不透明な関係性
コンコン、と。話が途切れるタイミングを見計らったかのように、扉がノックされた。途端、眉間に皺を寄せたルーキにシルフィは肩を揺らす。
「どうぞ」
「快諾に感謝を。失礼する」
くつくつと笑い声を噛み殺しながら向こう側に声をかける。返ってきた声は知らない男のもので、ああこれはと苦笑する。ルーキがシルフィに泣き付くのも、それを甘やかすのも、全部読まれていたとは。
流石と感嘆しながらゆっくりと開かれた扉とそこから顔を覗かせた二人に目をやり、おや、と思う。いかにも騎士然とした青年ガルダに促されて恋する少女トワが入室してきたが、この二人、どうしてか違和感の塊に思えて仕方がない。何がおかしいのか言語化はできないが、そう、例えるならそれは透明な水面に一滴の墨汁が垂らされたような、そんなもやだ。
「あの……?」
じっと見つめたまま黙り込んだシルフィにトワが不思議そうに首を傾げる。はたはたと瞬く長い睫毛に覆われた瞳に不安が燻った。
「ああ、いや、気にしないでくれ。少し考え事をしていただけだ」
「そうなの?私、何かしてしまったかと思ったわ」
したと言えばルーキを振り回して間接的にシルフィも巻き込んでいるのだが、良かったと胸を撫で下ろす姿があまりに無垢で言うのが躊躇われた。なんと言うべきか、ルーキの態度や話し振りから感じていた印象とは違う。見た目通り儚く、柔く、可憐だ。他愛ない一言でその儚さを、柔さを、可憐さを損なってしまいそうで、尻込みしてしまう。
「ルーキ。それからその姉君。改めて挨拶をしても構わないだろうか」
微妙な空気を感じ取ったのか、一つ咳払いをしてガルダが一礼する。
「私はヴァニル王国近衛騎士団所属ガルダ・エデ。我らが女王の命により、トワ様の旅の護衛を仰せ使っている」
「近衛騎士!?嘘だろ!?」
さらりととんでもないことを宣われルーキが絶叫した。耳を劈くような驚きにさもありなんとガルダを見やる。当人はそこまで驚かれるのは予想外だったのか目を丸くしているが、ルーキが叫ばなければシルフィが叫んでいただろう。
近衛騎士団。優秀な騎士を多く輩出し、また抱えるヴァニル王国の中でも最高峰の腕を持つ騎士が集められた精鋭部隊。王族直下の指揮に置かれた、騎士たちの憧れ。所属の条件には剣の腕はもちろん、諜報能力や社交性などありとあらゆる分野においてトップクラスのスキルが求められると言う。
普通に生きていたら出会えるはずもない、王族とはまた違った意味で雲の上の人だ。
その近衛騎士が、目の前にいる。
「そんな大層な者ではないが」
驚愕に声をなくしたルーキとシルフィを見て、ガルダがわずかに目元を和ませた。亜麻色の髪の奥で、琥珀が面白そうに瞬く。
「しばらく一緒に旅をする仲だ。慣れてもらえるとありがたい」
「え、あ、うん。それは」
どうしようと目で訴えてくるルーキにシルフィの頬が引きつる。
普通の騎士であれば良かった。王国に忠誠を誓った十把一絡げの騎士であれば良かったのだ。そうであれば、何も考えずに旅をして、世界を見て、いつかいい思い出として振り返れたことだろう。
だが、現実にガルダは近衛騎士で、王族から直接指示を承って動く者だ。その意志は王の意志であり、その目は王の目であり、その言葉は王の言葉である。
ただ単に旅を共にするのとは訳が違う。
「ほら、だから言ったでしょう?」
呆れたように腰に手を当てたトワが唇を尖らせた。
「貴方のその肩書は貴方の頑張りを讃える名誉である以上に、女王陛下の御名を人々に周知させるものであると」
「あの方はそのようなことをお望みではありません」
「だとしてもです。女王陛下はお優しい人ではあるけれど、誰もがあの方に謁見できるわけではなく、前国王陛下の遺した影響もあまりに大きすぎる。私たち一族の者でさえ誤解していたのを忘れているの?」
道場でのことは幻であったかのように、恋を歌うことも愛を囁くこともやめて静かに嗜めるトワは少女めいた印象を打ち消すが如く冷静だ。甘やかに夢見心地だった双眸は理知的ですらあって、シルフィの背をぞくりと悪寒が駆け抜ける。
危険だ。彼女はいつかルーキを傷つける。
何の根拠も確証もなく、そう思う。漠然とした不安が腹の奥から迫り上がってきて堪らずシルフィは呻いた。
「あんた、は」
硬く強張った声に、ルーキが心配げな目をシルフィに向ける。それを気遣う余裕はなかった。トワから目が離せない。離してしまったら、その瞬間に茫洋とした曖昧模糊な何かに押し潰されてしまいそうだった。そのせいで、口の中はからからに干上がっている。
