Nevicata
「ねぇ、思い出した?」
彼女は訊いた。
「何を」
俺は訊き返す。
地上数百メートルという高さの展望台は、真ん中から綺麗にちぎれて。取れた先端部分は逆さまになって、遥か眼下のビルに突き刺さっていた。まるで盃のようだ。
灰色に霞む地上。
雪に埋もれた世界に、動くものはない。
そこに一体何があったのか、俺は知っている。人が、獣が、機械が、どのようにして雪に埋もれていったのか。世界がどのようにして終わっていったのか。俺は覚えている。けれど、彼女が思い出せというものが地上の終焉の様子ではないことも、俺は覚えている。
「私のこと。それか、貴方のこと。それか、私たちのこと」
「知らない」
知らないから、そう答えた。知らないといえば嘘になる。だが、あまりにも隠されたものの多い中で、知っていると答えるのも烏滸がましい。
彼女は酷く苛立っているようだった。展望台は壁と天井が失われた今でもその機能を捨てていない。今でこそ雪の向こうだが、晴れてさえいれば眺めは良かっただろう。そんな場所で彼女は床にカーペット宜しく降り積もった雪を睨みつけ、淡々とした調子で地上へと蹴り落としていた。蹴り落としながら、少しずつ俺から離れていく。風は吹いていない。塊になった雪は、解れることはあってもまっすぐに落ちていくのだろう。
俺は代わりに空を仰いだ。雪は降り続いている。溜め息が白く曇って、灰色の空を背景に消えていく。
「どうしても認めないの?」
彼女の声は澄みきり、凍りつきそうな程冷たかった。
「何を」
「私のことと、貴方のことと、私たちのこと」
「知らない」
雪のように、淡々と降るだけのやり取りだった。
彼女の黒髪は艶やかに長かった。彼女が身動きする度に彼女の身体を撫で、緩く曲線を描く輪郭を空間に示していく。雪を蹴り落とす彼女の向こう側に街が、街だったものが横たわっている。温度のない灰色だけが、雪の白の間に所々顔を覗かせている。死者の顔のようだった。
地上の全ては炎に焼かれて、死んで灰色になった。俺はその灰の中から目覚めた。思い出すことなど、それ以降の経験しかない。もしそれ以前の「記憶」を思い出したのだとしても――――街の焼ける光景や、建物の崩れる音や、逃げ惑う人々の叫びを思い出したのだとしても――――それはある種、夢のようなものにしか過ぎないのだろう。
思い出している。けれど、そんなことは「知らない」。
「どうして認めないの?」
彼女は無意味な除雪作業をやめて立ち止まった。それから、まっすぐに俺を見据えた。
鋭い眼差しだった。
「知らないから」
俺はただ彼女を見つめていた。
「でも思い出してるんでしょう?」
「思い出してる」
「だったら」
「知らない」
俺の答えは変わらない――――変えては、いけないのだ。
相変わらず雪は降り続いている。足先が凍えて、徐々に冷たいという感覚が痛いという感覚に変わっていく。俺はゆっくりとその場で足踏みをした。靴の上に積もっていた雪を落とす。逆に彼女は雪を落とすやる気をなくしたようだった。酷く歪んだ表情で、じっと俺を見つめている。見方によっては、泣き出しそうな顔にも見えた。
「じゃあ、教えてあげるよ。何があったか」
彼女は酷く冷めた目をして、ぽつりと言った。
「私が言ったら、それが貴方の記憶と重なったら、認めて」
「何を」
「私のこと、貴方のこと、私たちのこと、全部」
俺は答えなかった。重なるに決まっていると思ったから。今までの繰り返しの中で、彼女の語ることと俺の思い出したことが合わなかった、という出来事は今までに一度もない。恐らくは、これから先もない。
「この世界を終わらせたのは、」
彼女だ。
「私」
ほら。
「でも、それは私の意志じゃない」
彼女は苦しげだった。彼女の右腕がそっと持ち上がって、痛みを堪えるように左腕を握り締める。
「私が貴方のことを思い出した時、勝手に世界は燃える。私の意志とは関係なく、唐突に……そして私が焼いた世界の灰から、貴方が目覚める」
知っている。毎度、そうしてきた。
目覚めた俺は彼女に誘われるままここへ上がり、こうして彼女と話を聞き、彼女の願いを聞く。俺たちの間で繰り返されてきたことだ。それは淡い雪のように、降ることはあっても積もりはしない。溶けて、なかったことになる。俺たちの時間は、重ねる度になかったことになる。
