幸福な夜
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尽くして報いられざりし者、
捧げて顧みられざり者、
今なら、今なら私にも、そう侘しげに呟いた貴方のお心持がすごくすごく解るのです!
一
私は、忍従と諦めというものを幼い頃から知っておりました。産まれて間もない頃、母親のご主人様とその家族が話している内容など、今でもしっかりと覚えております。兄妹達と母の柔らかなお腹を枕にうとうととして夢見心地になっていた時の事です。
「雄はもう貰い手が決まったんだな」
「雌はやっぱり難しいわねぇ」
「でも捨てるのは可哀想だろう」
「えぇ、雌でも白い方は可愛らしいから大丈夫じゃない?」
「問題は黒い方か……雑種でお世辞にも可愛いとは言えんしなぁ」
「ご近所の茂川さんとこが、貰ってもいいって言って下さってるけれど、やっぱり白い子を欲しがると思うのよねぇ。皆似たり寄ったりの顔だったら良かったけど、何故か一匹だけ変てこな子が産まれたからねぇ」
人というものは、犬には人間の言葉などわかるはずはない、ましてや私のような小さな子犬には、人間の言葉も意味も到底理解出来ないなどと思っているのかもしれません。けれどもそんな事は大きな間違いで、私はちゃんと、しっかりと人の言葉を理解出来たのです。ご主人様達は、何も悪気があったわけではなく、私の事を心配しておられたのだと思います。
それでも、私は十分に打ちのめされたのです。黒い雌犬……それは兄妹の中で私一匹きり、つまり、私はこの時初めて、自分が人間の価値観の中では醜いものに値する事をはっきりと知ったのです。私を産んだ母は、いつもお乳を飲ませながら、
「あんたたちは、一月も経ったらよその人間に引き取られて、その家のペットになるんだよ。そういう運命なんだ。いい子にして沢山可愛がってもらうんだよ」
と、悲しそうに寂しそうにおっしゃっておりました。
私は大好きな優しい母と離れ離れにならなければいけないのは、すごく不安な事でした。しかし、それは運命で他の兄妹たちも同じなのだから、と諦めの気持ちもやっぱりありました。でも、ご主人様達の会話を耳にして、私はもっと大きな絶望的な不安に襲われたのでした。もしも、もしも私を引き取って下さる方が現れなかったら、兄妹の中で唯一真っ黒で、毛も短く、愛らしい子犬とは到底言えぬ私ですもの、そんな私を好んで引き取って下さる方に出会えなかったら、私は何処へいけばいいのでしょう? 母の言う「運命」という道すら与えられなかったら……私は本当に不安な気持ちで、すやすやと眠る兄妹達の中で一人眠る事も出来ずに怯えるのでした。
でも、でも、こんな醜い私でも、引き取って下さる方が現れたなら、私は一生その方に心を尽くしてお仕え致します。どんな酷い目に遭おうとも、その方を心から愛し、いい子でおります。
祈るような気持ちで、心の中で何度も何度も誓うのでした。
二
ご主人様たちのお話に出ていた(茂川さん)がいらっしゃったのは、それから一週間後の事でした。四匹兄妹だったうちの兄は一昨日太ったおばさんに連れていかれて、私達は三匹でいつものように母のお腹に寄り縋っていました。そこへご主人様がすらりと背の高い女の人と女の子を連れて部屋へと入って来たのです。
「ね、ね、お母さん、触っていい?」
女の子は無邪気に声を弾ませて、お母様と思われる女の人の手をしきりに引っ張っております。私は何だか恐ろしくなって、じっとその女の子を見つめて震えていました。恐ろしいというよりは緊張していたのです。選ばれなかったらどうしようという不安だったと思います。
「どうぞ、好きなだけ触っていいよ」
ご主人様が女の子のお母様の代わりにそう言うと、女の子は目を輝かせて駆け寄ってきました。キャッキャと歓声をあげながら、ご主人様よりもずっと小さな手で、おそるおそるといったように私達兄妹の背を撫でました。兄妹は、母のお乳を沢山飲んだ後だったので、ぐっすり眠っていて、女の子がちょっと触ってきたくらいじゃ、目を覚ます素振りもありませんでした。
