~第一章~ 恋愛模様 その1
開け放たれた窓から風が吹き込む。まるで軒先に吊るされた暖簾を揺らすように優雅に部屋に入り込んだそれは、窓と同じように全開にされていたドアからあっという間にその姿を消す。翔子は窓枠に肘を置くと、真上に差し掛かりつつある太陽を額に右手を翳して見上げた。さすがに直視する事は出来なかった。指の隙間から入り込む光を薄く目を閉じて遣り過ごす。今日も暑くなりそうだ。
翔子は窓の真向かいに位置している部屋のドアをもう一度見遣る。無遠慮なくらい豪快に開け放たれたドアから廊下の、そして一階の物音が微かに流れてくる。居間で聞く分には何ら問題のないテレビの音も、二階に届く頃にはノイズのような頼りないものに姿を変えていた。それがもう少し大きなものであればいいのに、と内心で舌打ちする。勿論、ここでテレビから漏れる音声を聞きたいなどと言った酔狂な趣味は持ち合わせていない。
ドアノブに引っ掛けていたバッグを肩にかけると、翔子は左手首に巻いている腕時計を睨んだ。十一時二十分。もうそろそろ行かないと間に合わない。胸に右手を置き、殊更に時間をかけてゆっくりと深呼吸した。部屋の入り口の陰から廊下をそっと覗き込む。人の気配がない事は既に充分解り切っていたが、万が一という事もある。恐らく、こういう状況に置かれた人を驚かせたら最高に面白いに違いない。逆の立場だったら是非一度やってみたかった。やられるのは死んでもゴメンだが。
踵から入り、爪先から抜く。息を殺し、気配を消してゆっくりと歩を進める。階段に近付くに連れ、頼りなかったノイズがまるでパズルのピースを嵌めこんでいくようにして本来あるべき音としての形を成していく。別段嬉しくもない。むしろ煩わしかった。テレビの音量が大きければ翔子の気配も少しは伝わりづらくなるだろう。だが単純にうるさいと、それだけで坂道で自転車のペダルを漕ぐようにしてイライラが加速していく。その煩わしさから解放されるには一つしかなかった。
階段を一段一段、踏み締めながらゆっくりと下っていく。この瞬間がいつも一番緊張する。階段を下りる時の軋む音を聞いて思った。ウグイス張りはただボロいだけだ、と。昔は連呼するぐらい激しく上り下りしても、泣き声はおろか呻き声すら上げなかったのに。この家も年を取ったのだろう。そう思うと人も家も変わらない気がした。這って上がった記憶もあるが、それがいつの事なのか思い出す事は出来なかった。そしてそんな余裕もなかった。居間から足音が近付いて来たからだ。慌てて階段を駆け上がる。それでも極力足音は消した。ここで気付かれたらここまでの苦労がシュレッダーに答案用紙を突っ込むようにして消えてなくなってしまう。そして鰹節のように寸断された削りカスを見て、きっとこう思うのだ。私の時間を返せ、と。
そんな翔子の願いが通じたのか、それとも偶々なのか、足音は廊下を通り過ぎると角を曲がって脱衣所に入った。程なくしてドアが閉まる音が聞こえる。そこから先の音は想像するだけで充分だった。もとい、想像したくもなかった。行くなら今しかない。手摺りの上の右手を滑らせながら、音を立てずに階段を駆け下りる。そのまま玄関に行くと、出しっ放しにしていたミュールに足を突っ込んだ。爪先に入り込んだ小石を人差し指で玄関に払う。
「早く行っちゃいなさい」
授業中居眠りしていて突然目覚める時より数倍激しく体が痙攣した。危うく玄関に落ちそうになったバッグを右手で掴む。心臓に手を当てたまま振り向くと、洗濯籠に山になった泥だらけのシャツをどう洗うか思案するような顔をした母が腕を組んだ姿勢で突っ立っていた。うんざりとした顔で溜息を吐く。
翔子は辺りを窺いながら小声で抗議する。
「ビックリさせないでよ!」
「解った。それは謝るから、お父さんが来る前に早く行きなさい」
口から飛び出しそうになった心臓をもう一度飲み込むようにして息を吸い込む。間髪入れずに息を吐いた瞬間全身から一気に力が抜けた。気を抜いたら尻餅を突きそうだった。きっとこういうのを腰が抜けるというのだろうな、と内心思った。抜けなくて良かった。今日は何があっても絶対に出かけたかった。
