第2話「この空に、誓う」
第2話「この空に、誓う」
「……無理無理無理無理無理ッ! ひっさしぶりに死ぬかと思ったああああ!!」
ひゅるるる、と細長く風を切る音が続く。空に浮かぶ小さな飛行船──ノーチラス号は、エンジンの咆哮とともに真っ直ぐ雲間を滑り落ちていった。
その甲板では、少女が天を仰いで叫んでいた。
「ロウッ! 何あれ! 初っ端から出していいレベルじゃないでしょアレ!」
「……イ、イサナ……オオガタ……」
ロウは操縦桿を握ったまま、呻くように言葉を漏らす。真っ黒な髪、ぶっとい腕。巨躯に似合わぬ細やかな手付きで機体をコントロールしていたが、その顔色はあきらかに青い。
「あのサイズ……図鑑で見たやつ……たぶん、クラロ種……それの突然変異体……」
「へえ~!? じゃあやっぱあたしたち、初戦から特異個体ぶつけられてたってワケね!? 殺す気だろこの世界!」
「…………まちがい、ない……」
⸻
ほんの数刻前。
ヒスパニアを目指していたふたりは、突如濃霧のような、雲のような白の中に迷い込み⸻
出会ってしまった。
出会い頭だった。
白の氷の塊のような"それ"は、伝承と同じように氷のような白の外殻を持ち、空に踊る鯨。
果敢に挑んだが数秒、叩き込まれる尾の攻撃や咆哮。
すぐさまこれは無理だと撤退をしたふたりだった。
⸻
ノーチラス号の船体には、あちこちに傷が走っていた。帆は一部が裂け、補助飛翔石が片方、煙を上げて沈黙している。
それでもどうにか持ちこたえているのは、ロウの力技の修理と――なにより、この船が“元軍用の残骸”であることに他ならない。
「くそぉ……ロウの飯食ってからまだ一時間しか経ってないんだけどなァ……胃が全部逆流しそう……!」
「……おかわり、あるよ」
「要らんわ!!」
少女――リコは、鼻息荒く甲板に座り込み、荷物の入ったロッカーを蹴った。
視線を戻すと、ちょうど雲の切れ目に、陸地が見えた。
「…! あれヒスパニアだよね!? 見て、旗! ヒスパニアのマーク!本で読んだ!」
「……着く……もうすぐ……」
ノーチラス号は、船体を傾けながらゆっくりと高度を落としていった。
⸻
港町ヒスパニア。
そこは西方諸国と北海航路を繋ぐ交易の拠点として、空を行き交う船乗りたちの間で知られている。
ギルド支部もあり、狩人や輸送業者、情報屋などがひしめく活気の街だ。
「すっげぇ……人、多すぎでしょ……」
甲板から降りたロウが、ゆっくりと首を回す。
その隣では、リコがぐるぐると目を回しながら、荷物袋を引きずっていた。
「あたしたち、今日からここが拠点ってことになるのか……ギルド? だっけ? とにかくそこに行かなきゃなんないんでしょ?」
「……うん……でも、場所……わからない……」
「はあ~……よし、ちょっとその辺のオヤジに聞いてくる! ロウは荷物見てて!」
リコが駆け出して数分後。
彼女は市場の干物屋の前で、ひとりのじいさんと話し込んでいた。
「ギルドか。ここを左に行って広場抜けたとこにあるよ。で、何だい、お嬢ちゃん。そんなに鯨狩りに興味があるのかい?」
「うん、まあね。世界の伝承の空鯨、全部狩るのがアタシたちの目標でさ。ね?」
後ろから追いついてきたロウが、うなずいた。
「……七頭……全部……」
干物屋のじいさんは、目を丸くしてから――盛大に吹き出した。
「がっはっは! お前さんたち、正気かい! あんなもん、狩人百人がかりでやっと退けるような化け物だぞ! 命、いくつあっても足りやしねぇよ!」
「へぇー、そう……あたしたちってそんなにナメられてんだ?」
リコの目元がピクリと動いた。
その気配に、ロウがそっと袖を引く。
「……リコ、落ち着いて……」
「うっさい! 行くよロウ! ギルド! んでもって道具揃える! 寝床も!」
「……うん……」
干物屋のじいさんは、あきれたように笑いながら、ふたりの背中を見送った。
「……あんなちっこいのが、空鯨狩るだとさ。ったく、まるで昔の――いや、まさかな」
ギルドにて。
「やっと着いた〜〜。こんにちは!ハンター登録したいんだけど、お願い!」
「こんにちは。登録ですね。ではまずこちらの…」
「書類…これ。もう書いてある。」
「ロウ!なんであんたこんなモノ持ってるの?!」
「親父が言ってた。ぎるどに登録するには戸籍表が必要だって。リコのはリコのかあちゃんからもらってきてる」
