって、カレシが出来ると胸が大きくなるっていう・・・あの噂のに関係あることなの?
夏帆はこれまで彼氏が乳房を揉むことによってその彼女の乳房が大きくなるものと解釈していたが、考えてみれば女性は恋をすると自然と綺麗になるものだ。もしかすると、その乳房の一件も「ソレ」に含まれるのかもしれないが・・・
そんなことを思っている夏帆の隣では、ハンドルを握るオトコのセリフが止まってしまっていた。
「ん?それなりの?・・・なに?それに好きかどうかも分からないまま、そのヤッたことに対して責任を取るって?どうやって?」
そう問いかけた夏帆に対して生唾を飲み込んだそのオトコがそれに答える。
「いや・・・僕は夏帆ちゃんのことが好きだし・・・」
この時夏帆は、頭の毛穴が開いたのを感じつつ平静を装いそれに答える。
「ん?なんか初めて好きって言って貰えらような気がするんだけど?」
「いや・・・なんか軽々しく口にできるようなものでもないと思っててさ・・・」
「でも、女の娘って口で言ってもらえたほうが嬉しいんだよ。「言わなくてもわかるだろ!」はオトコのエゴなの!」
「はい・・・心しておきます・・・」
「よろしい!」
この時ハンドルを握りながら顔を赤くしているエンちゃんが大きく息を吸って話を再開した。
「でもさ・・・僕って、まだ学生の身分でしょ?大卒って事になればどこにでも就職できる(注:この時代はバブルの末期)けど中退じゃ厳しいと思うんだ。だから、とりあえずは大学だけは卒業しなきゃって思ってる」
「それじゃ責任を取るイコール学生結婚だね?」
「う〜ん・・・でも、それだと経済的に・・・」
「それはわたしが食べさせて・・・」
「でも・・・夏帆ちゃんって給料高くないでしょ?しかも妊娠でもしていれば思うように働けないし・・・」
「いいの・・・わたしはエンちゃんさえいれば・・・・えっ?」
それは、言葉を発した本人でさえ驚く爆弾発言だった。しかもこの時、今度は夏帆の首から上が真っ赤になっていた。それはもう頭から湯気が噴き出るような感覚・・・
その時夏帆の脳裏に、あるオトコが言っていた「自分の父親は学生結婚だった・・・」という言葉が蘇る。それは、あの有名写真家であるタキサワの一人息子が言っていた「自分の父親がヌード写真家」になったというエピソード・・・
それは、ヌードの被写体として写真を撮っていたモデルが自分の子供を妊娠してしまったということで腹を括り、結果として学生結婚したというものだった。そして、今度は奥さんとなった妊婦を被写体として写真を毎日のように撮り続け、それがきっかけでヌード写真家として成功を収めたもの・・・
「夏帆ちゃん・・・今更だけど、それって夏帆ちゃんからの逆プロポーズ?」
少し焦った様子でそういうエンちゃんに夏帆は少し低い口調で返す。
「う・・うん・・・なんかさ、エンちゃん以外のオトコに興味かなくなっちゃってさ・・・責任とってもらわないとね・・・」
しかし・・・それを言った夏帆本人の心の奥にその滝沢というオトコの影があるのを夏帆自身気づいていた。万が一、エンちゃんにフラれたら乗り換えるなんて心の底で思っているかもしれない自分のそんな迷いを払拭するためにそんなことを言ったということも・・・
そんな時、国道46号を病院に向かって走行しているレビンのハンドルを握るエンちゃんが急に話題を変えた。
「ウチの母さんってさ、3年前に急に建設会社を畳んだんだよね・・・」
「それって、エンちゃんの実のお父さんが立ち上げた会社でしょ?」
「うん。父さんが労災事故で亡くなった時に、従業員の給料を払わなくっちゃ・・・って急遽引き継いだ会社だったんだよね・・・」
「凄いよね・・・急に亡くなっちゃったエンちゃんのお父さんのピンチヒッターってことでしょ?」
「うん。でも、そもそも経理全般は母さんが仕切ってたし・・・」
「そんな母さんがこの先景気が悪くなるって言うんだ。従業員の退職金が出せるうちに廃業させるって言い出して、その直後から廃業手続き初めてさ・・・その手続きをしていた役所で担当だったのが義父さんで・・・」
「えっ?この景気って悪くなっちゃうの?この前年号が「平成」に変わって、新しい時代に突入していくっていうイメージしかないんだけど・・・」
「全くだよ!会社の後継者ってことで大学も土木工学科に進学したんだけど、その途端に梯子外されちゃった感じでさ・・・」