――――ただ、彼女が知っているのはそこまでだ。
「……ねぇ、合ってるんでしょう?」
「何と」
「貴方の記憶と」
語り終えた彼女はそう訊いて、ほとんど縋るような目で俺を見ていた。俺と彼女の間に雪が舞う。欠伸の出そうな程緩慢に。
そうだ。俺の記憶と彼女の話に齟齬はない。俺たちは確かに、繰り返されてきたそれの記憶を共有している。俺の記憶は夢なんかじゃない、本物の「経験」の記憶だ。そんなこと、嫌という程分かっている。彼女だって分かっているはずなのだ。それでも彼女は、俺がそれを認めることに執着する。何度も何度も、彼女は俺に認めることを迫る。
彼女は覚えていないのだ。記憶が欠けているのは彼女の方だということを、彼女は知らない。
「……合ってるよ」
思ったより諦念を含んだ声が出た。
彼女の顔が輝く。きっとこの辺りから彼女の記憶は曖昧なのだろう。これもまだ、繰り返しの一部だというのに。
「でも、認めない」
「どうしてっ」
彼女の声は最早叫びに近かった。
「どうしてそんなこと――――」
「むしろどうして」
「えっ」
完全に予想外だったのだろう、彼女はほんの僅かに不安げな表情を見せた。俺の推測が確信に変わる。
今回の彼女は、ここから先を「覚えていない」のだ。
「どうしてそんなに認めて欲しいの」
だからこそ、俺はいつものシナリオ通りに。
「それは……」
「それは、俺があんたと過ごした時間を認めることが、あんたの中にある《鍵》の消滅に関わるから。世界の終焉を引き起こす《鍵》が、それで消えるから。だろ」
要は死にたいんだろ。吐き捨てるように、心の中でそう付け足す。
本当は失望も怒りも、何一つ湧いちゃいない。いつだって俺の中にあるのは諦念だ。何も変わらない、何も変えられない、気付いた時には既に、この台本の上に乗せられている。それは彼女のせいでも俺のせいでもなく、誰のせいでもない、ただ「世界がそういう仕組みになっているから」という、ただそれだけのことで。
彼女の唇は寒さで悴んだ色をしていた。氷の彫像か何かのように、色を失って凍りついている。僅かに揺れる髪と降り続ける雪だけが、辛うじて時間の流れを感じさせた。
彼女に向かって、一歩を踏み出す。
「思い出してるよ。あんたは世界の終焉の扉を開く《鍵》だ。鍵がなきゃ扉は開かないが、鍵が自力で扉を開け閉めできるわけじゃない。そして、その《鍵》を消せるのは俺だけだ」
一歩。また、一歩。
「あんたは壊れてしまいたいんだろ」
もう一歩。
「何もかも捨てて、何もかも忘れて、ただの人として生きていきたいんだろ。《鍵》になんてならずに、終焉のない世界で平凡に生きていきたいんだろ」
自分でも驚く程、冷たい声が出ていた。
「そしてそれを願い出る為に、目覚めた俺の案内役まで買って出た。世界の終焉に立会い、味わい、見届ける、その痛みを代償に背負ってまで。……そうなんだろ」
今や彼女は手の届くところにあった。
その大きく見開かれた目に涙が溜まるのを、一体何度見たことだろう。きっと、彼女は何も言わずに頷くだろう。俺は泣き崩れる彼女を抱きしめ、その望みを叶えると嘘をつく。自分でも寒気がするほどの甘い声で。それから目を閉じるようにと囁く。目を閉じた彼女を抱きかかえ、そしてそのまま、展望台の下へ、灰色の雪原へ、虚無の中へ、彼女を投げ落とすのだ。まるで展望台に降り積もった雪を、蹴り落として片付けるように――――。
「――――違う」
彼女は、震える声でそう言った。
戦慄が走った。
……俺は、こんな展開は「覚えていない」。
「別に、人として生きられなくたって……いいよ」
彼女はその頬に涙の筋をつけた。
……「覚えていない」。こんな展開は「覚えていない」。
「私が貴方にしてほしいのは、そういうことじゃ、ない」
彼女は涙を流しながら、ゆっくりと両膝をついた。
身体が酷く冷えだした。目の前の雪原が急に白さを増したような気がした。彼女の曲線を描く輪郭が、その白の中に浮かび上がる。雪は酷く眩しかった。俺の目を射るように、俺の心を照らし出すように、俺の思考を、邪魔しようとするように。
俺は――――俺は、こんな展開は「覚えていない」……?
