交代人格について。
今回は、和の交代人格について綴ろうと思う。
和の交代人格、即ち俺の事である。そう、和の中に居る人格は俺一人だ。DIDは昔の名残から多重人格と呼ばれたりもするが、和の場合正確には二重人格という事になる。
俺たちは複数のDID当事者の方のSNSや動画、書籍を見てきた。その殆どが交代人格は複数人居る。DID患者の多くは解離を繰り返す傾向にあるようだ。以前も書いたが、DIDは基本人格が耐えきれないストレスに晒された時、防衛反応として切り離した記憶や知覚などが一つの人格として確立されると発症すると言われている。そして新たなストレスが生じると、同様にまた人格を生み出す事があるようだ。
だが、和の場合はそうではなかった。俺が生まれた後も学校でのトラブルは続いたし、災害も経験した。その度に俺に交代する事はあったが、他の人格が表れる事はなかった。その理由について俺なりに推察をしてみた。ここから先は、素人の一推察として読んでもらいたい。
俺は、人格には基本人格の多面性やこうありたいという理想の一部が反映されていると思っている。その多面性や理想を自分に落とし込む事が出来ないと人格として確立されるのではないだろうか。
例えば和であれば、泣かずにその場を耐える事、思っている事を言語化する事、それらは理想ではあったが6歳の和には難しかった。そして、その行動や俺が生まれるきっかけとなった出来事で感じた思いを『自分の事』としては受け止められなかったのだろう。その結果、俺が生まれたという訳だ。
だが、それ以外の面において俺と和の価値観は近い。物の好みなどは異なるが、根本的なものの捉え方や考え方は似ている部分も多い。勿論、違う部分もあるにはあるが。それは、和の多面性の少なさから来るのではないかと俺は考えている。
多面性というのは、簡単に言えば場面によっての振る舞い方の違いといった所だろうか。学校や職場での自分や家庭での自分、友達の前での自分、あるいは怒りっぽい時の自分や穏やかな時の自分。そういったものが所謂「人の多面性」だと思っている。和にもこういった多面性がない訳ではないが、一般的にみると少ないように感じる。和の場合、大きく分けて「外での和」と「家での和」ぐらいの差はあるが、日によって怒りっぽいだとか、機嫌が悪いだとか、それによって振る舞いが変わったりなどはしないのだ。
「外での和」には俺の要素が含まれる。恐らく、『紘希』という人格は「外での和」から解離して生まれいるのだと考えている。
ここで話を本題に戻そう。何故和には俺一人しか人格がいないのか。(無論、人格は少ないに越した事はないのだが。)それは多面性の少なさから、「切り離したい自己」も少ないからではないかと思っている。例えば何かに強い怒りを感じたがそれを受け止めきれず解離が起こり攻撃的な人格が生まれるとか、友人関係がストレスとなって友人と接するのに適した人格が生まれるとか、そういった事がない。それは恐らく和が激しい怒りを感じる事がない、友人の前でも初対面の人でも関係なく「外での和」でいる事が関係しているのではないかという事だ。
加えて、和は何でも自分でやりたい主義だ。そしてどうありたいかの方向性の幅も狭い。「自分だと受け入れられない=切り離さざるを得ない自己」が少ないのだ。即ち、和が切り離さざるを得なかったのは俺の要素だけという事だ。
そして今もなお、和にストレスがかかると俺に交代する事で解消されているのだろう。全てが俺が担える範囲内なのだ。それが、和の中には俺しか存在しない理由なのではないかと思う。
DIDにおける交代人格の生まれる仕組みはまだ解明されていない事も多い。過度なストレスからの防衛手段だという事はわかっているが、俺の生まれたきっかけ以外の和のトラウマが過度なストレスに値しないとも思えない。
今後も様々な角度から考え、その記録をここに残したいと思っている。




