第1話: 空舟(そらふね)
村の朝は、風とともにやってくる。
崖の上に広がる集落では、潮風に混じって魚の干物と鉄の匂いが立ち上る。漁と修理の村。女も男も、子どもでさえ手を動かして働いていた。
「お前たち、まだ行くつもりか?」
その朝。集落の中央にある火炉の前で、長が腕を組んで立っていた。
向かい合うのは、年端もいかぬ二人の若者。
一人は、背の高い巨漢だった。体格の良い成人たちですら使いこなせないような大鋼のハープーンを背に背負い、ぼんやりとした目で立っている。
もう一人は、逆に小柄で、赤茶の髪をきつく結った少女。弓と刃を腰に吊り、つま先で地面を軽く蹴っている。
「行くに決まってるでしょ。あたしの結婚、まだ認めてくれてないじゃん」
「バカを言え。これは誓いでも何でもない。お前たち、年もまだ──」
「十八と十七。十分大人でしょ」
少女──リコが言い切る。
その隣で、巨漢──ロウが口を開いた。
「……うん。おれ、リコがいい。リコと、いっしょが、いい」
「はあ……」
長が白い髭をなでる。
その目は、困惑と、それでもどこか寂しげな情を帯びていた。
「……ならば証を持ってこい。伝承の世界に散らばる、七頭の《空鯨》の証をな。三年以内だ。全部狩れたなら、文句は言わん」
「えっ……」
「うそでしょ、それ……!」
リコが叫ぶ。
《空鯨》。
空を渡り、雲を喰らい、雷を孕んで生きる、天の怪獣。
ひとつ倒すのに何十年と記録にないものもあるというのに、七頭?
だが長の目は本気だった。
(……もともと、結婚なんて、させたくないんだろ)
ロウの腕にしがみつくリコの横で、長は静かに言い放つ。
「お前たちの船、《ノーチラス号》は、修復できたのか?」
「うん。ロウが全部やった」
「ぼろぼろだったのにね。拾ったの。崖下に落ちてたやつ。使い方もわかんないくせに勝手にいじって、気がついたら浮いてた」
リコが少し照れたように笑った。
ロウは、ゆっくりと、ぽつり。
「……リコ、すごく、うれしそうだったから」
長はふうとため息をついた。
口では厳しいが、本気で止める気はないらしい。
「じゃあ、行ってきます!」
「うん……行ってくる」
二人は手を取り合って、集落を出ていく。
振り返らず、まっすぐに。
⸻
空舟《ノーチラス号》は、小型の二人乗り。
狭いが、航行には十分だった。
燃料は飛翔石と、わずかに残っていた鯨油。
コクピットの中は修理跡だらけで、ところどころ配線がむき出しになっている。だが、ロウはきちんと整理していた。整頓が得意なのだ。
「今日の目的地、決めようか」
「……どこがいい?」
「うーん……ヒスパニア沖、ってとこがいいって、前におじいが言ってた気がする」
「……そこ、行こう。飛べる?」
「風は……うん、問題なさそう!」
リコが操縦桿を握り、ロウがエンジンの起動レバーを引く。
機体がごう、と鳴った。
「《ノーチラス号》、発進!」
雲を裂いて、彼らの旅がはじまった。
ノーチラス号の船体は、拾った当時のままではとても空は飛べなかった。
小さな空鯨の死骸を積んでいた廃船──港の奥で忘れ去られているような船殻だった。
「たぶん、燃料……これ、鯨油。まだ残ってたんだ」
ロウは、空舟の底に詰まっていた粘っこい油の匂いをかいで、そう言った。
リコは鼻をつまんで顔をしかめた。
「……くっさ。腐ってない?これ」
「……だいじょうぶ、たぶん平気。火はつく、と思う」
「“たぶん”って言ったな?いま、“たぶん”って言ったな?」
けれど、不思議なことに、ノーチラス号は飛んだ。
飛翔石の破片をうまく繋げてエネルギー導入を確保し、
古い圧縮式のエンジンに鯨油を注ぎ込んで火を灯す。
リコが足でスイッチを叩くと、舟体は軋みながらもぐう、と浮き始めた。
「おぉ……浮いた……飛んでる…リコ!」
「わーわー言ってないで舵握れ、ロウ!!」
ぐらり、とノーチラス号が傾いた。
リコは素早く桁を飛び越え、重石を右舷側にずらしてバランスを取った。
体重も運動能力も軽やかな彼女にしかできない動きだ。
ロウはぐっ、と腕に力を込めて舵を直す。
機械油の匂い、飛翔石の振動、そして焦げた鯨油の煙。
世界は、すこしだけ違う景色を見せはじめていた。
⸻
それから数日。
ノーチラス号は北の空を滑り、
霧のかかる岬の先、ヒスパニア沖を目指して南西へ向かっていた。
「で、あれか?情報によると、“最初の幻鯨”はこの近くの海域で目撃されてんだっけ?」
「……うん。名前は……《シェルヴェン》。氷塊をまとって飛ぶ、白い影……だって」
「なにそれ中二病。いやちょっとカッコイイけど」
リコは弓の弦を張り直しながら、鼻歌交じりに矢筒を整える。