「――――じゃあ、何」
辛うじて吐き出せたものは、そんな言葉だけだった。
膝の力が抜けて、俺は意図せずして彼女と同じ高さになる。彼女の涙は止まりそうになかった。遠目に艷やかだった黒髪は近くで見ると雪に濡れていて、いくらかは彼女の白い頬に張り付いていた。凍えた色の唇は小刻みに震え。俺を見上げるその瞳は、吸い込まれそうなほどに深い、黒。
俺は今まで、彼女の何を見ていたんだろう。今目の前にいる彼女は、俺が見たことのない「彼女」に満ちていた。
「……どんな方法でもいい、から。この世界がもう……終焉を迎えないように、して欲しいの。《鍵》、なんて。なくしてしまってほしいの。それは、私という存在ごとであっても、構わないの」
今回の彼女は、俺には分からない。
同じことじゃ、ないのか。何が違うのか。何より何故、彼女は泣きながら微笑んでいるのだろう。彼女がどんな風に理由を説明するのか、俺は暫く考えてみたものの、何一つ分からなかった。何一つ知らなかった。何一つ覚えていなかった。俺は彼女の出すであろう答えを、思いつけなかった。
こんなことは今までにない。身体の、震えが止まらない。
「――――どうして?」
訊くしかなかった。
彼女のことを知りたいと思ったのも、初めてのことだった。
「私、思い出せたんだ」
「何を?」
「私のこと。貴方のこと。それから、私たちのこと」
彼女は、少し自嘲気味に笑みを深める。
「覚えてなかったのは、私の方だったんだ。貴方が「合ってるよ」って言う、その一言でいつも私の記憶は途切れてた……思い出せたんだよ。その後に、起こること。私が最後に、本当に最後の時に、経験していたこと――――」
雪が降っていた。彼女の上に。俺の上に。全ての上に。
いつもそうだった。いつだって、そうしてきた。
「――――貴方はいつも、私を下へ落とすんでしょう?」
そうだ。そう答えたいのに、声が出ない。中途半端に口を開けたまま、俺はただ彼女の言葉を聞いていた。
「いつも震えて、泣きそうな顔で、私を見てた……」
そうだ。いつもそうしてきたのだ。
雪と一緒に地上へ向かいながら、彼女はいつも、目を開けてしまう。目を開けてしまうと知っていながら、俺はいつも目を背けられない。動けない俺の視線の先で彼女は目を開き、俺の目を見つめ、それから、そっと微笑む。その口が、開く。「ごめんね」と、小さく動く。
彼女は謝るのだ。今みたいに。涙を流して。
「ねぇ。もう、やめにしよう……?」
彼女は、柔らかい声でそんなことを言う。それはどこまでも優しい声で、優しい言葉で。
――――なのに俺は、背に走る震えをはっきりと感じていた。
彼女に、心を開いてはいけない。開いてはいけなかった。記憶を、認めてはいけなかった。心臓が急に早鐘を打ち始める。視界をちらつく雪が俺を焦らせる。やってはいけないことだ。これは、何があっても守らなければならない決め事なのだ。なのに彼女が思い出してしまったから、それを知って、俺が台本を外れてしまったから。こんなことは今までなかったのに。このまま行けば、このまま彼女の言葉を聞けば、俺は思い出した記憶を認めてしまう、認めてしまえば、その記憶を認めてしまえば、彼女は。
彼女は、消えてしまう。なかったことになってしまう。
「私……」
「言うなっ」
彼女は怯えるように身を竦ませ。見開かれた目の中に、俺が映っていた。恐ろしく歪んだ顔で、追い詰められた獣の目をして。
「私は、貴方を――――」
「言うな、もう何も言うな――――っ」
――――彼女の言葉を、俺は彼女の喉で止めようとした。
体勢が崩れる。彼女の頭が雪に叩きつけられる。くぐもった声、呻き、震える喉、見開かれた目、零れ落ちる涙。彼女の気管を通りそこねた空気が鳴る。冷気が俺と彼女を撫でる。
彼女の手が、俺の手に重なる。
彼女の喉は温かい。彼女は温かい。彼女は生きている。彼女は人間だ。彼女は世界の終焉を開く《鍵》だ。何もできないまま、自分が存在するというそれだけで、炎に包まれる世界を見る。空から黒い雨が降るのだ。黒い雨は激しく地上を打ち据え、炎となって燃え上がる。それは獣を焼き、人を焼き、街を焼き、陸を焼き、海を焼き、世界の全てを焼く。干上がった海に灰となった大地が入り、世界は平面と化す。俺たちが約束の地と定めたこの街と彼女だけを、浮き上がらせるように残して。
