診断を受けるまでの日々。
今回は、俺が表に出た日から解離性障害の診断を受ける日までの他愛もない日常を綴っていこうと思う。
俺と和が会話ができるようになって数日たったある日、その日は和の精神科の通院日だった。本格的に俺が出るようになる前から発達障害(発達神経症)の治療の為、月に一度メンタルクリニックへ通院していたのだ。勿論そこで和は、俺からのメールの件などを話した。しかし主治医は「それなら付き合っていくしかないわね。でも、会話ができるのはいいじゃない。」とだけ言って、DIDについて言及することはなかった。和も俺も拍子抜けしている間に診察が終わってしまった。実は和は高校生の時に一度、今年に入って二度、意識混濁や消失を起こしていた。その症状は解離症状と言われていたので、主治医からすれば意外でもなかったのかもしれない。
俺が表に出るようになり半月ほど経ったある日、俺たちは初めて任意交代に成功した。それまでは突発的に交代するか、急激な眠気のようなものに襲われて目を瞑ると交代してしまっているかのどちらかだった。その日は和が母親と回転ずしに行っていて、和が俺にどうしても食べさせたいと言ったのが始まりだった。和が車椅子の背もたれを倒し、目を瞑る。俺は表に出るように意識を向け、表が映る画面へと近づいた。するとどうだろう。1~2分はかかるらしいが交代することができた。その日は和の予定で外に出ていて、和が疲れていたのもあるかもしれないが。
そうして俺は生まれて初めて外食をした。勿論、すしを食べるのも初めてだ。はじめは和と母親が美味しいと言っていたエビの握りを注文した。タッチパネルでの注文も何もかもが初めてで面白かった。レーンを流れてきたエビの握りを取り、醤油とわさびを付けて食べた。美味かった。和はマグロが大好きなのだが、俺は香りに敏感らしく魚介のにおいの強いものは得意ではなかった。だけどやはりエビは美味しく食べる事が出来た。
ただ初めて任意交代をした日は頭痛がした。普段あまり使わない脳の使い方をしたのだろう。そしてその日の夜には、また和に戻っていた。不思議な事に和は頭痛がしなかったらしい。それからは徐々に俺が出る機会も増えていった。
そんな中、母親は俺の為に色々な物を用意してくれた。俺でも着られるメンズライクの服やカバン、俺の好物のコーヒー(和はコーヒーを飲まない)など。俺の存在を受け入れ、俺たちが生活しやすいように環境を整えてくれた。そして日々俺と向き合い、色々な話をした。俺の生まれた時の事や不安、恐怖…その全てを受け止め包み込んでくれた。そんな母だからこそ、和の母親だが自分の母親でもあると俺は思っている。
そうして時は過ぎ、俺が出てから2回目の診察日が訪れた。俺たちはこの1ヶ月の間に今後の治療について話していた。
まず治療方針としては「共存」を目指す事。何故統合ではなく共存なのか、そもそも「統合」や「共存」とはなにか、その辺りについては追々書いていけたらと思っている。
次に、DIDの診断を受けたいと考え、診察でもう一度訊いてみる事を決めた。そして診断が困難な場合に備え、解離性障害の専門医を探した。(DIDは臨床経験のある医師が少なく、診断が難しいと言われている)診断を受けたいと言ったのは和だった。自分の身に起きている事象を客観的な視点から評価してほしかったのではないかと思う。幸いな事に、通うことが可能な距離の大学病院で解離性障害の専門医がいた。いざとなればそこに紹介状を書いてもらう事に決め、診察に臨むことにした。
そして診察の日。改めて症状を説明し、「解離性障害/DIDではないのか?」と尋ねた。しかしDIDの診断には至らず、「適応障害の範疇」とされた。そこで予定通り専門医に診てもらいたい旨を伝えた。すると、すんなりと了承を得る事が出来た。次の診察までに紹介状を用意してもらうことになり、その日の診察を終えた。
その後、次の診察の2日後に大学病院の予約を取る事が出来たのだった。