第4話 「氷殻の空鯨 シェルヴェン」
空は低く、灰色に沈んでいた。
北海嶺──その急峻な崖と氷原の境目に、無数の影が転がっている。
壊れた槍、裂けた外套、崩れた弓──
いずれも、ギルド大隊のものだった。
「……最悪」
リコが息を呑む。
山の稜線を越えた先、見渡す限りの戦場。
その中心に、それはいた。
巨大な影が、空をゆるやかに漂っている。
腹部から氷の鱗が垂れ下がり、体表を覆う殻はまるで氷河の塊。
その輪郭すら、現実味を拒むような“重さ”を放っていた。
「……空鯨、《シェルヴェン》」
伝承に記された、六頭の“空を喰らう鯨”の一。
初代ギルド創設者がその名を記した、最初の怪物。
「……やっぱ、これが“本物”だよ。間違いない」
背後で足音が一つ。
「……風……止まった」
ロウが、ぼそりと呟いた。
「ああ、凪だね。狩りが始まる前の」
ふたりは歩き出す。
氷と血の入り交じる戦場へ。
⸻
瓦礫の間を縫い、リコは身をかがめる。
倒れたハンターの傍らに落ちた矢筒を拾い、一本、二本と火薬を確かめる。
「これ……火矢。使える。あーー自前のなんで置いてきちゃったんだろッ!」
「……使うの……お前だけ」
ロウの目は、空をゆく巨影から離さない。
「うん。手数が足りないのは分かってる。けど、まずは“試し”で一発──」
リコは弓に火矢をつがえた。
キィ……
弦が張られる音が、異様な静けさの中に響く。
「狙うのは──あそこ、“首の付け根”」
シュッ!
矢が風を裂いた。
その一本は、確かに《シェルヴェン》の氷殻を貫いた。
鈍い音を立て、細かい氷片がはじけ飛ぶ。
「……効いてる。やっぱ、氷は熱に弱い。あの厚い殻も……焼ける」
「……でも、一発じゃ……」
リコは歯噛みする。
火矢は、いま拾った数本しかない。
(単独じゃ無理だ──援護が、いる)
崩れた岩陰から、数人の生き残りハンターがこちらを見ていた。
彼らの目には、リコの撃った一矢が、わずかな希望となって映っていた。
「……ねぇ、そこのあんたたち! 火矢、持ってるでしょ!? 撃って! 撃てるだけでいいから!」
一瞬の沈黙。
やがて、一人が立ち上がる。
血まみれの顔で、うなずいた。
「……了解!」
「いくぞ……一斉に!」
シュッ! シュバッ! ズガッ!
複数の火矢が、《シェルヴェン》の体表に突き刺さる。
氷殻が割れる音が、空気を震わせる。
それは、怪物を怒らせるには十分すぎた。
グオオオオオオォ……
深海から響くような咆哮が、空を揺らした。
巨大な影が、ふわりと旋回する。
狙いは──火を撃ったハンターたち。
「──来るっ!」
リコが叫んだその瞬間。
空気が裂けた。
その先に、巨影の触手が振り下ろされる。
ハンターたちは逃げきれない──!
だが。
「……ッ」
風が、逆巻いた。
巨腕よりも速く、巨大な武骨のハープーンが唸りを上げて回る。
ぶんまわし。
「──ロウ……!」
その一撃は、空から落ちてくる触手を弾き飛ばした。
着地の衝撃で地面が揺れる。
火花を上げて回転を止めたロウの影は、静かに立っていた。
「……オレが、止める」
静かに、ただ一言。
ぶんまわされたハープーンの軌跡が、空を裂く。
《シェルヴェン》の触手はその一撃に弾かれ、凍てついた氷片を散らしながら後方へ跳ねた。
「……は?」
生き残りのハンターのひとりが、呆けた声を漏らす。
「あ、あの巨体、押し返した……? 人間が……?」
リコも目を見開いていた。
何度も見てきたはずの、ロウの戦い方。
だが、いま目の前で繰り出されたそれは、まるで別物だった。
(重さが違う。気配が違う……)
「……あれが……本物の“ノラバリ”だ……」
誰かがぽつりと呟いた。
⸻
ロウの足が、氷上を踏みしめる。
その歩みは遅い。だが、止まらない。
「……援護、たのむ」
その言葉とともに、ハンターたちが再び動き出す。
シュッ! ズガガガッ!