私も同じようにお腹いっぱいにお乳は飲んだのですけれど、緊張で高ぶってしまっていてちっとも眠くはありませんでした。ただ、あまりに緊張していたものですから、女の子の手が私の頭に触れた途端、もう度を失ってお漏らししてしまったのです。
「あーあ、もう、この子はっ!」
呆れた声を出して、ご主人様がティッシュの箱を持って走ってきました。
私は、もう何もかもだめだ、とポカンとしている女の子に背を向けて、しょんぼりといたしました。女の子のお母様も少し苦笑しているらしい声が私の耳に届きました。
「真由ちゃん、どれか気に入った?」
ご主人様は、私のしでかした物の後始末を終えて、女の子にそう訊ねました。
「この子が可愛いねぇ」
うーん、と悩んでる様子の真由ちゃんという女の子の横で、彼女のお母様が口を挟みました。指差す先に居るのは、言わずもがな私ではなく、すやすやと眠る妹、白い柔らかな毛をふわふわさせた妹でした。やっぱり、と諦めもついていた私ですが、それでも寂しくて項垂れてしまいました。しかし、そのすぐ後に、奇蹟は起こったのです。
「うん、その子可愛いけど、あたしはこの子がいいな」
その言葉が聞こえた瞬間、私の体は宙に浮いていました。
「え? でも、この子の方が可愛いよ。ほら」
真由ちゃんのお母様は、やはり白犬の妹の方が気に入っているらしく、妹の頭を撫でながら驚いたように言いました。
「ううん、あたしはこの子がいいの!」
拗ねるようにそう言って苦しいくらいにぎゅっと抱き締められた時、あぁ私はどれだけ幸せだったでしょう。
私には可愛らしい小さなご主人様が出来ました。母の元を離れて新しいご主人様の家へと連れ帰られる時、冷たい風が私の鼻先に触れながらも体はご主人様の体温で温かく、初めて見る外の世界も気にならないくらいに、もう夢中に嬉しかったのです。
三
私は、新しくハッピーという名を与えられ、その名の通り幸福に満ちた生活を送る事が出来ました。やはり一番私を可愛がってくださったのは、ご主人様である真由ちゃんです。
小さい私を抱きかかえて、散歩に連れていってくださったり、こっそり買い食いなんてものをしたりも致しました。まだ小さい頃の私は、真由ちゃんの優しい腕に抱かれながらも、(これは本当に申し訳ない事ですけれど)自分が醜い事を存分に知ってしまっていたいじけた気持があったからでしょうか、いつもの散歩のコースとは違う少し遠いところに連れていかれる時などは、もしや、私を捨てるつもりなんじゃ、などと変な心配が起こってきて、クンクンと声を出して、彼女を困らせてしまう事もありました。しかし、そんな時は、きっと私の心を解ってくださったのでしょう、真由ちゃんは
「大丈夫、大丈夫よ、ずっと一緒」
と言って私の小さな頭に口付けてくださるものですから、私はもう安心しきって有頂天になって真由ちゃんの頬を一生懸命舐めるのでした。
次第に私も、遠いところへと連れていかれるのも平気になって、真由ちゃんとは色んな所へと遊びに行きました。もう私はすっかり甘えん坊になってしまっていて、一度、はしゃいで階段から転げ落ちてしまった時など、みっともなくも声を張り上げてキャンキャン痛がって、真由ちゃんが心配して抱いて下さると鳴き止み、それで安心して地に下ろされるとまたキャンキャン鳴いて痛がったりして、彼女を呆れさせてしまった事もあるくらいです。
全く、私は恥ずかしくも、可愛がられるうちに、自分も人間になって真由ちゃんの妹になったかのような気分でいたのでした。私の思っている事を真由ちゃんが敏感に察知して下さり、また私も人間の言葉も真由ちゃんの気持ちもしっかり解る気になっていたのですから、もう何の問題もなく、全て解り合える気でいたのです。
