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参話:弥彦の選択

 母親の遺体は父親と共に葬った。

村の墓地は急速に広がっている。それは、この飢饉で死んだ者の多いことを意味していた。

供える花はないので、せめてもにと墓石には水をたっぷりとかけた。そうして惰性のように両手を合わせる。胸にぽかりと深い穴が穿ち、頭が上手く働かない。だから両親にかける言葉もみつからなかった。母親の遺体を見たときも弥彦は涙を流さなかった。ぼんやりと、その様子を眺めていただけだった。

「弥彦」

声をかけられ振り返ると、そこには西の外れに住む道万という名の男が立っていた。痩せた中年の男の姿を見て、弥彦はのろのろと立ち上がる。そうして思った。たしか道万の家でも人が死んだのだ。飢饉のはじめに道万の母、そうして最近でも末の子がひとり。

「……きくばあと、りんの墓参りですか?」

「お前も、おまつさんと太助のか? 」

「はい」

「……大丈夫か? 」

弥彦は頷いた。

雨は降った。しかし食料不足は続いている。

雨が降ったからといってすぐに米が大量に出来るわけではないのだ。村はまだ貧困に喘いでいる。だから、他人に助けを求める気には到底ならなかった。だから頭を一度下げて背を向ける。歩き出そうとすると再度声をかけられた。

「弥彦……おまつさんは、何か言ってなかったか? 」

「何か? 」

道万は一瞬、迷うように視線を泳がせた。

「夜に誰かが……訪ねてくる、とか……」

弥彦ははっと息を飲んだ。しかし道万は顔をしかめ、すぐに忘れてくれといって去っていってしまった。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





 風が鳴る。

 はたはたと音を立てて回る玩具をみながら、弥彦は新たなそれを地面につきたてた。

髪を、肌を撫でていく風は生ぬるい。

また嵐になるのだろうか。そんなことをぼんやりと思ったが、だからといって何をする気にも起こらなかった。

母親が死んで3日。弥彦はいつも通りの生活を続けていた。もう守るべき者は居ない。それでも惰性のように畑に行き、そうして夕暮れにはこの場所でかざぐるまを作る。頭で何も考えることが出来ない分、身体が勝手に覚えていることを繰り返していくのかもしれなかった。

 はたはたと風がなる。

 その時、ふいに背後から声をかけられた。

「坊、邪魔をするぞ」

「……」

茫洋とした瞳に飛び込んできたのは一人の男の姿だった。長髪を後ろで括った、古びた袈裟を着た若い男。

被っていた笠を取ると、周囲を走る風がその珍しい色の髪をなびかせた。夕暮れに金色の光がはじかれる。

 それはいつか、この場所で会ったことのある坊主だった。

「あんた……」

弥彦はぼんやりと声を出した。上手く働かない頭の中、それでも記憶の端にひっかかっていたのは、男が妹と関わったことがあったからだった。

そうしてその後、再会した時に自分はひとつ頼みごとをした。だからこそ覚えている。

「しばらく居ない間に、随分とひどいことになっておるようだのう」

坊主は飄々とした口調でそう言った。労わりも同情もその口調からは感じられない。 さも自分には関わりのない、といった暢気な表情をしている。以前はそれに苛立ったものだが、今は特に何も感じなかった。

 かわりに質問をぶつける。

「……妹には、伝えてくれたのか? 」

以前会った時に、弥彦は頼んでいたのだ。

 もしも妹に会ったら、俺を早く殺してくれ、そう伝えて欲しい、と。

 すると坊主はあっさりと答えた。

「伝えたぞ」

「……え」

「何を驚いておる。坊が頼んだんじゃろう? 」

「あ、ああ……」

弥彦は頷いた。まさか本当に会えているとは思ってはいなかった。それが本音だった。

坊主は腕を組みながら首を傾ける。金色の髪は木立の中でも明るく、それがさらりと肩口から落ちた。

「ただ笑ろうておったよ」

「……え」

「うれしそうに笑ろうておった。おぬしには死んでもらいたいんじゃろうて」

「……そうか」

弥彦は息を吐いた。

 わかっていることだった。だから衝撃はない。あとはみつが来るのを待つだけだ、そう改めて思った。

弥彦にはもう守るべきものがない。誰も側には居らず、そうして大事なものもいなかった。自分で自分の命を絶つことをしなかったのは、ただひとつ。ひとつだけ心残りがあるからだった。