「でも・・・お母さんは時代を先読みしてるんだよね?」
「うん。母さんが言うには、金融引き締めの影響が出始めて同業者がトビ始まってるって・・・」
「トブって・・・倒産するってこと?」
「うん。最近では元請けの支払いが滞り気味になったり、手形払いになってたりしてきて・・・それって良くない状況なんだって・・・」
「手形って、後で換金するものだから・・・その期間が長くなれば会社が苦しくなるんでしょ?」
「だから、それを安く買い取ってすぐに換金する業者も暗躍してて・・・」
「聞いたことある・・・それって「手形割引」っていうんでしょ?額面の6割とか7割で買い取るってヤツ」
「それでも換金できればいいけど・・・結局は換金できなかったりして・・・」
「それって不渡りって言うんでしょ?」
「夏帆ちゃんって、何気にそういうの詳しいよね?」
「お客さんが話してるの良く聞こえるからかな?でも、いつも聞こえるのが不動産にまつわる儲け話なんだけど、最近になってしくじった話も聞こえてきて・・・」
「そうだよね・・・この好景気の根本には土地価格の右肩上がりってのがあると思うけど、そろそろ限界が見えてきてるのかも知れない・・・」
「うん・・・わたしもそんな感じがする・・・」
「母さんも口癖のように言ってたんだよね。・・・土地を転がすだけで儲かる仕組みはやっぱりおかしいって・・・」
このエンちゃんの実の母親が危惧している景気の陰りというものが直ぐそこまで迫ってきたことについて、この段階で気づいていた人は数少なかった。現にこの頃いたっても不動産に手を出す会社も多く、今後そんな会社から淘汰されて行く世の中になろうとは誰も気づいていなかった。
そんなことなど全く想像できない夏帆ですら漠然とした不安を覚え始めていたというのに・・・
「すると、エンちゃんの就職にも影響が出るってこと?」
「うん・・・就職はどうにでもなると思うんだ。でもその先が・・・」
「なんか不安になってきちゃったね・・・』
「だからできるだけ安定した職業ってことで公務員を目指そうと思ってる。民間の半分くらいの給料って話だけど・・・」
「だから学校の先生?」
「分からない。でも、選択肢の一つとして教職課程も執ってる。最低でも教員免許だけは取ろうと思って・・・」
この時夏帆は、エンちゃんがどうしてこんな話を始めたのか分からずにいた。
「この話と、さっき言った「責任を取る」ってことになんの関係が・・・?」
「う・・ん・・責任っていうのはもちろん夏帆ちゃんを幸せにするってことなんだけど、それって精神論だけじゃなくって経済的要素が大きいと思うんだ。そんな中で会社が潰れでもしたら大変だし、しかもお腹に赤ちゃんがいるとすればその赤ちゃんの一生に責任を持てるかも分からない・・・」
「それって・・・?」
「学生の身分とか、これから就職がどうなるか分からないんじゃ、これから生まれてくる人の一生まで責任取れるかは分からないってこと・・・」
「えっ?」
この時夏帆は、たとえ仮定の話であっても「生まれてくる赤ちゃんもひっくるめて責任を取って幸せにする・・・」というのがこの時の模範解答かと思っていた。
「それじゃ、産まないほうがいい・・・って選択肢もあるってこと?」
「うん。ここで重要なのは夏帆ちゃんのこともそうだけど、生まれてくる一人の人間を責任もって育て上げられるかってことだと思う。可愛がるだけだったら誰でもできるけど、それは経済的な基礎があってのことだと思うんだ・・・」
そう言ったきりエンちゃんの話が止まる。そして夏帆が高校3年生の時受けたある授業で舞衣先生が言っていたある言葉が蘇る。
「生まれてくる赤ちゃんの幸せを一番に考えなければならない。望まれて生まれる赤ちゃんであれば問題ないが、そうでない場合はその赤ちゃんが原因で、赤ちゃんをを含め周り全てが不幸になる場合もある。だから、生まれてこないほうがその赤ちゃんにとっていちばんの幸せなのかも知れない・・・」
それは高校時代に妊娠してしまい、その時のカレシがシラをきって埒が開かないこだま先輩に舞衣先生がかけた言葉である。
初めは「妊娠してしまった以上、カレシがどう言おうとも高校を中退して産んで育てる」と言って聴かなかったこだま先輩の将来を憂いて掛けた言葉だった。倫理的にはどうか分からないが、その時産んでいたならバスガイドという職業には就かなかったというのは容易に想像できる。
