百合漫画の打ち合わせをしていただけなのに。
放課後、莉乃と朝美は、莉乃の部屋で会議をしていた。
議題はひとつ。
『どんな漫画を描くか。』
莉乃は勉強机に背を向ける格好で、椅子に前後逆にまたがっていた。背もたれの上に両腕を重ね、その向こうにいる朝美と向かい合っている。肩先で切り揃えた黒髪が、身体を揺らすたびさらりと動いた。
その正面では、朝美がベッドに腰掛けている。莉乃より少し長い脚を持て余すように投げ出し、背中まである髪をゆるくひとつに束ねていた。
二人のあいだは、手を伸ばせば届きそうなくらいの距離。
机の上には、会議用に用意した真新しいノートとシャープペンシル。それから莉乃のスケッチブックやペンケースが、端へ追いやられるように積まれている。
莉乃は絵を描くのが得意だった。けれど、お話を考えるのが苦手だった。
逆に朝美は物語を考えるのは好きなのだが、絵の方はからっきし。
そんな二人が仲良くなったきっかけが、漫画だった。
もっと正確に言えば、『百合漫画』だった。
「まずは難しいこと考えずにさ、短編を一本描いてみるのがいいと思う」
朝美が言った。莉乃はその言葉に力強く頷いた。
「目標は、とりあえず一作品を最後まで描き切ることにしよう」
本格的に漫画を作るのは、二人ともこれが初めてだ。
壮大な世界観も、巧妙な伏線も、今はいらない。まずは一本。最初から最後まで、自分たちの手で漫画を完成させてみる。
「で」
莉乃は椅子の背もたれに両腕を乗せた。
「どんな話描こうか」
朝美を見る。朝美も莉乃を見る。
一秒。
二秒。
朝美の口元が、にやりと上がった。その笑顔の意味は、莉乃にもすぐわかった。
「「百合だよね!」」
ぴたりと声が重なった。
「だよねー!」
「それ以外なくない?」
お互い百合好き女子、ということで仲良くなった二人だ。記念すべき一作目に何を描くかなんて、最初から決まっていたようなものだった。
「一作目なんだからさ」
朝美がベッドの上で片膝を抱える。
「あれこれ小難しいこと考えるより、アタシたちの『好き』を詰め込めるだけ詰め込んでみようよ」
「賛成!」
莉乃が勢いよく手を挙げた。その様子に満足そうに朝美が頷く。
「ストーリーがどうとかより、まず描きたいシーンを妄想するの。それができる話を後から考える感じ。それなら莉乃も妄想できるでしょ?」
「うん、決まり!」
方針は決定した。
「じゃあ朝美。好きな百合シチュは?」
「うーん……」
朝美が顎に指を添え、眉間にしわを寄せる。
「いざ挙げろって言われると、悩むね」
「百合漫画いっぱい読んでるくせに」
「いっぱい読んでるから悩むんだよ」
「それはある」
しばしの逡巡。
やがて朝美が、ぽつりと言った。
「……突然のキス」
「おお……」
莉乃は朝美に向けて、ゆっくりと親指を立てた。
「いいね、突然のキス。私も好き」
「王道だけど、王道には王道になる理由があるのよね」
もう莉乃の頭の中では妄想が走り始めている。
「でもさ、ただ急にキスするだけじゃなくて、その直前まで普通にバカ話とかしてた方がよくない?」
「あー、わかる」
「で、ページめくった瞬間、ほんの一言で急に空気変わるの」
「いいねえ」
朝美が笑った。
そして、ごく当たり前のことのように言った。
「じゃあ、してみる?」
莉乃のにやけ顔が止まった。
「……え?」
朝美はほとんど真顔だった。
けれど、ほんのわずかに笑みを残したまま、まっすぐ莉乃の目を見ている。
「……キス、してみよっか」
「……朝美……」
部屋に静寂が落ちる。
さっきまで軽口を叩いていた二人の少女が、今は静かに目の前の相手だけを見つめている。
――もし今、どちらかがほんの少しだけ前へ踏み出したなら。
きっと二人はもう、今までと同じ友達ではいられない――。
「「 み た い な 感 じ ! ? 」」
二人の声が完璧に重なった。
「あはははは!」
「いい! いいよ今の!」
莉乃がぱちぱちと拍手する。
「でしょ!? バカ話からの急なシリアス展開、やっぱいいよね!」
朝美も膝を叩いて笑っている。
「早速メモしとこ!」
莉乃は椅子をくるりと回し、今度は机へ向き直った。ノートを引き寄せ、シャープペンシルを握る。
「えっと……『バカ話からの、とうとつなキス』……」
そこで、ぴたりと手が止まった。
「……あれ?」
「なに?」
朝美がベッドに座ったまま、莉乃の手元を覗き込むように首を伸ばす。
「『とうとつ』って、どんな漢字だっけ」
はあ、と朝美が大きなため息を吐いた。
「莉乃ってさ、ホント漢字弱いよね」
「うるさいな!」
莉乃はノートに向かったまま、必死に『とうとつ』の漢字を考えた。
「唐辛子の『唐』だよ」
「……とう?」
「だから『唐』!」
朝美は呆れた顔でベッドから立ち上がった。
「もう、書いてあげる。貸して」
朝美が莉乃の横からノートを覗き込もうと身を屈める。
「いいよ、自分で思い出す――」
ほとんど同時に、莉乃も文句を言おうと振り返った。
「――から!」
その瞬間。
二人の顔が、あわやぶつかりそうになる。
「……」
「……」
固まった。
近い。近すぎる。
莉乃の視線が、ゆっくりと下がった。