「トワと言います。トワ・ブロート。女王陛下の御慈悲を賜って旅をしているの」
「女王の慈悲?」
「はい」
にこり。完璧な微笑みを浮かべてトワが悪戯っぽく瞳を輝かせた。
「世界を見て回りなさい。それがお前のなすべき役目です、と。女王陛下はそう仰られました」
「それがどうして慈悲になる」
「だって私、そんなことをさせてもらえるとは思ってなかったから」
ほんの少しくだけた調子で呟いたトワがくるりとその場で回る。風を孕んでふくらんだローブがいやに感傷的に映った。
「女王陛下って、不思議な人ね。とても非情に徹しているのにお優しいの」
トワの言葉に、嘘はなかった。どこまでも真っ直ぐに真摯に紡がれる言の葉は誠実で、だからこそ困惑する。
無害な娘だ。立ち居振る舞いは洗練されているが隙だらけで、シルフィの敵ではない。細い首を縊るのなど容易く、その肢体を血で染め上げることも容易だ。敵意も警戒もなくにこにこと笑う姿は見た目のままにただ美しいだけで、棘などありそうにもない。
だと言うのに、どうして危険だと思ってしまったのか。
問う言葉を無くしてしまったシルフィを庇うようにルーキが前に出る。
「……なあ、何で女王陛下がお前にそんなことさせてくれるんだよ」
「知りたい?」
「ああ」
しかりとうなずいたルーキにトワがふっと息を吐き出した。
「興味を持ってくれて嬉しいけれど、知らない方がいいわ。だってルーキ、私のこと嫌いでしょう?」
「――――」
「嫌いな相手を知っても苦しいだけよ。それなら私、ルーキが苦しくない方がいいの」
だからダメ、と。
はっきりと拒絶したトワがガルダを仰いだ。
「そうよね、ガルダ。私、間違ってないでしょう?」
「……自分は、トワ様の意志を尊重します」
「それじゃあ困るわ。だって私、何にも知らないのよ?」
「ですが私は、貴女様ではございません。その御心のために心を砕くことはできても、読み違えることもあるのです」
「それは、うん、そうよね。私もガルダの考えていること、わからないもの」
しょんぼりと肩を落としたトワが視線をくれた。ほんのわずかに潤んだ双眸に、ふと既視感を覚える。
いつ、どこでこれと同じものを見たのだろう。忘れた記憶の中だろうか。それ以降のささやかな日々の中だろうか。
掴めそうで掴もうとした瞬間に霧散するその答えがもどかしくて、シルフィの目は自然と厳しい色に染まり、問いかける声音も硬さを増す。
「なあ、あんたは嫌われたままでいいのか」
人は人を知ることから始める。知らなければ好きも嫌いもないから、相手を見て、聞いて、触れて、知って、判断する。そうやって触れたいくつもの情報を積み重ねて好悪感情の天秤を揺らし、秤の傾いた感情に従うのだ。
現状、ルーキがトワに向けているのは嫌悪だ。この短時間で得た至極断片的な情報をつなぎ合わせて判断しただけの、些細なきっかけでひっくり返してしまえるだろう忌避だ。
だが、ルーキに好きだと宣ったこの美しい少女は、その感情を是としているようだった。嫌われていると知っていて微笑み、知らない方がいいと言う。
最初から、好かれる努力を放棄していた。
「嫌われても悲しくないのか。好かれたいとは思わないのか」
「ええ」
なぜそんなことを聞かれているのか心底分からないと言う無邪気な顔でトワがシルフィの目を覗き込んでくる。その目に恐れはなかった。生まれたばかりの恋情だけが産声をあげていた。
「好きな人が向けてくれる感情って、何だって嬉しいものなのね。初めて知ったわ」
ああ、と。不意に納得する。
一人の世界で完結した恋心に、納得してしまう。
ルーキのように、嫌悪の感情は湧かない。嫌いよりも哀れみが先立って、不覚にも涙が視界を覆う。
この少女は、本当に無欲なのだ。真っ白で、穢れなくて、無知なのだ。どんな環境で育てばそうなれるのか、シルフィには全くもって想像がつかない。だが、現実にトワは何の疑問も抱かずにルーキを慕っている。
嫌悪にも好意を返すように。
理不尽にも微笑めるように。
従順で、幼くて、あまりに危うい。彼女に見聞を広めるように促した女王の気持ちが痛いほど理解できてしまう。
「あたしは、きっとトワを好きになるよ」
「そうなの?」
「おまえはルーキを困らせているけど、優しいやつだろう?」
花のように微笑んで、風のように軽やかで、光のように眩しい。
抱いた不吉な予感さえ無視してしまえば、短いやり取りの中でシルフィが知ったトワはそんな少女だった。
「……嬉しいわ。でも、困ったわ」
頬に手を当てたトワがそっと目を伏せた。柔らかな笑みがほんの少しだけ曇っている。