火矢が放たれ、次々に《シェルヴェン》の氷殻を焼いていく。
空鯨は唸る。
怒りと痛みに満ちた咆哮。
体を翻し、空中でぐるりと回転。
尾の先で地面を薙ぎ払おうとするが──
「……まだ、だ」
ロウが、柄を握り直した。
巨大なハープーンを、肩に担ぐ。
そして、地を蹴った。
「……ぶっとばす」
咆哮とともに、ロウの突進が始まる。
氷を割る重み、風圧を引き裂く動き。
まるでそれは、鋼鉄の塊が生きて動いているかのようだった。
そして──
ズドォォォォンッ!!
ハープーンの槍先が、《シェルヴェン》の頬を貫き、巨体がのけぞる。
巨鯨が、一瞬、動きを止めた。
「……いまだ!!」
リコの声が響く。
⸻
風が走る。
小さな影が、地を蹴り、雪を踏み、空へ舞う。
火矢を一本、抜く。
放たれた炎が、怪物の頭頂部へと向かう。
ヒュッ──バシュッ!
突き刺さる。
「……割れた!」
氷が砕け、脳の付け根が露出する。
そこに、リコが突っ込む。
両手に握った双剣、火矢の余熱を帯びて煌めく刃──
「おらああああああああああッッッ!!」
双刀・乱舞。
左右の斬撃が交差し、回転し、抉り、焼き、貫く。
空に閃く、炎の軌跡。
咆哮、衝撃、爆ぜる血。
火と氷が混じる一瞬の大音響。
「──決めた……!」
そう、思った。
だがそのとき。
ズゥン……!!
地が、揺れた。
背後。
《シェルヴェン》のもう一つの尾が──
「……しまっ──」
頭を振り返る間もなく、
リコの視界が、白に染まった。
音が──消えていた。
(あれ……?)
白かった。
真っ白。
視界のすべてが、雪と光に塗りつぶされている。
(……何が起きた……?)
耳鳴り。
身体がふわふわと浮いているようで、地面の感覚がなかった。
まぶたの裏に、火矢が刺さる瞬間が焼き付いている。
──“割れた”
──“当たった”
──“決まった”
……はずだった。
(しまった……もう一本、矢を……)
振り向こうとした瞬間に、何かが──
巨大な、冷たい何かが、背を撃った。
空気が抜けた肺。
背中から心臓へ届くような衝撃。
体が、浮いている。
(落ちてる……)
意識が、滑っていく。
指が、震える。
「あ……あたし……」
誰かの声が聞こえた気がした。
違う、あれは、自分の声だ。
かすかに口元が動いているのが、分かった。
「……やだな……あのバカ……また泣くじゃん……」
誰に向けた言葉だったのか。
それを言い終える前に、視界が暗転した。
⸻
──その時、空に影が走った。
生き残りのハンターの一人が、何かを見た。
巨大な尾を振り下ろしたはずの空鯨が、ぐらりと仰け反る。
「……は?」
その巨体の、脇腹に何かが食い込んでいる。
「な、なんか刺さって──」
その瞬間、視界を裂くように聞こえた。
ズガアアアアアアアアアアッッ!!!!!
《シェルヴェン》が、空で一瞬跳ねる。
よろめく。浮きかけて、堕ちかけて、体勢を崩す。
ハンターの視界に、“それ”が見えた。
──黒い影。
──ハープーンを両手で握りしめた、巨大な男。
「ロ、ロウ……?!」
まるで空を、跳んだようだった。
さっきまで地上で動かなかったはずのその男が、
“飛んで”いたのだ。
(あいつ……リコが落ちた瞬間……飛んだ……!?)
ロウは、言葉もなく、そのまま地面に着地した。
轟音。土煙。割れる氷。
そして、砕けた氷の向こうに──
リコの、小さな身体を抱えたまま、静かに立ち尽くしていた。
リコは、意識を失っていた。
血が唇から垂れている。
ロウは、何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと──片膝をついた。
その顔に、涙が流れていた。
誰にも見せないように。
誰にも、聞かれないように。
「……守れた、よ」
誰にも届かないほどの、小さな声で、ロウは呟いた。
そして、空を見上げた。
空鯨はまだ、生きている。
だが、揺れていた。
火が届いた。
刃が刺さった。
一瞬だけだが、“本物”の重心が崩れた。
その隙を──次に誰が奪うか。
ロウは、静かにリコを地面に下ろす。
その目に、覚悟の色が差していた。




