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第5話 「空鯨の海」




視界が、滲んでいた。


それは、火傷の痛みでも、冷気のせいでもない。


ただ──


「……リコ……」


ロウの声が、空に溶ける。


膝に抱いた少女の身体は、小さく、細く、

さっきまで空を舞っていたとは思えないほど静かだった。


肩は痙攣している。

呼吸は浅いが、生きている。


「……ごめん」


誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。


「……おれ、……遅かった」


その手が、リコの背をそっと支える。

それはまるで、壊れものを扱うような優しい仕草だった。


だがその瞬間。


ドォン……ッ!!!


空が、うねった。


《シェルヴェン》が、再びこちらに向き直る。

巨体を揺らし、怒りの尾を振り上げた。


逃げ場は──ない。


「……っ……来る……!」


一人のハンターが悲鳴のように叫んだ。


だが。


ズバァアアアアアアアアッッ!!!


氷を割り、空気を押し裂くように──ロウが動いた。


リコを地面に寝かせた、その次の瞬間。

彼は、風よりも速く走った。


嘘みたいに速く。

さっきまで“のしのし歩いてた”男とは、まるで別人のように。


足元の氷を踏み砕き、全力で駆ける。


「──ロウ!?」


誰かが叫ぶ。


ロウは答えなかった。

ただ、走った。


涙を、流しながら。


重力すら振りほどくように、跳んだ。


そして。


ドッ──!!!!


《シェルヴェン》の尾が、降りきる直前──

ロウは、その下に飛び込み、全身で受け止めた。


氷が砕け、風が裂ける。


だが、ロウは倒れなかった。


「……ッ……!」


巨体が、踏みとどまる。


その肩から、血が噴き出す。

けれど、崩れない。


ハープーンを盾のように構え、

そのまま《シェルヴェン》を押し返す。


「……いけ……リコ……!」


呻くように、吐き出した言葉。


「……いま、しか……ない」



氷原に寝かされたリコが、薄く目を開けた。


風が頬を打つ。

焼けた氷の匂いがする。


(……ロウ……?)


かすかに、声が聞こえた。


──いま、しか──


その言葉に、身体が勝手に反応する。


(……まだ、終わってない)


起き上がる。

両膝をつきながら、剣を手に取る。


目の前には、傷ついた巨影。

その隙を、ロウが必死にこじ開けている。


「バカじゃないの……泣いてんじゃん、もう……」


呟いた声が、笑っていた。


立ち上がる。


「──なら、畳みかけるのが筋ってもんでしょ」


両の手に、双剣。


傷だらけのちびオーガが、

火を継いで再び駆け出した。


風が鳴った。

氷が割れる音と、火の爆ぜる音が重なった。


《シェルヴェン》の身を捻る動作が鈍い。

さっきのロウのハープーンが、肋の奥まで食い込んでいるのだ。


リコは、そこに跳び込んだ。


「──通してッ!!」


小柄な身体が、氷を蹴る。

ギルドのハンターたちが、一瞬その姿に目を奪われた。



「……いや、速すぎるだろ……何あれ……?」


「ちっちぇけど、オーガみてぇだな…はは……」


“ノラバリのロウ”に並び称される、ギルド都市伝説の一角。後に語られる、その二つ名──


“ちびオーガ・リコ"


戦闘時、スイッチが入った彼女の動きは、理屈を超える。


肉を避け、骨の間をすり抜け、刃が氷の裂け目を割っていく。


「ここ──!」


リコは両手の双剣を交差させた。


カッッ!!


火矢の破片を刃にこすりつけ、火花を走らせる。

再点火──刃が灼熱の赤に染まる。


「……燃えな」


双刀・終式──炎牙連閃えんがれんせん


ズバァァァァァァアアアアッッ!!!


