第3話 「偽りの静寂」
夜の港は、遠くで潮が跳ねる音と、誰かの寝息しか聞こえなかった。
炭焼きの煙の香りが残るギルド食堂で、散々飲み食いしたふたりは、潮風の吹き抜ける埠頭の片隅へと戻ってきていた。
「……おやすみ、ロウ」
「……ん」
港の石畳に敷いた毛布の上、リコは当然のようにロウの腹の上にどかりと乗った。
重力と体重のすべてを預けて、抱きつくようにして寝転がる。
「ふふ……最高……」
「………………」
ロウはすでに寝息を立てていた。
毛布の中に納まりきらないほどデカく、
樽のように分厚い体。
けれど食事は、子猫みたいに小食。
水を一杯飲んだだけで満足するような、へんな男だ。
(あたしは……あんなに食ったのにな……)
ギルド特製の肉詰めパイ、魚の香草焼き、干し肉のスープに、蜂蜜漬けナッツのパン……
ありったけの皿を空にして、周囲のハンターたちをドン引きさせたのは数時間前の話だ。
(……食ったぶんだけ、がんばるってやつだよ)
港に、静かに波が打ち寄せる。
月は海面を鈍く照らしていて、遠くに停泊している帆船の影が揺れていた。
リコはその光をぼんやりと見つめながら、静かに目を閉じ──そして、ふと目を開いた。
……何かが、違う。
空鯨。
今日、討ち取ったあの巨影。
確かに空を泳ぎ、咆哮し、凄まじい風圧を纏っていた。
けれど──どこか、妙だった。
(……皮膚の感じ。骨格。落ち方……)
空を裂くほどの巨躯だったはずなのに、あの墜落音は……どこか軽かった。
本で読んだ伝承の“空鯨”とは、どこか違う。
「……ロウ、起きてる?」
「………………」
返事はない。
大の字で寝ているロウの腹が、規則正しく上下している。
(まあ……いっか)
その夜、リコは眠れぬまま、潮風と波音の中でうとうとと朝を迎えた。
⸻
ギルド本部、翌朝。
「報告、ありがとね。君たちの討伐記録、確認させてもらったわ」
受付嬢の女性が、手際よく報告書に目を通す。
「ふむふむ、うん……ただ──うん、ごめん。残念だけど、君たちが倒したのは“伝承の空鯨”じゃない」
「……は?」
リコの目が据わる。
「正確には“空鯨属・変異種”。
最近この海域で目撃されるようになった、“なり損ない”って扱いね」
「ちょ、ちょっと待ってよ! あれ、白かったんだけど!? めっちゃでかかったし、咆哮も……!」
「うん、わかるわかる。白かったっていう点では伝承と一致するけど、肝心の形態がぜんぜん違ったの。
尾の骨格と、耳孔の位置。そもそも、氷の外殻じゃなかったでしょう?それで判別されたみたい」
「氷の外殻……?」
(やっぱり……あたしの勘、間違ってなかった)
受付嬢は、さらに一枚の紙を差し出した。
「本物──伝承に記された空鯨“シェルヴェン”は、今朝、北海嶺の上空で確認されてるの。
ギルド大隊がすでに出撃中」
「……そんな、じゃあ……」
「君たちは“準備運”が良かったってことね。まあ、間違って突っ込んでたら、たぶん生きて帰れなかった」
背後で、椅子が軋んだ。
ロウが、立ち上がる。
「…………リコ」
ぼそり、と名前だけを呼ぶ。
「ん?」
「……おれ、思ったよ」
「……あれは……ちがう」
リコは小さく息を止めた。
その“ちがう”は、他の誰でもなく、ロウが言ったからこそ重みがあった。
「……なんでそう思ったの?」
「……皮、ちがった。……音も……軽かった。
……目……濁ってた」
「……見てたんだ。そんなとこ…」
ロウは目を伏せたまま、小さくうなずいた。
「……本物、まだ……いる。
たぶん、あれとは……ちがう、重さ。……来る」
その声は、低く、静かで──どこか、確信に満ちていた。
リコはぐっと息を吸い込んで、背筋を伸ばした。
「よし。じゃあ──あたし、ギルドの文献、全部洗う。
“本物”が来るってんなら……今度は、準備して狩る」
ロウは黙って、うなずいた。
ギルド本部の図書室は、朝焼けの光を受けて、静かに目を覚ましていた。
「……開けて」
リコがドアをノックする前に、すでに内鍵を外していたのは、図書管理係のじいさんだった。
「お前さんまた来たのか。……朝から熱心だのう」
「うん、ちょっと確認したいことがあってね。古い伝承の巻物、前に見せてもらったやつ、覚えてる?」
