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前章其の三:さんねんご

その家は深い闇に覆われていた。

厚い雲に覆われた夜空は暗い。

灯りのひとつもないその家はひどく狭く、乱雑に物が散らかっている。

囲炉裏端には誰もいない。家人はすべてその奥で休んでいた。

三和土と囲炉裏にはわずかな空間がある。

ひっそりとその場に座っていた男は、ふいに何かに気づいたかのように顔を上げた。

見開いたその瞳は獣のように光っている。

その奇妙な男はひとつだけ瞬きをし、そうして土間に向かって口を開いた。


「嬢よ、ひさしぶりだな」


ソレは答えなかった。

全身が薄汚れたソレは、大きな瞳を見開いたままじっと前を向いていた。

冷たく湿った土間の中で裸足で立ちつくし、そうして奥の座敷で眠る2人の人間を凝視している。

泣きも叫びもしていないその様は、明らかに以前の様子とは違っていた。


ふいに水の滴る音が男の耳に届いてきた。


ぴちゃり。


それは白を赤く染めていく音だった。

ソレの肌を伝い、襤褸の着物に染み渡り、そうして含みきれなかったものが白い足を伝って土へと滑り落ちていく。



「……言葉も忘れたか? 」

男の問いかけにもソレは答えなかった。

表情というものを根からごそりと取り去ったような顔でただ前をみつめている。

幼いその顔は黒い土や泥でまみれてはいるが、まちがいなく男の知る子供のものだった。



男はひそやかな息を吐く。

この家にはあやかしが巣食っている。

そうしてそれはこの家の人間が招いたものだった。

それは今も激しい負の感情の中に囚われて、どこにも動けずに居る。



男は青色の瞳であやかしを見やった。

そうして或る「伝言」を伝えた。


するとふいに、目の前のあやかしが声を洩らしはじめた。

禍々しい音の旋律。それはだんだん高くなり、しまいには耳を劈かんばかりになった。


それは、笑い声だった。



何がおかしいのか、何が嬉しいのか。

あやかしは今や狂ったような笑い声をあげている。




三つまえの秋にこの村を訪れたときのことを思い出す。

そのときはコレはあやかしではなかった。



あたたかい体温と匂いをした、愛らしいヒトの子供だった。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




弥彦は笹の葉をちぎりとった。

青々としたそれは決して食べられるものではない。

ちぎりとったのには理由があった。


風が吹く。

それに従い、はたはたとした静かな音がその場所を占めていた。



「おう。久しぶりだのう、小僧。確か……ええと、やひこと言ったか 」

ふいにかけられた明るい声に、弥彦は顔を上げた。

そうしてそこに世にも珍しい髪の色をした坊主の姿を見て瞳を見開く。

「あんた……」

「少し大きくなったなあ、いくつになった? 」

男の笑顔は屈託がない。以前会ったのはおそらく秋を三つは回る前だろう。

そのころとあまり風貌が変わったように見えないが、それでも着ている法衣だけはさらに年季の入ったものになっているようだった。

「数えで十三」

「ほうほう。大人の仲間入りか」

弥彦は黙って手にしている笹の葉を折り曲げた。丁寧に、折れないように。

そうしていると男が再度声をかけてきた。

「最近の作物の具合はどうだ? 」

「大分いい。最近は天の気が落ち着いているから、村のみんなは喜んでいる」

「そうかそうか。良かったのう。……そのわりに機嫌の悪そうな顔をしておるが」

男はからかうようにそう言い、そうしてふと気づいたように問いかけてきた。

「みつ、と言ったかの。妹はどうした? 」

弥彦は一瞬だけその手を止めた。

風が吹く。背後ではたはたと音がさざめいた。

「…死んだよ」

弥彦は答えた。

金の髪の坊主はその言葉にほんの少しばかり驚いたようだったが、やがて静かにつぶやいた。

「前の飢饉のときに、このあたりの村がヤマガミに嫁を出したときいたことがあるが……それか」

「そうだよ」

弥彦は答えた。手元だけを見ながら淡々と。

笹を折る。力を入れすぎた。

奇妙な音がして青い草の匂いが溢れかえる。

「みつだけじゃない。村の子供が5人選ばれてオヤコ様の嫁になった」

「オヤコ様……ヤマガミ、ねえ」

男はふうんと声をあげる。

その声に責めるような響きはない。

しかし、さも自分には興味がないといいたげなようすに何故だか苛立った。

「それからすぐに雨が降った。みつたちの、オヤコ様のおかげだ」

「そうかい」

「……」

「……」