しかし、所詮は人間と犬、別の生き物、私は育ち盛りの真由ちゃんよりも早いスピードで大人になりました。私の体は小さな子犬ではなく中型犬へとなり、力もずいぶん強くなりました。真由ちゃんは小学校六年生になっても小さな方で、大きくなった私を抱きかかえる事は出来なくなりましたし、散歩も私がぐいぐい引っ張ってしまうと、疲れてしまうようでした。
私は子を二度産み、二度目は六匹も産まれてしまって、引き取り先を探すのがとても大変だったようで、去勢手術をする事になりました。それはもう恐ろしくて、私は取り乱してしまい、手術を終え茂川家に帰ってからも、何か色々怖くて、ずっと小屋に引き篭もってしまいました。
真由ちゃんが心配して私の様子を見に来ると、私も少し安心して彼女の手を舐めるのですが、やはり私を恐ろしい病院に連れていった真由ちゃんのお母さんを見ると、また恐ろしい目に遭わされるのではないか、と震えてしまって、二週間はお母さんからは逃げ回っていました。
今、考えてみれば何と大それた恩を仇で返すような行為だったでしょう。真由ちゃんのお母さんは何一つ悪くない、それに真由ちゃんの次に私を可愛がってくださった人でしたのに。
四
天罰、なんて言葉を使うのは憚られますが、私は今までが幸せ過ぎたのでしょう。そして、私自身が、幸せな過去を当然として、どこかで思いあがってしまっていたのでしょう。
茂川家で四年の月日を過ごした私は、改めて産まれたばかりの頃に感じた忍従と諦め、というものを身に沁みなければならないと思う事となりました。
去勢……という事はやはり私にとっては一大事だったのです。子を産めない体にされた今、私はやはり一つの生き甲斐を失ったのでした。何故、自分は生きるのか、なんて事は人間以外は考えもしないと思っておいででしょう? しかし、ただ何も考えずに生きていると思われております犬畜生だって、そういう事を考えるのです。人間の言葉が話せないから、人間の愛玩動物だからといって、人間より小さな脳しか持っておらずとも、ちゃんと考える事は出来るのです。楽しい、嬉しい、怖い、空腹、悲しい、そういう私達の刹那的な感情表現は、人間も察してくださるのですが、犬だってそれだけじゃあないのです。四年という人間にとっては短い時間の中で、犬だって立派に成長して考えを持つようになるのです。ただ食欲と睡眠欲、性欲(これは私は失くしてしまいましたが)だけが満たされていれば幸せと思えるような単純な生き物なぞ、もしかしたらこの世にはいないのかもしれません。人間だけが持つと思われている「自我」も私にはちゃんとあったのです。
私は、寂しい、と思いました。自分は、これからどう生きていくべきだろう、と思いました。 運命と小さい頃に教えられてはいたけれど、自分の子と離れ離れになるのは、寂しく辛いと思いました。そして、私はもう子を産む事が出来ない……そう考えると、少し真由ちゃんのお母さんを恨みたいような気さえ致しました。ただ一思いに恨んでしまえば楽なのですが、それでも、優しく頭を撫でて下さり、真由ちゃんが居ない時に餌を下さったりするお母さんを、いきなり憎んだり恨んだりは出来ないのでした。これは、餌付けされてるなんて軽薄な事では決してございません。はじめこそ、真由ちゃんのお母さんは、私の妹の方を欲しがっていましたけれど、茂川家に私が来てからは、全くそんな素振りも見せず、可愛がって下さったのです。そんな恩ある優しい方をどうして恨み切ってしまう事が出来ましょう。
そこまで考えて、私はやはり、今度こそ忍従と諦めを持つ者になる事に決めました。
何が何でも、真由ちゃんとそのお母さんに尽くして従って行こう、それこそが自分の生きる道だ、醜い私を引き取って可愛がって下さった方、その恩を忘れずに立派な飼い犬としての生涯を送って見せよう、私は人知れずそう強く誓ったのです。
五
闇に哀願するように掠れた遠吠えを聞いた事はありますか?
ただ鳴いているわけでも吠えているわけでもないのです。別れた愛しい我が子を思い声を枯らしているのです。
しかし、そんな事に気付く人間は居ますでしょうか?
