~第一章~ 恋愛模様 その2
大鍋いっぱいに水を張ると、幸恵は両手に力を込めてそれをガス焜炉の上に置いた。鍋の蓋を閉じて火を点ける。隙間風が吹くようにフライングして溢れていたガスに火が点いた瞬間、ボッと音を立てて青い炎が鍋の下に広がった。お湯を入れた方が良かったかなとも思ったが、すぐにその考えを捨てた。その代わりにとでも言うように、鍋にかけた火を少し強めた。
新しいうどんの封を切った時、開け放っていた窓の、網戸の向こう側にあるベランダの手摺りに雀が一羽、慣れ親しんだ店に顔を覗かせるようにして止まって小首を傾げた。小刻みに、そして交互に首を傾げると、今度はさっきと打って変わったように素知らぬ顔をして飛んでいった。全く、何をしに来たのか解らない。口を突いて出そうになった言葉を、幸恵は微かな笑いと一緒に喉の奥に飲み込んだ。薄っぺらい紙で束ねられていたうどんをボールにあける。
昨夜作った天プラがまだ冷蔵庫に残っている。今日の昼は少し贅沢な気分になれるかな。そんな風に考えると料理を作るのも楽しくなる。もっとも、茹でるだけのものを料理と呼んでいいのか幸恵には解らなかった。
水が茹で上がるまで、網戸の向こう側にある夏の景色を何をするでもなくのんびりと眺めた。
肌を突き刺すような鋭い陽射しが街全体を明るく染め上げている。葉を茂らせた街路樹も、等間隔に立てられた電信柱も、まるでそうする事が義務付けられているかのように不平はおろか悲鳴すら上げず黙って焼け付く陽射しを全身に浴びていた。開け放たれた窓から吹き込んだ湿気混じりの生暖かい風が不躾に肌を舐める。夏が嫌いな人はこんな蒸し暑さに顔をしかめるが、幸恵は夏のこういう肌が蒸れるほどの暑さが好きだった。まだ小さかった頃は夏場は決まって日が暮れるまで裸足になって外を駆けずり回って遊んだ。野山を駆け回り、木に登り、夏の空気を胸いっぱいに吸い込んでクタクタになった頃、置き忘れた鞄を取りに戻るようにして家路についた。そんな時はいつも後ろ髪を引かれる思いがしたものだ。まだもう少し遊びたいなあ。そんな気持ちと帰らなければならないという義務感が胸の中で相半ばしていた。
そんな風にして過ごした時間が不意に酷く懐かしく感じられた。実際、懐かしい以上の現実が幸恵の前にはある。翔子がそんな風にして時間を過ごしたのは一体いつの事だろう。幸恵には思い出す事すら出来なかった。娘の成長を喜ぶべきなのか、それとも少しだけ老けた自分に溜息を吐くべきなのか、それすら幸恵には解らなかった。
音を立てて沸騰する湯に、幸恵はうどんをあけた。菜箸で掻き混ぜるとさっきまであんなに硬かったうどんはだらしなく歪んで湯の底に沈んだ。ボコボコと沸騰を続ける品のない音の隙間を縫うようにして、更に不躾な音が廊下の奥から湿気を含んだ生温い風に乗って幸恵の耳に届いて来た。足音だった。決して大きくはないが、耳を澄まさなくても聞こえる、それくらいの大きさだった。まるで冬眠前のリスがクルミを隠す場所を探すようにして狭い範囲を行きつ戻りつしていると思ったら、不意に思い出したようにして足音が消える。それをしばらく繰り返しすと、体重の割りには軽い音を立てながら一階に降りた。そのまま一直線で幸恵のいる台所に向かう。
暖簾を左手で押し退けた夫の横顔は妙に気色ばんで見えた。馴染みの店のそれをくぐるのとは訳が違う。娘が休日に家から消えたくらいでどうしてここまで落ち着きがなくなるのだろう。そんな夫を羨むべきなのか、それとも肩に手を置いて一緒に哀れむべきなのか。幸恵には既に取るべき札は決まっていた。迷う余地はなかった。そしてその選択は夫自身のためでもある。
それを本人が知るのは一体いつの事だろう。
何度も口にしようと思って来た科白だ。しかし言葉という解りやすい形に変えたとしても、今の夫の耳には絶対に届かない。それだけは確信を持って言えた。
