第3話:モッタイナイ
遅くとも7時45分までには屋敷を出る。
普通の生徒と同じように、なるべく電車で通う。
以上が優香さまとわたしの朝の取り決め。
わたしはごく大雑把に身支度を済ませ、食パンを口にくわえて玄関にすべりこんだ。腕時計を確認。43分!
「おふぁおうふぉふぁいまうゆうふぁふぁま(おはようございます優香さま)!」
玄関脇の大窓から庭園を眺めていた優香さまがゆったりこちらに振り向いて苦笑する。レースのカーテン越しに朝の光を浴びて、透けるような白い肌をまぶしくかがやかせる優香さまは、魔女なのに天使のようだ。――ちなみに、人間があがめる天使とか神さまとかは、いるのかいないのかよくわかりません。まあ、あれらはきっと、心の内に見出される存在なんでしょうね。
「おはよう、黒子。……あらあら、もう、どうしたの? リボンはズレてるしボタンはかけちがえてるし、それに、その、ふふふ、食パンくわえて登校なんて、まるでマンガじゃないの」
「あう、もぐ、そのう、ごめんなさい」
わたしはおっちょこちょいなところがあってよくない。中学時代もいろんな人たちから「お姉さんを見習いなさい」なんて言われてきた。わたしはもちろん、優香さまを見習って、というより、お側に控えて優香さまが恥ずかしくないようにしていたいと思っているのだけど、なんでかこう、ドタバタしてしまうのだった。
しゅんとうなだれると、優香さまがスッと一歩近寄って、リボンのズレをなおしてくれた。わたしは食パンをもぐもぐほおばっていて、まったくかわいそうなコ状態だ。
「ボタンは自分でなおしてね?」
照れてるような、からかうような、微妙なニュアンス。優香さまは両手を後ろ手に組んで、くるりとわたしに背を向けた。
一応、私も男の子だからね。背中がそう語っていた。
――ときどきですけれども、優香さまはご自分の性別について語られます。いわくは、
「私は自分が男なのか女なのか、よくわからなくなることがあるの。もちろん、魔女なんだから、女としての自分をいつも意識しているんだけれど、でもね、そういうふうに意識すればするほど《本当の自分》が心の奥で浮き彫りになるのよ。でも逆に、私は男なんだ!って、そういうふうな方向付けで自分をとらえるのにも強烈な違和感が生じる。でも、まあ、わたしの場合、生きていく上で性別なんてあんまり関係ないのだけれどね……」と。そう語る優香さまはさびしげで、いまにも消えてしまいそうなはかなさをたたえていました。わたしはいつもなにも言えなくて、抱きしめたいけれどそれもできなくて、ただじっと控えて心に誓うことしかできない。ずっと優香さまのお側にいよう、優香さまを独りにしちゃいけない、と。
わたしはあわててボタンをかけなおし、食パンをたいらげた。
「あの、では、参りましょう。失礼しました」
「ん。今日は……っていうか、今日もいい天気ねえ。すっごく暑そう」
空調の効いた邸内にあっても、夏日影の主張する熱気はごまかしようがない。わたしも優香さまも暑いのは苦手だった。
「ああ、黒子はショートボブでラクそうよねえ。私も思いきって短くしようかな」
靴べらを手に取りながら、とんでもないことをおっしゃる!
「だめ! 絶対だめですよ優香さま! もったいないですよ。MottainaiですYO!」
「な、そんな、黒子は大げさねえ」
「大げさでないです! 優香さま、すっごくお似合いなんですからね! 奇跡のナチュラルウェーブ! 脅威のローレイヤー! 最強のAライン!」
優香さまのゆるふわナチュラルロングは芸術の粋に達している。ウィッチハットをかぶられたときのかわいらしさは危険球レベル! 魔力なしで万人を魅了する! 優香さまのロングヘアはわたしが守る!
「な、なんだかよくわからないけど、わかったわ。とにかくもう、いそぎましょう。遅刻しちゃうわ」
腕時計を確認すると7時47分。早歩きでないと電車に乗りおくれてしまう。わたしも自分のローファーに足をさしいれ――
「いってらっしゃいませ」
「わあ!」
いつのまにあらわれたのか、背後から執事の黒崎が見送りの声をかけてきた。
「びっくりさせないで! いつからそこにいた?」
「黒子嬢、あなたが食パンを咀嚼していたあたりからおりましたよ」
黒崎は人狼の老紳士で、西園寺家の執事として雇われている。とくに上下関係はないのだけれど、一応わたしの大先輩にあたる。
「いってきます。黒崎さん、いつもお見送りありがとう。さ、黒子、行きましょう」
「は、はい!」
なんだか黒埼にしてやられた感じがして気に食わなかったが、ここで言い合いをしていたら本当に遅刻してしまう。わたしは優香さまにつづき、西園寺邸を後にした。