世界のすべてを
この女は変わっていた。
俺の部屋に来ると、いつも窓辺に座り込んで月を見上げていた。
そして、何もない宙空に向かって手を広げる。
まるで、月をその手に掴み捕ろうとするかのように。
「こうして手を伸ばすと小さくて届きそうなのに……」
「何が?」
「でも、実際に近くに行くと、大きくてこの手の中には入らないのよね……」
「何を言ってるんだよ、お前」
この女は頭がおかしいのだろうか。
いつも月を見上げては、こんな話を繰り返していた。
灯を落とした暗い部屋の中で、女の白い顔だけがぼうっと浮かび上がる。
この女の整った顔が、ヤケに不気味に見える瞬間だ。
俺はそんな話にはまったく興味がないというのに。
用事があるのは、この女の身体だけ。
「ああ、欲しいわ……」
「月がか?」
「世界の、すべてが。月だけじゃなくてこの地球も。世界にあるもの、すべてを。この手の中に」
月明かりに浮かぶ女の顔が、やけに美しい笑顔になった。
恍惚として、どこかに意識を飛ばしているかのような笑顔だ。
世界が欲しい?
この女、大丈夫か?
こんなどうでもいい話を聞いていても仕方がない。
さっさと本題に入るとしようか……
「世界のすべてが欲しいのか? じゃあ、俺は?」
「勿論、あなたも含めてよ」
にっこりと笑って言うと、女は俺の意図がわかっかったのか、俺の身体にその細い腕を絡み付かせてきた。
俺の身体に絡み付きながら、欲しい欲しいとうわ言を呟く女を強引にベッドに押し倒すと、俺は自分の思いのままに女の身体を貪った。
その後、しばらくしてその変わった女とは縁が切れた。
飽きたって言うのが本音だ。
身体だけが目的だった俺は、あっさりと女を捨てた。
他に満たされる女が居れば、何も変わった女に執着する必要など無い。
新鮮な女に目が行くのは、男の本能ってモノだ。
俺がそんな刹那的な日々を送っているうち、ある噂が耳に入った。
あの変わった女は死んだらしい。
世界が欲しい欲しいと呟いていたあの女は、両手を広げながら、高い高いビルの上から飛び降りたというのだ。
地上に飛び散った彼女は、世界を手にしたくて飛び降りたのだろうか。
大きな地球に、その身を細切れに広げて。
女の鮮血で真っ赤に染まったコンクリートの道路を想像しただけで、吐き気がした。
その話を聞いた日――
俺が仕事から帰宅すると、郵便受けに一通の手紙が届いていた。
差出人の名前を見て、驚愕して目を見開く。
「あの、女だ……」
《世界のすべてが欲しい。……あなたも、含めて》
その手紙を見た瞬間、あの女の『欲しい、欲しい』と呟いていたセリフを思い出した。
背筋がゾクリと震えて、手紙を持った手が小刻みに震える。
「はは、まさかな。もう死んだ奴の戯言だ。……まったく、人騒がせな」
クシャリとその手紙を握り潰すと、俺はその手紙を投げ捨てた。
大きな地球の大地に、小さな自分の欠片をまき散らして広がって死んだ彼女は、すべてを手に入れたというのだろうか。
コンクリートの冷たい地面から何かの気配が足元に絡みついてくるのを、俺は気付かない振りをして歩き出した。
急激に目の前に広がった、真っ黒に染まって何も見えなくなった街の中を。
【世界のすべてを】
end。
お久しぶりになってしまいました。
ぬるいホラーです。(笑)
でも、こんな感じのドロドロが好きです。