弥彦は立ち上がる。そうして坊主に目をやった。

「ありがとう」

「ん」

深く頭を下げると、そこではじめて坊主が怪訝そうな表情を浮かべた。

「わからんのう、おぬしは死にたいのか? 」

「……」

「わしにはわからん。動物は自分からは決して命を絶とうとはせんからな。死ぬということは痛いし苦しいものだろう」

怒りや悲しみではない。ただただ不思議そうなその声音に、ちらと興味を惹かれた。

「……死にたいわけじゃない」

そう答えると、坊主はその青い瞳を瞬かせる。

「そうは聞こえんかったが」

「死ぬのは怖い。痛いのも怖い。だけど、このままじゃいけないんだ……」

弥彦は足元で回るかざぐるまに目を落とす。はたはたと回すそれは記憶を刺激し、いとけなく笑う幼子の姿が脳裏に浮かんでくる。

「おれは、みつに言ってないことがある」

助けを求めて血塗れの手を伸ばしていた妹。

 そうしてそれに応えてやれなかった自分。

「父ちゃんと母ちゃんを殺したのはみつだと思う。それは悲しいし辛い。……すごく、辛い。だけど、おれはみつをただ責めることだけはできない」

「だから死んでやるのか? 」

坊主の言葉は端的だが、確信をついていた。強張った顔面の筋肉はうまく働いてくれる気はしなかったが、それでも弥彦は軽く笑って見せた。

「……なあ、坊さま、あんたの名を聞いてもいいか? 」

「ん?……そうだのう、うん、ミツビと呼んでくれればよい」

「ミツビ……? 」

「ああ。三つの尾と書く。それで三尾」

「……変な名だな」

「まあそのへんの同胞からそんな適当な通り名で呼ばれておるだけだしな」

そういって三尾は笑う。

弥彦も笑おうとしたが、それ以上は笑えなかった。

だからただ、その顔を見上げる。

「じゃあ三尾さん、あんたはみつと話をしたといった。だからもしかしたら亡霊を払うとかいう神通力があるのかもしれねえ。だけどな……」

弥彦は三尾と名乗った坊主の不思議な色の瞳をみつめた。

そうして告げる。

「もしも今度みつを見ても、もしも村のやつから頼まれても、みつを殺すのは……滅ぼすのだけは、絶対にしねえで欲しいんだ」

弥彦は頭を下げた。それが、最後の願いだった。

「……どうか、頼むよ」






誰も居ない家の中はがらんとしている。火をおこすことも億劫で、弥彦は暗い座敷で寝転んでいた。

瞼を閉ざさずとも闇は深い。しんとした静寂の中、静かに夜は更けてゆく。

母親が死んで三日。

一日。二日。どんなに耳を澄ましても弥彦の待ち望む来訪者は現れなかった。

胸には風穴がぽかりと空いている。そこからは感情がすべて零れ出しているようだった。寂しさも悲しさも、恐怖も怒りも何ひとつ感じない。ひどく静かな気分で、だから弥彦はただ待っていた。


――りん。


 かすかな鈴の音が響いたのはその時だ。

弥彦はゆるりと目線だけを戸に向ける。やはり恐怖は感じない。それよりも胸を占めたのは他の感情だった。

――ようやく来た。

弥彦は三和土におりる。裸足の足裏から冷たさがじんわりと這い登ってきたが、少しも気にならなかった。

戸の向こうから音がする。それは鈴の音であり、何かが這いずるような音でもあった。そうして紛れもなく何かの気配。息を殺し、そうっと近づいてくるひとつの気配。

弥彦は息を飲む。りん、と再び音がした。この音には覚えがある。山に連れられていくみつが身に着けていた鈴の音だ。

それに確信して戸に手をかける。しかし軋んだ音と共に開いたその向こうには誰も居なかった。ただ、夜の闇が広がっている。

 りん、と音がする。弥彦は外に出て音の方に顔を向けた。おぼろげな月の光の下、広がるのは山へ向かう細い小道だった。その先は枝を広げる木々に覆われ、どっぷりとした闇に覆われている。

――その闇の中に白いものが居た。

弥彦の心臓がぎくりと跳ね上がる。背筋を冷たいものが伝い落ちた。

闇の中、滲み出るような白い色。人型をしてはいるが、遠すぎる為に顔の判別はつかなかった。

白いものが身動きをする。りん、と音が鳴った。

「……みつ……? 」

ようようにして出した声はひどく掠れていた。激しく心臓が動いていて、呼吸をするのも苦しかった。

「みつだろう……? 」

白いものが手を挙げる。そうしてそれをゆらゆらと動かした。

手招きだ、と思った瞬間に白いものが遠ざかる。弥彦は思わずその後を追った。

白いものの動きは速かった。足音も衣擦れの音もない。それなのに弥彦のほうを向いたまま、ゆるゆると遠ざかっていく。

「みつ! 」

白いものは応えない。弥彦は山の闇の中へと足を踏み入れた。必死に走り、白いものを追う。時折白いものはゆるりと手を動かしては、弥彦を招いた。

呼吸が切れ、喉を苦いものが通り過ぎる。ひゅうひゅうと響くのは自分の呼吸の音だけだった。ひたすら白いものを追う。どのくらい走ったのか、どのくらいの時間が過ぎたのか。それすらもわからなくなるぐらい弥彦は必死だった。