「…なあ、あんたは坊様なんだろう。なら、見えるのか」

「なにがだ? 」

「死人の魂が」

「……」

「みつがおれらを恨んでいる。おれには、わかる」

「何かあったのか? 」

「………」


弥彦は男を見あげた。

有髪の坊主はそうめずらしくはない。しかし金の髪と青い瞳はひどく奇妙で、そうしてひどく珍しかった。

男が言うには、幼い頃に神託を受けたことがあるのだという。そのときに髪と瞳の色が変わったとも。

それは奇妙だが、少なくともただの僧侶よりはよほどご利益がありそうに思えた。

そのくらい男のその色は綺麗だったのだ。

だから弥彦は妹にもそう教えた。金の髪の坊さまは偉いのだと。


弥彦は息を吐く。

この坊主が本当に力があるものなのか、弥彦にはわからない。

しかし藁にでも縋りたい気分だった。

助けて欲しいのではない。

そうではないが、見る力があるのならばひとつだけ手を貸して欲しいことがあった。

「……村は豊作になるきざしがある。だがおれの家の田畑にだけ、稲が育たない」

「……ほう。それは面妖だの」

「とうさんは死んだ。かあさんも寝たきりだ。毎晩、みつが家の前に来るらしい」

「………ほう」

「……みつはおれたちを殺したいんだろう」

男が黙り込む。

「……なあ。じゃあ、見えたらでいいよ。伝えてくれないかな」





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・





にいちゃん。


ただいま、にいちゃん。




泥だらけになって泣きながら帰って来た妹。

あちこちに傷を負っていたのに、それでも必死にこの家に帰って来た。



父も母も。

そして弥彦も蒼ざめた。


みつのことは諦めていた。

諦めざるを得なかった。

なぜなら、村の話し合いで決まったことだったからだ。

食料不足は深刻で、今のままではどうあがいてもこの冬を乗り切るのは無理だった。

そこで働き手にならない女の子供を神の嫁に出すことにした。

この村の北にある山の神へ、嫁として子供を貢ぐ。

そうして雨乞いを祈願することが表の目的。

そしてもうひとつの意味合いは単純にして効果的なことだった。

すなわちそれは―。

「口減らし」の意味をも兼ねていた。




父親がぼそりと言った。


――仕方がない。


母も、弥彦も止められなかった。


生贄にしたはずの子供が帰って来た。

生贄に選ばれたいずれの親も身を切る思いで生きている。

その中でただひとり、みつだけが恩恵を受けることがどのようなことになるのか。

それは想像にたやすいことだった。

村八分ですめばよいほう。

最悪、かくまった一家もろとも禁忌を破ったものとして殺されかねない。



おいで、みつ。

怪我をしているだろう、まずは裏で、泥を流そう。


うん、とみつは頷く。

その笑顔は、自分がこれからたどる運命などひとかけらも知らない、無垢なものだった。

父親に抱き上げられて嬉しそうに笑う。

その父親が空いた片方の手に握ったものは鈍色をした鍬だったが、やはりみつはそんなこと気にもしていないようだった。


母は弥彦を抱いて震えていた。

残された息子にはせめて恐ろしいものを見せたくはなかったのだろう。

弥彦も震えていた。

耳を塞ぎ、そのときが過ぎ去るのをただ耐えていた。



しかし――。


気がついたとき、自分は家の裏に立ち尽くしていた。

何時の間にここに来たのだろう。覚えはない。

だから、彼は見てしまった。



小さな、小さなたったひとりの妹。

山の奥から必死になって帰って来た、そのぼろぼろの身体。

自分の上に鍬を振り上げた父親を見上げている、きょとんとしたあどけない姿。




その妹に鈍色のカタマリが振り下ろされていく――その、瞬間を。



そうして白が赤に変わり。

片方になった瞳が、それでも自分をみとめ。

赤く染まった左手が、かすかにかすかに、自分に向かって伸ばされて。



にいちゃん。


たすけて。


たす……。





「なあ、なら見えたらでいい。伝えてくれないか」


目の前の少年に表情はない。

手にしている笹の葉を器用に折り曲げながら淡々とつぶやいた。

そうしてその笹に竹を細く切ったものを刺す。

それは風を受けると回りだした。



男が首を巡らすと、あたり一面にその風車は存在していた。

乾いた音を立ててそれは回る。

回り続ける。



「どうか、頼むから」



無数の風の音があたりに満ちた。




「おれを、はやく殺してくれって」

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