母は詫びるように片目だけ器用に瞑って見せると、目を閉じたまま小指で眉毛の上を掻いた。
「すぐ、出そう?」
「さあ。でも入る前に換気扇点けてたわよ」
父がトイレに入ってからまださして時間は経過していないが、まだ水を流す音は聞こえない。それがどういう意味なのか深く考えたくはなかった。このままここでじっとしていたら聞きたくもない声まで聞こえてきそうで、背筋の辺りが毛虫でも這うようにゾッとした。想像するだけで身の毛がよだつ。朝に食べたご飯とお味噌汁、それと納豆が複雑怪奇に混ざり合ったものがそのまま口から溢れそうになった気がして、思わず口に右手を当てた。
「のんびりしてるとそのうちトイレから出てくるわよ」
母は腕を組んだまま憮然とした態度で父がいるトレイの方を首を捻って睨んだ。
心臓には甚だ悪かったが、自分の事を気遣ってくれている事に変わりはない。そう思えば、感謝しこそすれ恨んだりするのは筋違いだ。
「ありがと、母さん」
「格好良い彼氏によろしくね」
おどけて手を振る母に、翔子は少し照れたように口を尖らせながらノブを捻った。ドアを開けた瞬間、湿気を含んだ蒸し暑い風が全身を覆う。普段なら不快に感じるそれも、今日はまるで歓迎するようにして勢いよく陽射しの中に飛び出した。
足音が少しずつ家から遠ざかっていく。それが完全に聞こえなくなった頃、幸恵は脱ぎ捨てられたサンダルに爪先だけ突っ込んでドアをロックした。指先に少しだけ残っていた湿り気をエプロンで拭うと腰に両手を当てて溜息を吐いた。
さて、どうしたものか。
遅かれ早かれ、夫も娘の不在に気付くだろう。それを思うと幸恵は心底うんざりした。おしゃぶりを失くした乳飲み子だってあんな大袈裟に騒いだりはしない。否、騒ぐのが夫なのだ。口に右手を当てたのはもう一度出そうになった溜息を堪えるためだ。別に吐いて何か不都合が生じる訳でもないのだが、日曜の朝っぱらから溜息を連発していてはこれから始まる一週間がより一層長く感じられそうな気がした。
廊下のフローリングが窓から差し込んでいる日差しを鮮やかに跳ね返している。所々で白い埃が薄っすらと積もって淡い層を成していた。その時になって、幸恵は部屋の掃除を予定に入れていた事を思い出した。こんな所で呑気に油を売っている暇がない事に気付いて、何より油を売るような事を長々考えていた自分に思い至ってもう一度うんざりした。面白半分に相談に乗ってくれた近所の友人に、「どんな旦那なの?」と訊かれて、ついうっかり「デート中に尾行して彼氏の家を本気で突き止めようとしている」と応えてしまった時に見せた反応が今でも忘れられない。「私はサゲマンなんだ」と諦める気持ちよりも、身内の恥を晒してしまった迂闊さよりも、そういう行動自体がそもそもまともではないという事実をまざまざと見せつけられた事がより一層幸恵をうんざりさせた。足を踏み外して階段を転げ落ちて大怪我をした方がまだマシな気がした。そちらの方が遥かに現実的だからだ。悪い夢を見た時頬をつねるように、痛みがあればそれは間違いなく現実に起こった事だと納得出来る。ただ、今回の一件はまだ感覚がそれについて行かない。何処かでそれを否定したいと思っている、そんな気持ちの顕れだと気付いたのは本当に最近だった。
両手を腰に置いたまま、今度は本当に溜息を吐いた。
夫がトイレに入ってからまだ五分と経っていないが、持病の切れ痔が再発していなければそろそろ出てきてもおかしくない頃合だ。ドアが閉まった時の音が聞こえていないとも限らない。それに、こんな所でいつまでも田んぼの真ん中で忘れ去られたカカシのようにボーッと突っ立っていられるほど暇でもない。
便器に跨っている夫の前を素通りして居間に行く。点けっぱなしにしていたテレビから流れてくるコメンテーターの偉そうなコメントを綺麗に聞き流しながら水道の蛇口を捻った。夏の暑さで熱された温い水が肌を撫でる。胸の中で鬱屈するこの気持ちも一緒に洗い流してくれればいいのに。視線を中途半端に浮かせたまま、幸恵はもう一度溜息を吐いた。