私は、その声を聞くたび、やるせなく寂しい気持ちになります。この遠吠えの主は、一切を投げ打ってでも尽くし愛すべきご主人様を持たぬのか、子を失くした親の別の生きる道を知らぬのか、と。
真由ちゃんは高校に入ってから、何かと忙しくなったようで、散歩も週に一度あれば幸せ、同じ家(家の中と庭という隔たりはあったけれど)に住んでいながら顔を会わさぬ日もあるくらいでした。庭はひっそりと静まりかえっておりました。私は、そんな退屈な時間、隣の老夫婦の家に新たにやって来たパグと会話をする事が増えました。
「じいさんは俺に変な服着せようとするんだよ、あんなの鬱陶しくてしょうがないね。風呂だって三日置きに入れやがるんだぜ、かなわねえなぁ」
塀に小さな体を仰け反らせながら、パグは不満とも自慢ともとれる話を乱暴な言葉で致します。私はそれをほんの少し妬ましいような気もしながらも、黙って聞いてやります。
他の者と比べて、自分を幸せだと思ったり不幸だと思ったりするのは、何とも浅はかな事です。私は、忍従と諦めを強く自分に言い聞かせるのでした。私には素敵な優しいご主人様が居る、それだけで十分に幸せじゃないか、そう思って自分を慰めるのです。
「ハッピー、おいで。いい子、いい子」
そう言って頭を撫でて貰うと、私はすぅっと心が穏やかになって、すごく幸せな気分になれるのです。幼い頃のように毎日のように遊びに行けなくとも、抱き上げてもらえなくとも、私は幸せでした。真由ちゃんは、私を大事に思って下さっている、もうそれだけで充分な事だと私は思うのです。そうはっきりと思ったのは、私が老年にさしかかった頃、茂川家に来て十年という月日が過ぎ去った頃でした。
何かと茂川家から忘れられがちだった私の存在、というのも、茂川家はその頃、私の幼い時のような和やかで明るい空気は消え果ててしまっているであろう事は、私の小屋まで届いていた愉しげな笑い声が、険悪な口論やヒステリックな叫び声に変わってしまった事から私が想像した事でした。私はどうしたものかと案じましたが、庭に繋げられた犬でしかない自分、家の中へ飛び込んでいって仲裁なんてわけにも行きません。
さすがに不安になって、ワンワンと声をあげてみれば、真由ちゃんのお母さんがバタバタと出て来て
「ごめんね、ご飯あげるの忘れてたね、はいどうぞ」
と餌を置いてそそくさと戻ってしまう。言葉を交わせぬ身がもどかしく、もう再び吠える気力もない、そんな状態でした。
真由ちゃんは、痛ましいくらい悲し気な顔で、私の所へ来る事が増えました。真由ちゃんが来てくれるのは嬉しいけれど、泣きそうな顔をしているのはとても辛い、私は複雑な心境でした。
「もういや、大学なんて行きたくない、こんな家出て行きたい」
真由ちゃんはもう十八歳になっているのでした。世に言う受験勉強と言うものがどれだけ辛いものなのか、私は知りませんが、真由ちゃんの暗い瞳を見ると、きっととても大変な事なのだろうと私は想像しました。
「どうしても大学へ行けっていうの、私は専門学校に行きたいのに。お母さんもお父さんも本当に私の事なんて考えてないのよ」
私は、慰める言葉を持ち合わせておりません、でも真由ちゃんを本当に慰めたいという心は誰よりも持っていますから、真由ちゃんの瞳から零れる涙をひたすら舐めました。真由ちゃんが元気になってくれるようにと強く祈って。
「お母さんとお父さんを喜ばせたくて、勉強頑張ったのが裏目に出ちゃったな。ハッピーだけだね、私の事考えてくれるのは」
真由ちゃんは微笑んで私の頭と背中をいっぱいいっぱい撫でてくださいました。
「一緒に家出しちゃおっか?」
ぽつりと呟いた真由ちゃんの言葉、私はどれ程嬉しかったでしょう。私はこの時、本当に本当に、自分は産まれて生きてきて良かったと強く強く感じたのです。真由ちゃんが私に悩みを打ち明けてくれたのも、私が真由ちゃんの事を本当に大事に思っている事に気付いてくれたのも、全てが嬉しく、私がもし人間だったらきっと感涙していたに違いないでしょう。