「……バカロウ。やるじゃん。…でもありがと。さあ受付さん!これでいいでしょ!あたしたちは空鯨を狩りたいの。これで今日からいけるでしょ?」
「……行けることは行けますが…その…まずは装備を整えましょう。こちら、登録時の補助金です。まずはこちらで準備してください。その間にこちらで案件を見積もっておきますね。」
「わあ!ありがとう!…ロウ!行くわよ。さっきので弓がダメになっちゃったから、弦を張り直したいの。あと軟膏と、行動食の兵糧丸。」
ーーー
冷ややかな目。
嘲笑う声がふと、聞こえてきた。
「あのボロボロの空舟に乗ってるのってあいつらだろ?どんな田舎から出てきたんだアレ。2人で受注する気なのかよ!笑えてくるな…葬儀屋の手配とかちゃんとしておけよー!」
ぴくりと、リコの額に青筋が走る。
慌ててロウが宥めに入る。
「…リコ。外に出よう。…兵糧丸……甘い味のやつ、あるって…聞いた」
「そうなの?じゃあ仕方ないね。あんなバカたちほっといてさっさと準備しちゃお!……見ておけよー!」
*
時は数刻後。
再びノーチラス号を飛ばす2人。
空はどこまでも青かった。
その青のなかを、白く巨大な影が翔けていく。
「来るぞ――!」
リコの声が鋭く風を裂く。
遠くから、先ほどの“あの”イサナが再び姿を現した。皮膚に幾つもの戦傷を刻みながらも、まだ空を泳いでいた。
「リベンジ……おれ、やる。今度こそ……!」
ロウが背中の巨大なハープーンを引き抜いた。重さを感じさせないその動作に、確かな覚悟が宿る。
イサナが空を裂いて突進してくる。
空気が唸り、波のような衝撃が押し寄せた。
「リコ、下!」
「分かってるッ!」
ロウが先んじて跳び出し、身体を張ってその軌道を逸らす。
リコはその隙に、腰から双刀を抜いた。空気を裂くような弧を描いて、鱗の隙間へ鋭く刃を突き立てる。
「……効いてる!」
だが、それでもイサナは止まらない。体勢を崩しつつも暴れ、空中で激しく旋回する。
その尾が、ロウの肩をかすめた。
「ぐッ……!」
「ロウ!」
血が舞った。
だがロウはよろめきながらも、踏みとどまった。
「……まだ、いける。おれ、倒す!」
叫びとともに、ハープーンが飛んだ。
鋼の杭が鱗の裂け目に突き刺さる。そこへリコが追撃を仕掛け、矢を連射しながら双刀で深く斬り込む。
「このまま、落とす……ッ!」
叫びとともに、二人は渾身の一撃を叩き込んだ。
イサナの巨体が軋む。白い霧のような血飛沫を撒きながら、ついに空から落ちていった。
――討伐、完了。
風が静まった。空が戻ってきた。
リコは膝をついて、肩で息をしている。
その手が、かすかに震えていた。
「……殺した、んだ。あたしたち、あの命を」
ロウは静かに膝をついた。
空を見上げて、目を閉じる。
「……ありがとう、イサナ。命……もらった。忘れない」
風が吹いた。どこか遠くで鳥の影が過った。
―――
ギルドの食堂。
リコとロウは、ようやく温かい食事にありついていた。
「んっまい……これ、鳥? 鳥の煮込み?」
「スパイス……たぶんシナモン。甘いのに、うまい……!」
二人は顔をほころばせながら、無我夢中で皿を平らげていく。
その背中を、ちらちらと他のハンターたちが伺っていた。
(あの新入り……ふたりで討伐……マジかよ……)
誰も声には出さなかったが、空気は確実に変わっていた。
先ほどまで見下していた者たちの視線が、少しだけ遠巻きになっている。
リコはそれに気づきながらも、あえて無視した。
ただ、肉を噛みしめ、スープをすすり、目の前の命に感謝していた。
「……ロウ」
「うん?」
「今日のこと、後悔してない?」
ロウはあぐらをかき、椀を両手で持っていた。
ゆっくりと顔を上げ、首を振る。
「……後悔、してない。リコを、守れた。命、いただいた。祈った。……それで、いい」
その言葉に、リコは目を伏せた。
ほんの一瞬、まぶたが震えた。
「……あたしさ、ちゃんと背負えるか分かんないけど。
でも、見たくなった。もっとこの空を。もっと空鯨を。もっとあんたの祈りを」
小さく笑って、言葉を続けた。
「それを見た上で、“自分で決めたい”って思った。あたしは、どう向き合っていくのか」
ロウは微笑み、空を見上げるように言った。
「おれたち、進もう。空の先へ。まだ、始まったばっか」
そして、夜が更ける。
ギルドの食堂には、静かな余韻と肉の匂いが残っていた。
その片隅で、ふたりの影はゆっくりと立ち上がる。
次の航路へ。次の空へ。