「お願いよ。どうか、どうか、あなたはあなたのままでいてね。ルーキのための、あなたでいてね」
「それはもちろん」
当たり前だと頷くと、ほっとトワが息をつく。次いで見上げられたガルダがたじろいだのが少しおかしい。
「ガルダもよ。あなたはあなたのお役目を第一に果たすの。私、それ以上は望まないわ」
「……?トワ」
「なぁに?」
胸に手をあてて祈るように呟いたトワの言葉に引っかかりを覚えてシルフィは彼女の名前を呼ぶ。
「子細を話すつもりがないのは構わない。だけど一つ訊かせてほしい。ガルダのお役目は、なんだ?」
「私の護衛、かしら」
「それはわかる。そうじゃなくて、第一に果たすべきお役目の中身だ」
ガルダがトワを護衛する。それは確かに女王陛下直々に課せられた立派なお役目なのだろう。だが、だとしたらわざわざ言葉を濁して念を押す必要があるだろうか。今まさに、自分を優先するなという流れの話になっている中で、お役目を第一にしろなどと言葉にする必要があったのだろうか。
自然厳しくなったシルフィの顔をとっくりと眺めたトワがルーキに視線を移す。それは何かを迷っているようで、それでいて諦めているようでもあった。
「……ガルダは、護衛なの。この旅の終着を見届けるための人」
やがてそれほど間を空けず、ルーキを見つめたままトワがはにかんだ。
「一人旅を嫌がった私のために、女王陛下が付けてくださった優しい騎士。慰めになればと、心を砕いて下さった証。それ以上でも以下でもないわ」
「……あくまで、ただの護衛だって言うのかよ」
「だって本当なのよ。私を護る人、私の旅を記憶する人。それぐらいでしか表現できないわ」
ねぇ?と話をふられたガルダが重々しく首肯する。食い下がろうとしていたルーキもそれで黙り込んだ。ガルダ自身は誠実そうな人ではあるが、流石に近衛騎士に噛み付くだけの度胸はない。それ即ち、女王陛下に噛み付くことと同義であるからだ。
「これで答えになったかしら?」
「ああ。ありがとう」
視線を戻して綺麗に笑ったトワにシルフィも笑い返す。
先ほど漠然と抱いたあの予感は、きっと正しい。トワもガルダも善良で、悪意とは無縁の生き物のようにその性根は澄んでいる。ただの直感ではあるが、シルフィはそう感じた。だが、それ故にあまりこの二人には深入りしない方がいい。二人が悪いやつではないからこそ、いつかシルフィとルーキは傷つくことになる。
……でもそれは、トワやガルダに非があるわけではなくて、ただどうしようもなくシルフィたちがこの二人を理解できないだけなのだ。
「それで、もう出発するのかな?」
呼びに来たんだろう?と水を向ければ、ぱっとトワの雰囲気が華やぐ。
「そう、そうなの。これから私たち、船に乗るのよ」
「……船?」
「まだ少しも見ていない、西の大陸に向かうのよ」
嬉しげに声を弾ませるトワとは対照的にルーキの顔が目に見えて曇った。
それはそうだろう。西の大陸に住うのは、遙か昔、悪魔として迫害された者たちだ。ただ肌の色が違うというそれだけの理由で北の大陸の半分以上を占めるファルシオン帝国に一方的に虐殺され、同じ人とわかってもなお劣等民族として奴隷にされた歴史を持っている。三百年ほど前にファルシオン帝国が奴隷制度を廃止したことで西の大陸の民たちは自由の身となったが、虐殺と支配の歴史が長かっただけに白磁の者が足を踏み入れるのは危険だとされてきた。
それだけでなく、西の大陸は砂漠地帯だ。乾燥した空気に灼熱の気温、夜は凍えるように寒く人よりも魔物が根付く地だ。物見遊山で気軽に訪れるような場所ではない。
「危険だろうに。いいのか?」
「トワ様が望むのであれば」
答えの分かりきった問いかけにガルダは一切の迷いなく肯き、帯刀した剣に触れる。
「そのために、私はいる」
それは、誇りか、自信か。それとも義務か。
計りかねたシルフィは曖昧な吐息を溢して立ち上がる。
「まあ、護衛殿がそう言うならあたしから言うことは何もないさ。ルーキもだろう?」
「……うん」
そう、なんだっていい。トワに願われるまでもなくシルフィにとっての最優先事項はルーキで、それは絶対に揺らがない。ガルダが役目においてトワを真っ先に護るように、シルフィだってルーキを護る。
それがどれだけ危険な場所であっても。どれだけトワが貴人であっても。
「それじゃあ先に出ているわ。ガルダ、二人のチケットを買いにいきましょう」
「御意」
「ルーキ、シルフィ、港で会いましょうね」
家族こそが、弟こそが、シルフィが生きる理由なのだから。