私は、真由ちゃんと一緒なら、どんな所にでもついて行きます、どんなに悲惨なところであってもきっと幸福です、そう叫びたいくらいでした。
しかし、心から狂喜している私に気付かぬくらい、真由ちゃんはどこか遠い目をしてじっと考え込んだ後、
「尽くして報いられざりし者、捧げて顧みられざり者」
と、誰に言うでもなく侘しげに呟いて、とぼとぼと私に背を向けて家へと帰って行かれたのです。私は、人間の言葉は大抵理解出来るつもりでしたけれど、唐突に発されたこの言葉の意味は、よく理解できないでいました。「尽くす事」と「報いられる事」、「捧げる事」と「顧みられる事」はどうしても繋がりがあるとは思えなかったからです。報いを求めて尽くすなんて、それでは尽くすと言えないんじゃないか、と私は思っていたのですから。
六
それから二ヶ月が過ぎた頃の事です。ひっそりと静まり返っているか、荒々しい喧嘩口調の会話が響き渡っているかだった茂川家の中は、また昔のように親しげな声が聞こえてくるようになりました。
私は純粋にそれを喜んでおりましたが、それはすぐに私を奈落の底へと突き落とす事になったのです。
私は小屋の中で、真由ちゃんのお父さんの声を聞きました。
「真由、受験勉強頑張ってるなぁ。今日はいい知らせがあるんだ」
続いて、真由ちゃんの声がします。
「なあに? いい知らせって?」
「会社の同僚の飼ってる犬が子供を産んだから、一匹貰う事にしたんだよ」
その言葉をしっかりと聞いた私は、本当にびっくりしてしまいました。
「えー、でもウチにはハッピーが居るじゃない」
その真由ちゃんの言葉に、私はどれだけ救われた事でしょう。
「ハッピーは、もう歳だろう? それに貰う子犬はヨークシャテリアって言う血統証付きの上等な犬だ。小型犬だから家の中で飼えるし、可愛いぞ」
続いたお父さんの言葉に私は打ちのめされました。私の歳がどうとかよりも、新しく来るであろう犬が雑種の私なんかよりも立派な血統証付きの可愛らしい犬だという事は、私をとても惨めな気持ちにさせました。そして何より小型犬……幼い頃しか抱いてもらう事の出来なかった私と違い、ずっと真由ちゃんに抱いて貰う事の出来るであろうその犬、私は全身の血が逆流するような、苦々しい気分になってしまうのでした。
初めこそあまり乗り気では無かった風の真由ちゃんも、次第に心動かされたらしく、お母さんやお父さんと楽しそうに会話しているのが、嫌でも私の耳に入りました。
「名前は何にしようか?」
「うーん、女の子だよねぇ」
「ゲージとか首輪とか買いに行かなきゃ」
「じゃあ週末に皆で出かけよう」
そういう風に、もう茂川家の皆は新しく来る子犬で頭の中がいっぱいなのを、私は不安で寂しくて仕方がない気持ちで、じっと聞いていたのです。
もう、私は真由ちゃんにとって必要の無いものになってしまうのじゃないか、自分の居場所を奪われた気分で、私は情けなくて悔しくて、もうどうして良いのかわからないのでした。
あぁ、今なら真由ちゃんの呟いた言葉の意味、しっかりと解るのです。尽くして報われぬ、捧げて顧みられぬ事の恐ろしさ、私はただご主人様のために尽くして仕える事が幸せで、自分の生きる道だと思っていた中に、自分を愛して必要として欲しいという気持ちが強く根付いていた事を知りました。
私をどうぞかえりみて下さい、お願いです、私をかえりみてください。
哀願するかのように、私がぶるぶると震えました。貴方に必要とされなければ、私は生きている意味がない。
「どうしたの? 寒いの?」
真由ちゃんは、はじめて私の気持ちを察して下さいませんでした。たしかに、暦は十二月、空気は冷たく私の老体を蝕みます。でも、でも私が震えているのは、もっと別の寒さなのに。
私は寂しく、真由ちゃんの顔を見上げました。
