ヌイ(26)の一日
ヌイの朝は雄鶏の一声によってもたらされる
コケコッコー
木造平屋の自宅のベット上で目覚めると、農具で雑然とした室内から出て表の井戸で軽く身支度を整える。
そのまま自分の飯の前に家畜の世話に向かうのだ。
家畜の世話の後は、畑の世話、また家畜の世話と休まず動き続け
ようやく自分の飯にありつけるのは朝ご飯より昼ご飯といった時間である。
時間の概念など気にせず、ここまでを一区切りとして捉え
この後は出荷の準備をしたり、加工品を作ったり
村に食事しに下りたり、己の牧場を整えたりと日によって気ままに過ごしている。
このまま淡々と生き、死んでいくのだろう
日々の繰り返しで漠然と考える。それに不満を抱くほど、若くはない。
この村に住むのは自分を含め世の喧騒に疲れた
世捨て人のような者ばかりだ。
この日も誰ともしゃべらず一日を終えることになりそうだ。
農具を片付け、しかしまだ時間があるかと ふと考える。
川の仕掛けを確認してくるか
牧場の裏の崖を下りればすぐなのだが、村と山の行き来には必ず入り口の帳簿に記録を残さねばならない。
口うるさいところがないこの村の唯一といっていい決まり事だ。
わざわざ遠回りするのは面倒だが、反抗するほどのものでもない。
ヌイは牧場の坂を下り、村の門を目指す。
坂の途中で教会からガリガリの少年が出てくる。
「ああ、ヌイ。この時間に会うのは珍しいね」
「川に行く」
「ちょうどよかった!最近ガキんちょ共があの辺で遊んでんだよね、早く帰って家のこと手伝えって脅かしてくれる?」
「お前の仕事だ」
調子よく他人を使おうとしてくる。
こいつは要求を呑むと、次から次へと人を試すようなところがある。
どこまで甘えが許されるのか試す性格は痛ましいとは思うが、余計な荷物はごめんだ。
たいして本気ではなかったのか、そのまま軽口を叩きながら連れ立って歩く。
川に行くならついでに水を浴びて帰るかと、邪魔にならないように編んでいた毛の束を手にとる
そのまま腰元に下げていた鎌で刈り取ると横から非難の声が上がった
「雑!ただでさえムサイんだからもっと気を使いなよ!信じらんなーい」
……うるせぇな
この日初めて感情が乱される
身なりに気を使ったって今さらだろう。長いこと編まれていた髪を解きほぐしながら
舌打ちで返答する
外見を揶揄する言葉に苛立つ心がまだあることが、煩わしい
いくつも年下の少年を傷つけてやりたいドス黒い気持ちが不愉快で
水を浴びてさっぱりしよう。こんなクサクサした気持ちで一日を終えられるか
足早に川を目指す
水の流れるさまを見るのは心が落ち着く
ゴツゴツとした岩が水で削られ丸く整えられていく神秘性も素晴らしいと思う。
川の仕掛けを引き上げようとしたとき、同行した子供がやりたがる。
いや、もう子供の年齢ではなかったか。
教会の孤児院は15の成人で働きに出るのが通常だが、コイツの教会は数年前から神父不在で
一番年長のコイツがチビ共の面倒をみている。チビ共がもう少し大きくならなければ身動きが取れないのだった。
この閉鎖的な村に望んだわけでもなく留まり続けるというのは、好きで定住している俺よりストレスがたまるのだろう。
この年頃らしく目新しい刺激に飢え、いろんな物事に興味を持つ姿は俺には眩しいものだった。
仕掛けの回収を任せ、辺りを見渡すと上流の方で大きな水音がした。
考えるより先に足が動く
コイツはこのあたりでガキ共がよく遊ぶから迎えに来ているのだ。
あの水音は遊んでいる音ではない。
誰かが溺れている。
川沿いを駆けあがっていく
程なくして人間の頭のようなものが川のど真ん中に浮かんでは沈み、もがいているのが確認できた
川へ飛び込む前に手持ちの刃物を投げ捨てる
救助対象は暴れている。泳げないのか?それならまず川には入らないだろう
しかし、怪我をしている動きではない。川へ落とされたのか?
孤児院のガキは皆一様にガリガリで棒のようなのに、ずいぶん服を着こんで球体のようだ。
首に腕をかけ、岸まで引っ張っていきながら
何事もなく始まった一日が、終わりに近づきバタバタと連続して面倒事が起きていることに
うんざりとしている自分がいる
この後は孤児共の話し合いに巻き込まれ、村長への報告…
いや、もし溺れていたのがよそ者だった場合はもっと面倒か…
今は俺以外すがるものなどないように腕に触れ大人しくしているが、顔を見た途端
悪漢に出くわしたかのように怯えられる可能性がある…
さっさと酒飲んで寝てれば良かった。
腕の中の生き物を岸へと引き上げ、自分も川から上がる
怪我はないかと足元をうずくまる生き物に目を向ける
ちょうど向こうもこちらを見上げ、呼吸が止まる
川が神を生んだ
しゃべっている、俺に声をかけている
そう認識できているのに、理解ができない
世界から言葉が消えてしまったかのようだ
体が木偶のように動かない
耳の横に心臓があるかのようにバクバクとうるさい
まろやかな頬、丸くて大きな瞳、鼻も唇も丸みを帯びていてどれをとっても美しいとしか言えないパーツで
うるんだ瞳でみつめられ、唇が開けばその奥が覗け…
バッと目をそらす
神の芸術を浅ましい思考をもって鑑賞するなど許されない
川に映る俺はみっともない顔でこちらを見ていた
なぜ、なぜ俺はもっと身なりに気を使っておかなかったのか…!!
今日出逢うとわかっていれば鎌で髪なんか切らなかった