「“空鯨の咆哮録”じゃな。……古文で読めんじゃろ、お前」
「図と単語だけでも意味は取れるって。ていうか、あれ多分翻訳間違ってる。後で直しとく」
爺さんは苦笑しながら、古びた巻物をリコの前に差し出す。
リコはテーブルに広げるなり、指で一気に文字を追っていった。
⸻
ロウは、その少し後ろで座っていた。
手にしているのは、どこから持ってきたのか分からない雑誌。
けれど目は、半分しか紙面を追っていない。
……リコの動きに、意識のほとんどを預けていた。
「……“脳の核”と“心房”…? ……これ、どういう構造……」
リコは巻物の隅の解剖図に目を細める。
図の中央、空鯨と思しき巨体が描かれていた。
異様だったのは、その中枢部。
脳らしき器官の裏側に、もうひとつ、臓器のようなものが張り付いている。
「……くっついてる?」
その瞬間、背後のロウがぽつりと呟いた。
「……見た、ことある」
「ん?」
リコが振り返る。
ロウは雑誌を閉じた。
花の絵がたくさんある、画集のようなもの。
「……前に倒したやつ……心臓、なかった。
……たぶん……つぶれてた。頭と一緒に、落ちてた」
リコの脳内で、何かが繋がる音がした。
「……ってことは、同時に……? 脳と心臓が、同じ場所に?」
古文の注釈の中に、かすれた字がある。
“頭を砕かれし時、命もまた止まりぬ”──
「……一撃じゃ、無理だよ。脳と心臓を、同時に……?」
思考が止まりそうになったその時。
「…………できる。リコなら」
その声に、リコは思わず目を見張った。
ロウの声は、ぼそぼそとしたままだった。
けれどそこには、一片の疑いもなかった。
「……ふふ。そーゆーの、サラッと言うんだよな、あんたは」
リコは立ち上がり、巻物を閉じた。
「いい。戦い方はわかった。
頭を潰すなら……突撃じゃダメ。近づくタイミング、ズラさなきゃ」
ロウが立ち上がる。
背中の大きなハープーンが、かすかに鳴った。
「……じゃ、行こか。装備、整える」
「うん。燃やす準備もね。
次の獲物は、“本物”だよ」
ふたりの影が、図書室の扉を越えて伸びていった。
ギルドの鍛冶場は、朝から金属の焼ける匂いで満ちていた。
誰かの叫び、鎚の音、湯気の中を立ち上る火花──
そのすべてを、リコは無言でくぐり抜ける。
背中には、双剣。
古い海賊が使っていたという、湾曲した刃を二本。
前線に立つことを決めた彼女の手に、いまはしっくり馴染んでいる。
「……仕上がってる。いつでも行けるよ、ロウ」
「……うん」
ロウは工房の片隅で、一本の巨大なハープーンを背負っていた。
槍というには太すぎ、矛というには重すぎる。
もはや“杭”に近いそれを、無言で確認する。
「……火薬、三回分。……オイル、充填済み」
「頼りになるね、“ノラバリのロウ”」
「……やめろ……なんだそれ……」
リコがにやりと笑った。
「知らない? 最近ギルドの若いのが言ってるらしいよ。
“謎の大男。でっかいのにすげえ静かに現れて、
“野良の” “バリスタみたいな大槍を担ぐ” “ロウ”ってことで、ノラバリのロウ。あたしも笑った」
「……意味……わからない……」
「いいじゃん、流行ってんだから」
ロウは深いため息をついた。
だがその手は、確かにハープーンの柄を強く握り直していた。
⸻
空は曇天。
出発の朝、港の埠頭にふたりの影が立った。
「現地までは半日。間に合えば……一矢、いや一斬、報いるチャンスはある」
「……ギルドの大隊、持たないかも」
「だよね」
リコは、コートのポケットにしまった羊皮紙をもう一度取り出す。
そこには、古文で書かれた“空鯨の心臓と脳の接合位置”が図解されている。
「──ここ」
リコの指が示したのは、頭蓋のすぐ下、首の付け根。
心臓と脳が接しているポイント。
「ここを、同時に砕く。
だからあたしが斬り込むには……あんたが“止めなきゃ”いけない」
「……やる」
「でしょ」
リコは息を吐く。
「よし、行こう。“空を裂く牙”を止めに。
──火を、届けに行くよ」
ロウは、無言でうなずいた。
ふたりの背に、風が吹いた。
潮の匂いに混じって、遠雷のような音が微かに届く。
“本物”が、どこかで空を割っている。
そしてその空に──
ひときわ小さな、けれど確かに鋭い牙が向かっていった。




