2 これは推し?それとも恋? いや、それは恋でしょ!
夕暮れの中を帰っていく灰色さんの後ろ姿を見送ると、フローラは、ふうっと満足と寂しさが半分ずつのため息をついた。
(今週もカッコよかったなあ。あのオレンジのダリアは、今日イチ押しの花だったから、選んでもらえてうれしかった。本当はそれを言いたかったけど、灰色さんの前だと何だかいつも緊張してしまう。他の人なら、全然そんなことないのにな)
たったこれだけのことだけど、フローラは水曜日が待ち遠しかった。
彼が門の前で少し高い背をまっすぐ伸ばし、綺麗な姿勢で立っているのを見るのが好きだった。フードを被っている時は分かりにくいが、きちんとした少し長めの黒髪が精悍な顔立ちに影を落とし、実直に周囲を見渡す姿はただひたすらにカッコいいと、フローラはいつもこっそり見惚れている。
そして、仕事帰りには灰色のフードを被って、少し気難しそうな顔で無愛想に花を買っていく。本人の雰囲気と違った明るい花を選ぶのもなんだかいいな、とフローラは思っている。
毎週灰色さんが来るたびに、少しは話をしてみたいと思うものの、他の人と違ってどうも緊張してしまい、うまく言葉が出なかった。元々、人見知りもせず、人に対して臆したことのないフローラは、どうして自分がこんなに緊張してしまうのか、さっぱり分からなかった。
いや、灰色さんもきっと話しかけない方が気楽だろう、店主としては悪くない対応だよね、などとひとりで自分を納得させる。
あまり勝手に思いを膨らませるのは良くないと、それなりに自制する気持ちは一応ある。それにもう成人もとっくに過ぎている。近い年の友人たちは、どんどん結婚相手を決めていた。相手のことを何も知らずに、見ているだけで好きだなんだと言う年でもないと、自分だってそう思う。
だけど、冷静な自分とは別に、灰色さんを見るたびに、どうしようもなく浮かれてしまう自分がいる。
もうこれは、推し、というやつではないのだろうか。いっそ、応援メッセージを書いて掲げてみようかなどバカげた妄想が頭に浮かんできて、一人でふふっと笑ってしまう。
花屋の店先から城門に見えるように、「お仕事がんばって!」なんて書いた看板を掲げてみたら灰色さんはどんな顔をするだろう。……絶対反応なんてしなさそうだし、常連を一人なくしそうだ。妄想にとどめておこう。それより、今日のおすすめの花を看板に書いて出した方がよほどいい。うん、これは案外いいアイデアかも。今度、中央通りの看板屋で安い黒板を買おうかと、フローラは考えを巡らせた。
手元では、仕掛かっていた花束の続きを作っていく。
とある舞台俳優が大好きで、毎週劇場に通っている友人が目に浮かぶ。
仲良しの糸職人・ライラ。彼女は推しの舞台俳優を応援して、劇場に通いつめる充実ライフを送っている。
出会った頃には引っ込み思案だったライラが、推しを見つけた頃からイキイキと活動的に変わっていくのを、フローラは眩しいような気持ちで見ていた。今、作っている花束も今夜の舞台にと、彼女に予約されているものだ。もうすぐ受け取りに来るだろう。
ライラには幼馴染の婚約者もいる。フローラにはよく分からなかった。決まった相手がいながら別の人を追いかけるのはどうして? と聞いてみたところ、恋や愛とは全く違うと力説された。
ライラもやっぱり「推しの姿が見れるだけでいいの! むしろ目の前にいたら緊張して絶対喋れないよ!」って言うのだから、似たようなものかもしれない。それとも違うのかな。やっぱり話してみたいと思ってしまうから。
ちなみに、ライラに灰色さんの話をちょっとしてみたところ「それは、恋でしょ!」と即答された。だけど、その辺りの違いはフローラにはよくわからない。
しばらくすると、店の鐘がカララランッ、と勢いよく鳴ると同時に、ライラが駆け込んできた。
舞台の開演時間ギリギリなので、急いで走ってきたのだろう。焦茶のおさげは乱れ、丸い眼鏡がちょっとずれてしまっている。
「ごめん! 時間ないからすぐ行かなきゃ。仕事が遅くなっちゃって」
「大丈夫。注文の花束はできてるよ。お仕事、お疲れさま」
「ほんっと疲れた。早く推しに会いたいよぅ」
「今日の花束、これでどう? 注文どおりの青とオレンジの花をメインにしたよ」
青とオレンジは、演目の主役の二人が来ているドレスの色。そして仕上げの水色のリボンは、彼女が推している舞台俳優のイメージカラーだ。彼女の持ち物は、明るく爽やかな水色であふれている。
「はわあああ! 最っ高! 完璧イメージ通りよ、ありがとう!」
「青とオレンジは、アベルとロジーナのドレス色に合わせたんでしょう? 今日の舞台演目が”ドラセナの喜劇”だって言ってたから、絶対そうだと思って。それでね、メッセージカードはクローバーの絵柄入り」
「うわわわ、アベルとロジーナの出会いアイテムだ……最高……!」
「よさそう?」
「もちろんよ! ねえ、もしかして劇見に行った?」
大興奮の彼女をみて、フローラもうれしくなった。
「うん、この前観に行ったの。とっても面白かった」
「えっ、えっ、本当? ほんとに観に行ってくれたの?」
「だってライラがとても楽しそうに話すから、観たくなって。本当に面白かった。紹介してくれてありがとね」
「こっちこそありがとう。やだ、語りたい! ああっ、でも開演時間が……」
「じゃあさ、明日一緒に温浴行く? 私も感想話したいし」
「やった。あ、でも週末の方がゆっくりできるかな? 週末はどう?」
「ごめん、週末はザスティックの草原に行く予定なんだ」
「わー、あの頑固爺さんか」
「こだわりの職人さんよ」
あけすけなライラの言葉に、フローラは苦笑する。
ザスティックの草原は、城下町から離れたところにある大きな園芸場だ。ゆっくり荷馬車で行けば、往復半日ほどかかる。
腕のいい園芸師の老人が一人で管理をしていて、その品質は極上だ。主に育てているのは花だったが、多少の茶葉や野菜も栽培されていて、王宮料理人が直接買い付けにくるというほどだ。
そしてザスティックの老園芸師は偏屈なことでも有名で、決まった相手としか取引をしない。フローラはその数少ない取引相手の一人だった。幼い頃から荷馬車に乗り込みやってきて、目を輝かせて草花を見ていたフローラを、同じく植物オタクの老人は同志を得たりと可愛がってくれていた。
「じゃあ、また明日の夜、仕事終わったら来るね。花束もありがと!」
「うん。また明日。こちらこそ、毎度ありがとう」
お代を払うとライラはいそいそと花束を抱えて店を出ていった。