そんなことから、精神論ではない現実を見つめたエンちゃんのその答えが腑に落ちる夏帆であった。
そんな時だ。
「夏帆ちゃん!アレ・・・」
夏帆の視界の中に、夕日に染まった病院の建物が映る。しかも、その背後には綺麗な岩手山の稜線がまるで水墨画のように見えていた。
「滝沢から見える岩手山のもいいけど、こっちから消えるのもいいよね・・・」
夏帆がそこまで言うと、なぜか焦り気味のエンちゃんが病院脇の駐車場を指差していた。
「病院の駐車場にアレ・・・」
その時エンちゃん運転するレビンは、総合病院の駐車場に入るために右折車線に停車中た。そしてその目線の先にある病院脇の駐車場の奥には、見覚えのあるカラーリングに彩られた全長12メートルのエアロエースが駐車していた。
「えっ?なんで?」
「さっき麻美子姉さんが電話で三五八交通の誰かが病院にいるって話してたよね?」
「うん・・・でも、誰だろう・・・わたしの乗務シフト内容を把握している人で、回送中の人って・・・」
夏帆がそう思っている間にレビンは病院敷地に入り、病院入り口のエントランスで停車した。
「夏帆ちゃん行って!僕は部外者だから駐車場で待ってるから・・・」
「うん。ありがと・・・」
夏帆がそこまで口にした時、聞き覚えのある低重音と共に目の前の駐車場に入ってくる赤いクルマが目に入った。
「えっ?舞衣先生まで?」
そう・・・それは、舞衣先生の運転するKP61と言われるスターレットだった。夏帆は駐車場の奥に向かうレビンの後ろ姿を目で追いつつ、駐車場手前にクルマを停めた舞衣先生がクルマから降りてくる姿を見てホッとしていた。
当然である。後輩の修羅場に首を突っ込むことに対して不安を覚えていたから・・・
「ほれ!行くぞ!」
クルマから降りてきて病院入り口に向かって真っ直ぐに歩いてきた舞衣先生の表情は堅かった。ロングヘアーにポロシャツにデニムという一見教師に見えないそんな舞衣先生のその口調は、夏帆が高校時代にか掛けられた口調そのものだった。
「舞衣先生・・・どうしてここに?」
夏帆は思いも寄らないところに現れた舞衣先生にそう尋ねた。
「教え子が修羅場に巻き込まれてるんでな・・・」
「その教え子って、わたしのことですか?」
「おまえもそうだけど、その教え子はすでに現場対応中で・・・」
「ん?わたしの他の教え子って、いったい・・・」
この時夏帆の脳裏に浮かんだのが「こだま先輩」の顔だった。そのこだま先輩は、確か昨日の日中八戸駅迎えで奥入瀬渓流を案内後十和田湖に一泊して翌日田沢湖を周遊するという日程をこなしているはず・・・しかも最後は盛岡駅送りとなっていたような気がする。
そんなこだま先輩は過去に自らに起きた不幸な出来事があることから、修羅場の渦中で溺れそうになっている後輩の古賀のために人肌脱ごうとして駆けつけたまでは良かったのだが、その駆けつけた彼女まで巻き込まれてしまっていたのだった。
そこに、そんなこだま先輩を修羅場から2度目の救出を図ろうとしているのが舞衣先生という具合だ。
「・・・全く、両家を巻き込んだこんな修羅場は願い下げだね・・・」
そう言いつつ夏帆の手を引いで病院の自動ドアを通過する舞衣先生の手は汗ばんでいた。そして、受付で古賀の所在を確認しエレベーターに乗り込んだ夏帆に対して舞衣先生が諭すように口を開く。
「なあ・・・これからおまえはオトコという生き物の本質を見ることになる。都合が悪くなったオトコ・・・いや、責任逃れするオトコの醜態というものをよく見ておくんだな・・・」
舞衣先生は、先ほど医療関係者として現場にいる従姉妹の芽衣子さんから聞いた話を麻美子さんから聞いていたのだった。なぜそこまで詳しいのか不思議がる夏帆の手を引いて向かったのは婦人科病棟だ。
そして、何やらカオスの香りが漂う「古賀」と書かれた部屋の前に到着すると中から金切り声と嗚咽の混じった声が聞こえてきた。
「舞衣先生・・・これって相当な・・・」
「そうだな・・・修羅場も修羅場・・・」
そして、その目の前の引き戸を開いた二人の目の前に広がる光景とは・・・
その病室で繰り広げられていた攻防とは・・・
そのあたりは次号で解説することになりますので、よろしくお願いいたします。
今回もこんなストーリーにお付き合いいただきましてありがとうございました。
それでは・・・
みなみまどか