「翔子は何処に行った?」
暖簾を指の先に掛けたまま身動ぎ一つせず、夫は前を見据えたまま静かに言った。端から冷静に観察すると少し馬鹿に見える。実際、娘がいなくなった程度でここまで真面目にうろたえる夫はやっぱり馬鹿だった。おでこの眼鏡を必死に探す人ほど、端から見ると馬鹿らしく見えてしまう。しかし若干の微笑ましさがあるそれと違い、これは腰が砕けて全身が脱力するくらい馬鹿だった。それが赤の他人だったら何の問題もない。何も言わずに通り過ぎたところで文句を挟む者など誰一人としていない。
そういう人間を身内に抱える者の苦悩など、夫には絶対に解らないだろう。それを知ったところで改めるとも思えなかった。人の感情には鈍感でも、自分の感情には何処までも忠実だからだ。
「さあ」
鍋の中で踊っているうどんを菜箸で掻き回しながら幸恵は素っ気無く言った。少なくとも、まともに取り合うだけの価値がない事だけは確かだった。鍋の中で不規則に動き続けるうどんを時折箸で掬って空気に晒す。
「いつ頃いなくなった?」
幸恵は何も言わずに首を傾げた。返事をするのも億劫だった。少し殺気を孕んだ夫の顔が視界の片隅に映ったが、それでも顔を向ける事はしなかった。彼を無視する事は既に充分慣れている。感情に感情で応じては余計にそれを焚き付けるだけだ。感情で応じて火に油を注ぐのではなく、冷静に対処して水をかけた方が話は早く片付く。
幸恵はそれを経験から学んだ。夫は経験から何を学んだのだろうか。
「母親なのにそんな事も解らないのか!」
夫は突然怒鳴った。怒鳴る事に一体何の意味があるのだろう。幸恵には常々疑問で仕方がなかった。血圧が上がる、心臓に負担がかかる、物事に冷静に対処出来なくなる。
何一ついい事などないのに。
感情的になる事で物事がプラスの方向に転化するとは夫も考えていないとは思うが、もう少し行動の選択肢に幅を持たせるべきだと幸恵は思う。馬鹿の一つ覚えがいつまでも通用するほど世の中は単純ではない。
「親だからって、娘の行動全てを把握出来る訳ないでしょう?」
現に今のあなたがそうであるように、とは言わなかった。人なら誰しも親の束縛を断ち切って自由になりたいと思う時が必ず来る。そんな気持ちがあった事すら夫は忘れてしまったのだろうか。それが”大人になる”という事なら、少しだけ哀しい気がする。そして、そんな気持ちが心の片隅に残っている自分は”大人になり切れていない大人”なのだろうか。そのどちらが人として全うなのか。誰かにそう聞かれたら、幸恵には笑う事しか出来なかった。
「誰かと出掛けたんじゃない? 日曜なんだし」
口にしてから後悔した。ここにいないのだから出掛けたのは当然だし、夫が言わんとしたい事は誰と出掛けたのかという一点に尽きる。内心臍を嚙む思いがしたが、顔には出さなかった。それを指摘された時の返答は既に幸恵の手元にあった。いつそれを夫に手渡すか、それだけだった。
「で、誰と出掛けたんだ?」
「さあ、知らない」
うどんを掻き混ぜながら、つくづく噓を吐くのが下手クソだなと内心で舌打ちした。幸恵自身が誰かと出掛けたという可能性を示唆してしまっている。別に一人で出掛けても何の問題もないのに。ただ、夫がそれに気付くかどうかは別だった。
例えば、翔子の場合なら、こんな時どうやって切り抜けるだろう。或いは、涼子なら……。いつものムッツリとした無表情の中に無理矢理動揺を押し込んで、睨むような目で牽制しながら適当に煙に巻くか、必要な事以外は一切しゃべらず終始黙り続けるか、何れにしてもまともに話をする事はしないだろう。誰に教わるでもなくそういう術を心得ていく。それを逞しいと評価すべきか擦れたと取るべきか、正直いつも迷う。だが、決してそれを歪んでいるとは思わなかった。幼子のような純粋さだけでは生き残れない。子供の皮を破って大人になる過程で、それまであるものを引き出しの奥にしまい込む代わりに何かを拾い上げ少しずつ変わって行く。それが嬉しくもあり、また哀しくもあった。自分の後を追い縋っていたあの頃とはもう明らかに違う。それは、さっき玄関から飛び出して行った翔子の後ろ姿を見た時にも感じた事だ。不意に漏れた溜息は、夏という季節に相応しくやたら湿っていた。