毒矢、火矢、雷撃矢──それぞれ小さな印をつけて区別している。
双刀も研ぎ終え、今は両腰に下げて軽やかに動けるよう調整中だ。
一方、ロウはというと……
ハープーンを片手に、甲板で“振り回し稽古”中だった。
「ロウ、あんた……その武器、まじでそれでいくの?」
「……うん。これ、けっこう重いけど……おれの手になじむ、から」
元は艦載用の対空ハープーン砲の弾。
大人ふたりがかりで持ち上げるような代物だが、ロウはそれを片手で持ち上げる。
「……リコ、さ。おれ、これ拾ったとき──“これで、守れる”って思ったんだ」
「……バッカじゃないの。……でも、いいじゃん。あたしは好きだよ。そういうの」
⸻
ノーチラス号の船体が、空の霧を割った。
空鯨の骨で強化された外板は、薄氷のような空気の中でも軋まず、静かに宙を進んでいく。飛翔石が軌道を描き、錆びた舵輪に命が宿ったように軌道を保っていた。
船内では、ロウが鉄鍋をかき混ぜていた。
小さな炎に照らされた顔は、どこか眠たげで、それでも真剣そのものだった。
「……鯨油、やっぱいい匂いするな……」
鍋の中で、とろりと煮えた塊肉が湯気を立てる。
リコが弓の手入れをしながら、それをちらりと横目で見た。
「ロウ、味見は?」
「ん……した。……ちょっとだけ、しょっぱい。たぶん、リコにはちょうどいい……」
「じゃあそれでいいや」
ロウは静かに頷いて、鍋を火から下ろした。
彼の背中には、例の巨大なハープーンがしっかりと固定されている。鯨狩り用に設計されたそれは、本来なら大人二人で持ち上げるものだ。それを、彼は難なく担ぎ、振るう。
「食ったら、また操舵見てくる……」
「ちょっと待って、あたしが行く。さっき風向き、変わってたし。どうせこのあと狩り場の座標、確認すんでしょ?」
「……リコが行くなら、いい……。でも、気をつけて……風、荒れてる」
リコは笑った。
「大丈夫だってば、あたし風の匂いには強いんだってば」
そして甲板へ駆け出していった。
*
空は群青色に染まり、雲の切れ間から光の筋がいくつも差し込んでいた。ノーチラス号の機関室から立ち上る白煙が、冷たい風に乗って流れていく。
リコは舵輪を握りながら、遠くに浮かぶ小島──いや、空島を見つけた。
「……出たわね、イサナの痕跡。あの高さ……やっぱり空鯨の通り道ってやつだわ」
航海図に“ヒスパニア沖”と書かれた空域は、この世界の南西。
ここには、初めて人の目に触れる「空鯨の繁殖空域」があると、昔から囁かれていた。
リコは腰の双刀に手をやりながら、鼻先で風の流れを読んだ。
右手に握った小さな矢筒には、毒矢と火矢が混ざっていた。
火矢には、鯨油を染み込ませた布が巻かれている。乾いてもなお、わずかに甘い匂いがした。
「ロウ、準備は? 船、降りるかもよ」
「うん……ハープーン、もう巻いた……でも、ロープ……ちょっとほつれてる」
「後で縫い直せばいいって。とにかく、狩れる時に狩らなきゃ、イサナはすぐに空に逃げる」
「……あいつ、見つけられるかな……。本当に、いるのかな……?」
「いるわよ」
リコはそう断言した。
その声に、揺らぎはなかった。
「頭領が言ってた。『七つの空鯨を狩ってきたら、お前たちの“縁”を認めてやる』って。だったら、いるしかないでしょ。あたしたちの未来のために、ってやつよ」
ロウはぽつりと呟いた。
「……でも、結婚……とか、そういうの……本当はおれ、よくわかんない……」
「わたしだってわかんないけど」
リコはふっと笑った。
「だから確かめに行くの。イサナがいるか、自分の“気持ち”が本物か。全部含めて旅なのよ。ロウ、あんた、ノロノロしてるけど……あたし、そういうとこ好きよ」
「…………」
ロウは耳まで真っ赤になって、言葉に詰まった。
「……リコがうまそうに飯食ってるとこ、見てるの……いちばん、嬉しい……」
「もう、それ今関係ないでしょ!」
「でも、ほんとに……そう思っただけ」
リコは苦笑して、肩をすくめた。
「ま、そういうとこも悪くないけどさ。さ、そろそろ鯨が近い。気合い入れてくわよ、ロウ!」
「……うん」
空のはるか彼方。
小さな点のように見える影が、雲を突き抜けて上昇していた。
──それは、まぎれもなく“空鯨”。
巨大で、滑空しながら雲間をくぐり、まるで空そのものの化身のようだった。
リコが矢をつがえる。
ロウが、ハープーンを引きずるように肩に担ぎ上げる。
風が変わる。
「ロウ……だいじょうぶ?」
「……うん……リコがいるから、だいじょうぶ……」
ノーチラス号が、獲物の方角へと舵を切った。
こうして、ふたりの“空鯨狩り”の旅が始まった。




