俺の話。
今回は、和がDIDを発症した経緯について綴っています。フラッシュバックなどしやすい方はご注意の上、ご自身の体調第一にして頂きますようお願い致します。
今回は、改めて交代人格である俺自身について綴ってみようと思う。
そもそもDIDというのは、基本人格が耐えられない苦痛やストレスに晒された時、自分を守る為にその苦しみを肩代わりする人格を生み出して発症すると言われている。つまり、和にとって耐えがたい苦痛を代わりに背負う為に俺が生まれたのだ。
俺が交代人格として表で生活をするようになったのはつい最近の事だが、俺が生まれたのはずっと昔、和が6歳の5月だった。実に17年半前、和が特別支援学校の小学部に入学したばかりの頃である。そのきっかけについては、俺自身のフラッシュバックを防ぐ為にもあまり詳しく書く事は出来ないが、出来る範囲で書いてみようと思う。
学校で母の日に贈る母親への手紙を書く授業があった。その時和は、大好きな母へ日頃の感謝と大好きであることを綴った。しかし、担任たち(和の学校は二人担任制だった)はそれを非難し、障害児として生まれた和の人格までもを否定する言葉を口にした。その時誕生したのが、俺「ひろき」である。
当時の俺は、16歳だった。17年前の年齢と現在の年齢が何故10個しか変わらないのかは俺たちにもわからないからスルーしてほしい。ともかく16歳だった俺は、社会的には未成年にあたる年齢ではあるが、6歳の和にとってはさぞ大人に感じられたのだろう。和であればパニックを起こして泣きだしていたであろう場面を、俺はただ黙って聞いていた。それがきっと、6歳の和が求めていた行動であると俺は信じている。
それからも度々、学校ではトラブルが起きた。端的に言えば担任に嫌われていたのだと思う。理不尽に責められたりと担任からのパワハラ発言がある度、俺が表に出てその言葉を聞いていた。
小学3年生の時の担任に、言葉遣いを注意された事があった。「女の子なんだから、男の子みたいな言葉はつかわないように」と。それは何かの拍子に俺が出ていた時の言葉遣いを指していたのだと思うが、叱られた時には既に和に戻っていた。和にとっては全く身に覚えのない事だろう。それについては今でも申し訳ない事をしたな、と思っている。
そんなこんなでいろいろな事が起こる学生時代を俺は和の中で過ごした。時折和に意見を言ったりしていたが、以前書いたように和は当たり前の事であり、その内容は自分の無意識の思考だと思っていたし、表に出ても短時間ただ黙っていることがほとんどだった為、俺の存在が知れ渡ることはなかった。
和が高等部を卒業してから今年に入るまでの約5年間の記憶はほぼない。恐らくは和が在宅生活を送っていた為、俺が必要となることがあまりなかったのだろう。
今年に入り、俺が表に出て診断を貰うまでの事はまた次回以降書こうと思う。