 やがて白いものが動きを止めた。

 かすかに広い空間の中、白いものがゆるりと振り返る。それがぎゅうと縮んだかのように見えたが、それは弥彦の気のせいだったのかもしれない。

弥彦はその数歩前で足を止めた。ぜいぜいと呼吸音が五月蝿い。手足が震えるのは疲労のせいなのか恐怖の為なのか、それずらも判別できなかった。

顔を挙げる。汗が瞳に入り込んでひどく染みた。

「……み…つ……」

瞬きをした瞳に飛び込んできたのは紛れもない妹の顔だった。

深い闇の中でぼんやりと浮かび上がるかのような白装束。それに負けないほどの白い肌の中、紅をひいたかのような赤い唇だけが艶やかだった。

どこも傷ついてはいなかった。最後に見た、ぼろぼろの肉塊ではない。それに泣きたくなるほどに安堵した。そうして次に、それに安堵した自分を嫌悪する。感情がせめぎあって、ただただ泣きたかった。

「みつ、おれ……」

涙を零す弥彦を見ながら、目の前のみつが小首を傾げる。

「あ、謝りたかったんだ……」

妹の信頼を裏切ってしまった。弥彦には、そのことだけが心残りだったのだ。

だから謝りたかった。悪いことをしたら謝る。それをみつに教えたのは弥彦だ。だからこそ謝りたかった。

「ごめん、ごめん、みつ……」

殺されるみつを見て恐怖した。拒否した。怖くて怖くて気持ち悪かった。そう思った自分が許せない。助けてやれなくても、最後にみつを安心させてやるぐらいは出来たかもしれないのに。

「ごめんな……」


くす、と笑う気配がした。




弥彦は瞳をあげた。目の前のみつは笑っていた。

右手を上げ、その口元に手を当ててくすくすと笑う。その拍子に手首に巻いている鈴がちりちりと音を立てた。

「……ごめん? 」

 その瞳がきゅうと細められる。どこか妖艶なその様は、弥彦の知っている妹のようには見えなかった。

 しかし口調はあどけないものだった。舌ったらずに甘い声が言葉を連ねる。


「にいちゃん、みつねえ、痛かったんだよ」

「すごくね、痛かったの」

「血がね、いっぱいでたんだ」

「でも、にいちゃんは助けてくれなかったねえ」

「とうちゃんもやめてくれなかったねえ」

「母ちゃんも助けてくれなかったねえ」


 どこか詠うようにみつは紡ぐ。

 そうして愛らしく微笑んだまま弥彦をみつめた。


「ねえ、みつねえ? 」



「うらめしい、んだよう? 」




 くすくすとみつは笑う。

弥彦はそんな妹をみつめていた。涙は止まらない。突きつけられた現実はひたすらに痛かった。

 みつは狂っている。

漠然とそう思った。みつの姿。みつの声。だけども目の前のみつは生前のみつではなかった。

狂おしいまでの自分達への恨み。おそらくそれがみつを変えてしまったのだろう。



――ならばそれは……自分の所為だ。



「どう、すれば……償える……? 」

みつは艶やかに微笑んだ。そうして手招きをする。ちりちりと鈴が鳴った。

闇の中、みつの細い手足だけが白く浮き上がっている。

「あのねえ、みつねえ、にいちゃんにも死んで欲しい」

みつは嬉しそうだった。

まるで新しい玩具を見たときのような目で弥彦を楽しげに見つめている。

「あのねえ、みつとおんなじ目に、あって欲しい」

「……」

「みつねえ、あたまをぐちゃって割られてねえ、めんたまをつぶされてねえ、ひだりてがもがれたの。首もね、はんぶんぐらいもげてたの。だからね、おんなじようになって欲しい」

弥彦の脳裏に浮かぶのはあのときのみつの姿だった。

 そう。あのときのみつの姿は本当にひどいものだった。意識があるのに身体を壊されていく感触はどのくらい辛いものなのだろう。それを考えると心臓が冷えるような気がした。

 しかし――それでも。

「……いいよ」

袖で涙を拭き、そうしてできうる限り笑って見せる。それでしかみつを癒せないのならそれで良いと思った。

みつは微笑んだ。どこまでも愛らしい笑みは素直に喜色を浮かべている。

「にいちゃん、だいすき」


――どうか、これでみつが成仏できますように。


弥彦は神に祈った。山ノ神。弥彦たちの村で讃えられている絶対の存在に祈る。


――どうか、どうか……。


みつが歩み寄ってくる。楽しげに、楽しげに。

そうして――。



弥彦の視界いっぱいに赤いものが広がる。





叫び声が、響いた。

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