「案外一人で出掛けたのかも知れないし。帰って来てから本人に聞いてみれば?」
「俺が聞いて教えてくれる訳がないだろう!」
夫は再び怒鳴った。考えての行動ではない。やはり感情がそうさせるのだろう。
頼むから、誰か夫の会話に理性と思考を介在させる余地を与えて欲しかった。そう考えた瞬間、目の前が真っ暗になった。それは他ならぬ、幸恵に与えられた役目である事に気付いたからだ。
一瞬眩暈がしたのは、何も真夏の暑さと鍋から立ち上る蒸気のせいだけではあるまい。気を取り直すように顔を上げると、鍋の中で不器用に踊る白いうどんを一本掬い上げて口に運んだ。若干の硬さを残しているが、そろそろ頃合だ。ザルを流しに置いて蛇口を捻る。地熱でじっくりと暖められた温い水が勢いよくザルを通り越して排水溝に消えて行く。焜炉の火を消し、鍋を掴んだ。そのままザルの上にあける。モウモウと上がった蒸気で一瞬目の前が真っ白になる。霞んだ視界の向こう側にいる夫の顔は、相変わらず不機嫌そうだった。
「食べる?」
うどんを水で洗いながら、幸恵は夫を横目で窺った。夫は何も言わなかった。無言で冷蔵庫を開けると中から麺ツユとワサビを出してテーブルに置いた。幸恵は更に蛇口を捻った。勢いよく流れる水と一緒に素早くうどんを揉み込む。頃合を見計らって水を止めると、ザルを何度も上下させて水を切る。それをあらかじめ出しておいた小さめのザルに移し、カウンター越しに夫に手渡す。やっぱり夫は何も言わなかった。幸恵も黙っていた。
「ネギは?」
夫が物足りなさそうな声で言った。まるで遠足に買っておいたおやつを忘れて来た小学生のような顔で相変わらず不貞腐れている。幸恵は出そうになった――午前中にして既にこの日何度目かの――溜息を喉元で少しばかり強引に飲み込むと、冷蔵庫を開けてやや小振りのタッパーを取り出した。海苔の入った真空パックと一緒にテーブルに置くと、夫はゴマを擦っていた手を止めて早々に蓋を開けた。瞬間、刻んだネギの香りが鼻の奥に吸い込まれる。夫はタッパーを睨んだまましばらく動かなかった。いつの間に用意したのか、それを薄めた麺ツユの上に適量をあけるとワサビをお椀の縁につけ、つゆの中で軽く掻き混ぜる。そこに更に少量の七味唐辛子を落とした。茶色を基調としたつゆの中に擦ったゴマの白、刻んだばかりのネギの青、ワサビの緑、そして七味の赤が淡くマダラに渦を巻きながら、それでも決して混ざり合う事無く渾然一体となって行く。まるで麺ツユにモザイクでもかけたようだった。それは間違いなくうどんに味をつけるためのものだが、それ自体が何なのか幸恵にも説明出来ない。確かにハッキリしなかった。
「あと、天プラがあるから」
思い出したように呟くと、夫はムッツリと黙ったまま冷蔵庫を開けて天プラの入った皿を出した。電子レンジの天プラが温まるまでの僅かな間も幸恵と目を合わせる事もなく腕を組んだままレンジの前で仁王立ちしていた。夫は幸恵が席に着くのを待つ事もなく、早々にうどんを箸に絡めている。啜る音が耳に心地よい。知り合った当初はうるさく感じたそれも、今ではすっかり耳に馴染んでいる。それに感謝するように、幸恵は軽く両手を合わせると茹でたばかりのうどんに箸をつけた。
しばらく、箸が擦れ合う音とうどんを啜る音しか耳に入らなかった。唐突に、夫が噎せた。ワサビや七味を入れすぎたのではなく、単純に勢いよく啜りすぎたうどんが気管支に入ったのだ。喘息患者のように激しく噎せると、最後に大きく咳払いしてまた何事もなかったかのように食事を再開した。手を拭こうとか口の周りを洗おうといった発想はないらしい。