一度、朝美の唇で止まる。
またゆっくりと上がって。
二人の目が、もう一度合った。
――世界から、すべての音が消えた。
聞こえるのは、二人の胸を打つ鼓動だけ。
この距離が、あとほんの少し縮まってしまったら。
二人はもう、友達ではいられないのかもしれない――。
「「 み た い な 感 じ ! ? 」」
「ぶはっ!」
二人はお互いを指さして笑った。
「いいよね! どっちかが積極的にいくんじゃなくて、偶然のドキドキ!」
「わかる! 事故みたいなやつね!」
二人は笑いながらハイタッチする。ぱぁん、と乾いた音が部屋に響いた。
「じゃあ、どっちにしよっか」
朝美が腕を組む。
「偶然のドキドキか、強引な好意か」
「ちょい待ち!」
莉乃が声を上げた。
「なに?」
「今の、『強引な好意』って言葉いいね」
ビシッ!と音がしそうな勢いで朝美を指さした。
朝美が一瞬考えて。
「あ」
笑った。
「『好意』と『行為』のダブルミーニング」
莉乃が膝を打った。
「いい!!」
思いっきり親指を立てる。
「じゃあ、たとえば……」
朝美は立ったまま、両手を胸元に添えて目を閉じた。ほんの少し、芝居がかった声を作る。
「彼女が向けた強引な『好意』は、やがて抑えきれない衝動となり……」
「うんうん!」
「ついには、強引な『行為』へと――」
「きゃー!!」
たまらなくなった莉乃が立ち上がり、そのまま朝美の肩を押した。
「わっ!」
「あ」
目を閉じていた朝美の身体が傾く。
「ごめん!」
莉乃が慌てて腕を伸ばす。
けれど、支えきれない。二人まとめて、ベッドの上へ倒れ込んだ。
ぼふっ、と布団が沈む。
莉乃の両手が、朝美の顔の横についていた。
仰向けになった朝美。
その上から覆いかぶさるような形になった莉乃。
目が合う。
「……」
「……」
――近い。
触れようと思えば、すぐに触れられる距離。
胸の高鳴りは、突然倒れ込んだから?
それとも。
今、腕の中にいるのが、彼女だから――?
「みたいな感じ!?」
莉乃が身体を起こしながら笑った。
しかし、今度は、声が重ならなかった。
「……あれ?」
莉乃の笑い声が止まる。笑顔のまま、朝美を見る。
「今のは違った?」
朝美はベッドに仰向けになったまま、起き上がらない。
右手を胸元に当てている。視線は莉乃から逸れていた。
唇を、きゅっと噛む。
「……朝美?」
莉乃の声からも、ふざけた調子が消えた。
ややあって。
朝美が、小さく息を吐いた。
「……今のは、ずるいよ」
「朝美……?」
「だって」
朝美が、ゆっくりと体を起こして、莉乃を見る。
「私は、ずっと莉乃を見てたから」
「……え?」
「絵描いてるときとか。漫画読んで笑ってるときとか。くだらないことで怒ってるときとか」
「そんな……」
「莉乃が思ってるより、ずっと見てた」
莉乃は何も言わない。
朝美も笑わない。
「あんなベタベタなことされたらさ、意識しちゃうじゃん……」
「……」
「莉乃」
朝美が胸元に置いていた手を伸ばす。
その指先が、莉乃へ向かって――
「「 み た い な 感 じ ! ? 」」
「うわあああああ!」
「やばいよねえ!!」
二人は笑顔で向きあって叫んだ。
莉乃が朝美の肩をばしばし叩く。
「いいじゃん! 今の使おうよ!」
「使う! 絶対使う!」
「強引な好意からの『冗談だよ』→『まさかの相手からの告白』!」
「やばい! マジやばい! 語彙力!」
二人はまた声を揃え、笑い転げた。
机の上のノートは、いつの間にか思いついたシチュエーションで埋まっていた。
突然のキス。
偶然、顔が近づく。
強引な好意。
からの相手の告白。
ほかにもいくつか、どう考えても一本の短編には入りきらないようなものまで書かれている。
しかし、舞台や主人公たちの設定などなど。肝心なものは何一つ決まらないまま、結局は百合シチュ大喜利になってしまったのだった。
* * *
「じゃあ、次はちゃんと進めようね。会議」
「だね。これじゃいつまで経っても描き始められないもん」
玄関で、二人は笑い合った。
窓の外はもう、すっかり夕方の色になっている。
「明日までに、これぞってやつをひとつだけ決めとくこと!」
朝美が人差し指を立てる。
「オッケー!」
莉乃は親指を立てた。
「じゃ、また明日」
「うん。またね」
朝美が玄関を出ていく。
莉乃はその背中が門の向こうへ消えるまで見送ってから、家の中へ戻った。
二階の自室へ上がる。
さっきまで二人で笑い転げていた部屋は、一人になると妙に静かだった。
ベッドの布団には、二人で倒れ込んだ跡がまだ少し残っている。
机には、ほとんど何も決まらなかった漫画会議のノート。
莉乃はそれをちらりと見てから、窓へ向かった。
カーテンを閉めようと手を伸ばす。
なんとなく、外を見た。
家の前の道。
少し遠くに、朝美の後ろ姿があった。
ゆるく結んだ長い髪が、歩くたびに左右へ揺れている。
莉乃はカーテンに手を掛けたまま、その姿を見つめていた。
朝美が歩いていく。
少しずつ、小さくなっていく。
曲がり角の向こうへ消えるまで。
莉乃は、ずっと見ていた。
「……みたいな、感じ?」