「もうおばあちゃんだからねぇ、寒いのに耐えられないのかなぁ」
私は、しょんぼりと小屋へと震えながら引き返しました。
所詮、人間と犬、解り合うのは無理なのでしょう。やはり重苦しいものとなった忍従と諦めに私は縋るしかないのでした。
しばらくして、茂川家の中はいよいよ明るく快活な声が響き渡るようになりました。
「ラッキー、ラッキー、おいで、いい子いい子」
かつて真由ちゃんが私に下さった言葉も、笑顔もきっと新しくやって来た「ラッキー」とかいう犬が独り占めしているのでしょう。
私は空虚な気持ちで、その楽しそうな声をぼんやり聞いていました。
あれだけ心配した家庭の不和も、一匹の見ず知らずの子犬に全て解決させられてしまった。私の存在や私の心など、一つも力にならなかったというのに。
私はただただもう寂しかったのです。真由ちゃんは、毎日私の所にご飯を持ってきてくれますけれど、私がどんなにこの寂しさから震えても、
「寒いの? よしよし」
と私の背を撫でて温かい家の中へ帰ってゆく、それがとても寂しかったのです。
もう昔のように、私の気持ちを察して理解してくださらないのかと思うと、早く死んでしまいたいくらいに辛かったのです。
もう、何もする気力も、報われぬ事を知った時から無くなってしまっていた私ですから、小屋の中でぐったりしていた夜の事です。茂川家の中からは、いつもよりも大きな騒がしいくらいの楽し気な声が響いていましたが、私はそれに耳を傾けるのも虚しくなっていました。
その時、不意に私を呼ぶ声がしました。小屋から顔を出してみると、暗い闇に白い光が差しています。それは、勝手口のドアが開けられて室内から漏れ出た光でした。
「ハッピー、ハッピー、おいで」
真由ちゃんの楽しそうな声が、その方向から聞こえてきます。
私は重たい体を引き摺るように、その声の方へと進みました。勝手口の近くまで行くと、真由ちゃんが外の寒さに身を竦めながら、私の所まで歩いてきます。
私は、諦めてしまったつもりでいましたけれど、やっぱり真由ちゃんを目の前にすると、寂しい気持ちがこみ上げてきて、体がぶるぶると震えてくるのです。
「寒いよねぇ」
やっぱり真由ちゃんは、私の気持ちに気付かずに、そう言うのでした。私はただただ震えるばかりです。
「だからね、クリスマスプレゼントだよ」
真由ちゃんは笑って、私の体と同じ色の黒い毛糸のチョッキを私の前に出したのでした。
「これね、私が編んだんだよ。間に合って良かったぁ」
そう言って、私の足を持ち上げて、着せてくださったそれは、私の体にぴったりで、とても着心地の良いものでした。
私は、自然と自分の体の震えが治まってゆくのを感じました。
「あったかい? 良かった良かった」
真由ちゃんは嬉しそうにそう言って、私の頭をくしゃくしゃと撫でて家の中へと戻ってゆきました。私は、本当に温かい気持ちでした。
例え、言葉が通じなくても、私の気持ちを真由ちゃんが理解できなくなったとしても、私はもう一度真由ちゃんに本気で尽くしていこうと思えたのです。
私は真由ちゃんにプレゼントしていただいた毛糸のチョッキに包まれて、本当の幸福を改めて感じたのです。傍から見れば、今の私よりも、ラッキーという子犬の方が可愛がられているのでしょう、幸福な立場に居るのでしょう、でも、私は幸せな気持ちで居られるのです。本当に慕う者から、すこしでも顧みてもらえれば、何よりも幸せを感じる事が出来るのです。
私は、温かな気持ちと温かいプレゼントに包まれて、久しぶりに安らかな気分で眠る事が出来たのでした。
了
最後まで読んで下さった方、本当にお疲れ様でした。
勢いで最後まで書ききったもので、一応見直しはしたのですが、変なところとかすごい勢いで出てきそうなので指摘などしていただけたらありがたいです。
投稿、、、ギリギリになってしまい、申し訳ないですorz