彼女の手が俺の手に重なっている。
彼女は《鍵》の記憶を思い出すとそれ以前の生活の記憶を忘れるのだ。覚えている。夢のような淡い記憶の中に、ただの人として生活する彼女の姿がある。だけど、これは何なんだ。俺は灰から生まれるのに。灰より前の世界の記憶は一体何なんだ。俺は何なんだ。分からない。俺は何なんだ、どうしてこんなに分からないんだ、こんな分からない俺を導くこいつは、こんな分からない俺に優しくするこいつは、お前は、お前は何なんだ、お前がいると俺は、俺は。
彼女の手が俺の手に重なっている。
彼女は《鍵》の記憶を思い出すより前の世界の記憶を持っていない。俺は朧げにではあっても持っている。目覚める前の記憶を持っている。でもそれは燃え上がる街並みや、建物の崩れる轟音、人の焼かれる匂い、子供の泣き叫ぶ声、どれもこれも世界の終焉の光景ばかり。彼女はきっと、その光景をいくつも知っているはずだ。いくつもの終焉を見てきたはずだ。もう見たくないだろう。そうだろう。そう思っていい。何もおかしくない。だったら、なんで「彼女の最期」の話をしたんだ。ただ一言もう見たくないと言えばよかったじゃないか。なのに彼女は俺の話をした。最期に見る俺の話をした。何故だ。それさえなければ俺は、お前を落とすだけでよかったんだ、こんなに動揺して、こんなに焦って、こんなに苦しい気持ちになって、こんなに震えたり、泣いたりせずに済んだんだ、お前を、お前の死ぬ姿を、見ずに済んだんだ……。
彼女の手が、俺の手に重なっている。
その下で、彼女の首の骨が――――嫌な音を立てた。
終わった。
「…………散々だよ」
思わずそんな言葉が零れ落ちる。涙が止まらない。ゆっくりと、俺は彼女の上に座り込んでいた。雪はまだ降っている。喘ぐように息をする俺の口に雪が飛び込んで、消える。
叫んだ。
自分の下にある彼女の身体は柔らかく、温かかった。
彼女はもう生きていない。俺が、殺した。いつだって俺はそうするしかない。
彼女の死。それが世界の再生の《鍵》だ。俺だけがそれを知っている。《鍵》を作り直せるだとか、毎度彼女に言う言葉は、ただの出鱈目に過ぎない。彼女は俺を神か何かと思っているようだ。けれど、本当はそんなんじゃない。俺は特殊な期間にしか生きられないだけの、灰の中で目覚めて雪の中に眠るだけの、ただの、人間でしかない。ただ《鍵》の為に目覚めさせられて、用が済めば眠らされるだけの、人間でしか、ない。
――――それでも。
それでも、彼女には《鍵》でいて欲しかった。俺と同じ時間を生きて、俺と同じ記憶を持って欲しかった。俺と出逢って、灰と雪に埋もれた街を歩いて、そして俺と、同じ雪を見て。その大きく見開いた目に、俺の姿を映してほしいのだ。俺を、俺だけを、映してほしいのだ――――。
「ああ」
酷く、眠たかった。
彼女の手を下ろして、俺は彼女の喉から手を離した。彼女の目を、慎重に閉じた。少し、微笑んでいるように見えた。体が重い。彼女の隣に寝転がる。刺すような冷たさを感じる。
雪はまだ降り続いている。次に目覚める時も、きっと雪が降っているだろう。傍らには彼女がいて、俺が目覚めるのを見るなり微笑むのだ。探したよ、と。
少し伸ばした手が彼女の手に触れて。そっと、握った。
雪は降り続いている。視界が滲んでいても、そのくらいは見て取れる。けれど、空は心なしか明るく見えた。
雪の中に手をつないで眠る、なかなか悪くない。
例えひと時の夢だったとしても、俺にはこの時間しか与えられていないのだ。本当は他の全てが夢であればいい。世界の終焉も、黒い雨も、地上を這う炎も、全部全部俺の見る夢ならいい。でも、きっとあれは現実だ。彼女が俺に気付かなければ世界は終わらないし、世界が終わらなければ俺は目覚めないし、俺が目覚めなければ世界は再生しない。けれど世界の仕組みがどうしても俺たちをここへ招くから、俺たちがどうあがいたって、世界は焼ける。
だったら、こうして彼女と夢を見るくらい。
世界をひとつ巻き込んで、彼女と時間を重ねるくらい。
世界を再生させることを、彼女に会う「ついで」にするくらい。許されたって、いいんじゃないか。
目を閉じた。
俺と彼女の上に雪が積もる。
雪に埋もれた世界に、動くものはない。