「心配なのは解るけど」
幸恵はうどんを啜る合間に思い出したように、そして釘を刺すように言った。
「それもあんまり過ぎると涼子の二の舞になるわよ」
うどんを啜っていた夫の動きが不自然すぎるくらい急に止まった。時間にすれば二、三秒に過ぎないが、それでも見る者の心にある種のぎこちなさをもたらすにはその動作は充分だった。
それから夫のザルに盛られた二人前のうどんが姿を消すまで、五分とかからなかった。食べ終えたザルを流しに戻すと、夫はバツが悪そうに背中を丸めたまま居間から姿を消した。幸恵も何処に行くかは訊かなかった。訊いたところでどうせ応えるはずがない。いつもの事だ。
夫が出掛ける身支度を整える間も幸恵は黙ってうどんを啜っていた。手早く歯を磨いてうがいをし、練習用のゴルフバッグを用意している間、夫も幸恵にそれ以上訊こうとはしなかった。カウンターの隅に転がっていた車の鍵を鷲掴みにすると、夫は声すらかけずに出て行った。目を見る事も、手を振る事もしない。これを夫婦喧嘩と呼ぶならば、互いに怒鳴りあったりいがみ合ったりするのは見るものには一体どのように映るのだろう。興味はあったがそれ以上知りたいとは思わなかった。他人に見られたくない事くらい、誰にだってある。それを興味本位という不躾な好奇心で満たそうとするのはそれこそ野暮のする事だ。
幸恵はうどんを食べている手を止めると、箸をお椀の上に揃えて置く。ザルに残されているうどんは夏の熱気と湿気にいいようにいたぶられているが、それを胃に運ぶのは少しだけ気が引けた。胃袋にはまだ若干の余裕があるが、急いで満たすほど切羽詰ってもいない。今の幸恵に必要なものは空腹を満たすという単純かつ生物的な欲求ではなく、人知れず溜息を吐けるだけの僅かな時間と気持ちを紛らわせるだけの精神的な余裕だった。期せずして独りになれた事に幸恵は素直に感謝した。今幸恵の目の届く範囲に鏡はないが、それでもこんな顔だけは誰にも見せたくはない。特に、翔子には。
この期に及んでも純粋に自分の事だけを真剣に考えていられる夫が、幸恵には羨ましくもあり、また腹立たしくもあった。どうしてそこまで自分の、自分だけの欲求や不満に忠実になれるのだろう。決してそれを悪いと言うつもりはない。人など一皮向けば誰も変わりはない。一度置かれている立場や状況が変われば、それはいつでも幸恵の身にも起こり得る。夫がそれをどれだけ理解出来ているかは甚だ疑問だが、それ自体を責める気もなかった。それを切々と説いて聞かせてやったら、夫は一体どんな顔をするだろう。そんな事を想像して、幸恵は誰にも見られないように――部屋には誰もいない事は解っていても――こっそりと笑った。
全く、いい気なもんよね。
それを言葉に変えて伝えたとしても、幸恵の胸の内にある意図がどれだけ伝わると言うのだろう。考えようとして止めた。それこそ時間の無駄だ。理屈ではない、感じるものなのだ。それを理屈で理解させようという事自体が既に間違っている事に、幸恵は今この瞬間になってようやく気付いた。出そうになった溜息を喉元で無理矢理飲み込むと、握っていた掌を開いて顎を載せる。そのまま窓の向こう側に見える夏の景色に視線を這わせた。
幸恵の胸の内にある気持ちを言葉に変えて夫に伝えようとは、殆ど全くと言っていいほど考えてはいない。それがどれだけ無駄な事かは、既に充分解っているつもりだった。夫を見ていればよく解る。
でも。私が感じている事の一欠片でも理解出来たら、あなたは一体どう思うだろう。
さっきまで箸を握っていた右手を無意識に握り締める。悔しさが握る拳に力を込めた。だがそれもいつしか緩んで掌が夏に湿気に包まれる。
きっと、解る日が来る。そう思っていなければやってられない。
一度だけ荒く息を吐くと、幸恵は表面が僅かに乾き始めたうどんを再び啜り始めた。