跳躍しながら、連撃。

刃が脳と心臓を繋ぐ“接合核”へと深く抉り込む。


火。衝撃。血飛沫。悲鳴。


《シェルヴェン》が、叫ぶ。

それは、空そのものが悲鳴を上げるような音だった。


大気が凍てつき、次の瞬間──


沈黙。


ゆっくりと、空鯨の身体が傾き始めた。

崩れる氷。

しがみついていた風の力も失われたかのように、

それは、空から墜ちていく。


「……落ちる!」


誰かが叫んだ。


ロウが、走った。

リコに向かって、腕を伸ばす。


ギリギリのタイミングで、空中のリコをそのまま抱き止める。


「……ナイス」


「……うん」


ふたりが見上げた空。


伝承に記された空鯨シェルヴェンが──

ゆっくりと、その命を終えようとしていた。


尾が、氷を割り。

牙が、雪に沈む。

そして静かに、巨体が横たわる。


伝承に刻まれた、“空を裂く者”の最期だった。



リコは、息を吐いた。


「ふぅ……おっけ。

 んで、今夜なに食べる?」


ロウが小さく笑った。


「……おれ、豆でいい」


「バッカじゃないの!? あたし、6人分食べるよ!?

 えーっとまず肉、パイ、スープ、あと甘いやつも──」


「……また……オカズ取られる……」


「当然でしょ」


ふたりは、笑った。


戦場に、火の残り香と笑い声が、静かに広がっていった。


勝利の夜は、意外とあっさりやってきた。


ギルド本部の宴会場。

いつもは無骨な石造りの広間が、焚き火と喧騒で満ちていた。


「とりあえず乾杯だああああッ!!!」

「乾杯ッ!!」

「生きてるって素晴らしいーーッ!!」


天井の梁が折れるんじゃないかってくらいの大騒ぎ。

その中央、ひときわ小柄な少女が、既に三杯目のスープを啜っていた。


「んー、やっぱ芋のスープが最高〜。あとこの肉、たまらん。ロウ、肉取って」


「……さっき取ったばかり……」


「今のは腹の準備運動」


ロウの目の前には、

**「皿を空にするたびに“次”を要求するちびオーガ」**が座っていた。


その姿を見て、周囲のハンターたちはひそひそと囁く。


「……あの小娘……“ちびオーガ”って、マジだったんだな」

「俺の五人分は食ってる……」

「あの巨体のロウがオカズ取られてんの、草」


「てかロウって、しゃべらねぇし表情ないし……もしかして、いじめられてんのか……?」


「それな……オカズ取られても何も言わねぇし」


「泣いてんの見たってやつもいたぞ?」


「“ノラバリのロウ”、じつは悲しい獣だった説……」


ロウ「…………」


(ちがう……いや、ちがわない……)


彼は黙って、皿に残った豆をひとつずつ食べていた。



一方その頃、リコはというと。


「おかわり!!」


大皿を両手で掲げ、ギルドの給仕をドン引きさせていた。


「お、お前……何人前だよ……」


「このくらい普通でしょ? 戦ったんだよ? 命懸けだったんだよ?」


「お前は、オーガかよ……」


「……ちびオーガだよ」

リコが、笑った。


ハンターたちが、その一言に一拍置いて、爆笑した。


「うわっ、自覚あるんだ!?」

「いや開き直ったッ!」

「最高じゃねぇか、あのコンビ!」



その夜、誰かが言った。


「今回の討伐、正直やべーって思ってたんだよ。

 けど……あいつらが来てくれて、命拾いした」


「“ノラバリのロウ”と“ちびオーガ”な……」

「ギルドの伝説、また一行、増えたな」



宴が終わる頃、広間の灯りが少しずつ落ちていく。

外では風が止み、空に星がまたたいていた。


リコは満腹で、床に座り込んでいた。


「ふぃ〜……くるしい……もう食えない……」


その隣に、ロウが静かに座る。


「……食べすぎ」


「だって、戦ったし……」


「……うん。……お前、つよかった」


「ふふん、当然」


リコが小さく笑い、ロウの腕に寄りかかる。


「……ま、あんたも、ね。……泣いてたくせに」


「…………」


ロウは何も言わず、顔をそらした。


でもその耳が、ほんの少し赤く染まっていたのを、

リコは見逃さなかった。



こうして、

伝承と火と、少しの涙を乗せた第1章は──


ひとつの夜とともに、静かに幕を下ろした。


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