ヴィーナスが哭く
人差し指でインターホンのボタンを押した後に聞こえる呼び出し音は至ってシンプル。
門を開けてピンクの薔薇が絡みついた白いアーチを抜けると玄関の扉が開いた。
「いらっしゃい、咲織ちゃん。いつもありがとうね。」
気高い貴婦人が黒のワンピース姿で私を迎え入れた。
「今日はね、スコーンを買ってきたの。近所に新しくお菓子屋さんが出来てね…そこのお菓子は全て無添加のオーガニックな材料にこだわっていて、とても食べやすいの。」
おばさんの話を聞きながら私は使い古された学校の鞄を金華山織りソファーの上に置く。
おばさんは話しながら金で縁取られた小花柄のティーカップに温かい紅茶を注いでいた。
「外は寒かったでしょう?コートはいつものところに掛けておいてね。」
コートを脱いでハンガーに掛けると外と中の寒暖差で鼻水が垂れてきた。
鼻を啜っているとブレザー姿の私を見たおばさんが不安気に尋ねる。
「学校に行ってきたのね…それで結果はどうだった?」
トレーに紅茶とスコーンを並べる作業を止めたおばさんは目を見開いていた。
私がニヤリと笑って人差し指を口元に当てるとおばさんは全てを悟ったように安堵して微笑む。
「部屋に行って。芳樹も朝から報告を待ち侘びているの。私は後から行くから。」
リビングを出て廊下を渡ると最奥の部屋に向かった。
ピッタリと閉まった木目調のドアを前にしてアンティークな金色のドアノブに手を掛ける。
ゆっくりとレバーを押して引くと扉が軋む音がした。
扉の先で暖房の暖かな風が私の身体をふわっと覆う。
目の前では車椅子に乗った先生が窓の外を眺めていた。
「芳樹!」
先生の名前を呼ぶと彼がこっちを向いた。
「華山…どうだったんだ⁉︎」
目と目が合うと先生は瞳を丸くして緊張した面持ちで尋ねた。
私はニヤけそうな顔を必死に噛み殺すように抑えて一瞬の間、黙り込むとVサインした腕を突き出して、「合格‼︎」と叫んだ。その瞬間、先生は言葉にならないような声で、あはっと笑うと安堵したように両手で顔を押さえて、「そうか…それは良かった……本当に良かった…」と喜びを静かに噛み締めた。
すると背後から先生の母であるおばさんが温かい紅茶とスコーンをトレーに乗せながら現れた。
「おめでとう、咲織ちゃん。」
おばさんが満面の笑みで祝福する。
テーブルの上に置かれたスコーンはイングリッシュスコーンでクロテッドクリームにいちごジャムとブルーベリージャムが添えられていた。
おやつを置いたおばさんは、「また来るわね。」と言って部屋を出た。
おばさんは私が遊びに来ると私たちが密室で何をしているのか定期的に様子を見に来る。ただそこに嫌味ったらしさはなく律儀にノックをして、紅茶のおかわりはどう?とか、部屋が暗いから電気でも点けたら?など気遣う様子を見せながら私たちの動向を確認する。
私はおばさんのその行動が嬉しかった。おばさんにとって私は先生とどうこうなっているかもしれないと想像出来る存在なのだと思えたからだ。
ただ現実はおばさんの心配とは程遠くて私の目の前にいる先生は優雅に紅茶を飲みながら私を女としてではなく、一人の生徒としてしか見ていない。
「芳樹…」
私が先生の名前を呼ぶと彼は静かにこちらを向いた。
その瞬間、私が先生を初めて下の名前で呼び捨てした時を思い出した。
みんな先生のことを寺門先生とか、てらっちと呼んでいて中には馴れ馴れしいギャル数人が先生のことをヨッピーと呼んでいたが誰も下の名前で呼び捨てすることはなかった。
私は先生に他の生徒たちと同じように見られるのが嫌で差別化を図るために下の名前で呼び捨てした。
「ねぇ、芳樹〜絵が間に合わないから文化祭の時期延ばしてよ〜」
美術部の部室で芳樹の肩にしな垂れかかりながら嬌声を上げると先生は私の身体を引き剥がしながら、無理!と言った。
「えぇ〜でも間に合わないもん。」
「華山…他の生徒たちを見習いなさい。お前が俺と喋っている間に他の生徒たちは黙々と絵を描いているぞ。」
先生に言われて前を見ると数人の部員たちが時折、顔を見合わせて静かな声で喋りながら淡々と絵を描いていた。
私は彼女たちの様子を見ながら無意識に小さな声で、あの子達と一緒にしないで…と呟いた。
すると先生は体を寄せて私の頭を優しく撫でた。
あの子たちの描く絵は人気の漫画やキャラクターを真似て描いたイラストに過ぎなくて私の描く絵とは種類が異なっている。
私が描く絵は雑巾が絞られた形のまま固まったものや真っ赤なトマトに親指で穴を開けたものの模写だった。
彼女たちは私の描いた絵を1ミリも理解出来なくて私を変わった子だと言って近寄りもしない。
私は目の前で内輪ネタで盛り上がる彼女たちの背中を見ながら真っ黒な体の後ろ姿の絵を描いたことがある。
「この絵のタイトルは?」
絵を描き終えた後、先生が背後から私に尋ねてきた。
「何も見えない人です。」
私が答えると先生は優しく微笑んで、いいじゃん。と言った。
「いいじゃん。その皮肉めいた芸術…俺は好きだよ。」
俺は好きだよ。華山の考え方とか絵、俺は好きだよ。
先生から今まで何度もその言葉を聞いてきた。
先生には五年近く付き合っている一個下の彼女がいて、彼女は彫刻家だ。
「彫刻家ってお金もらえるの?」
放課後の部室で私が尋ねると先生は首を横に振った。
「あんまりもらえない。売れている人なんて一握りだから。」
「ふーん…じゃあ、彼女は貧乏なんだ。」
私の皮肉に先生は、ふふっと笑った。
「そうだね。だからいつか俺が養ってあげないと。」
「え…先生、結婚しちゃうの?」
「まだしないよ。いずれしたいってだけの話だよ。」
結婚なんて嫌だ!
そう叫びたかったけれど私がそれを言う立場でないことは理解していたし、それを言って先生に嫌われるのが嫌だったから我慢した。
「彼女とはどこで知り合ったの?」
「サークルの後輩。」
「へぇ…なんのサークル入っていたの?」
「陶芸。」
「陶芸って…あのくるくる回すやつ⁉︎あれ、できんの⁉︎」
私が声を上げると先生は愉快げに笑い声を上げる。
「ロクロな。…出来るよ。でも俺は手びねりの方が好きだったな。自分の手で土を伸ばしながら作るんだけど、歪で綺麗じゃなくて、それがよかった。」
そう言って学生時代を回顧する先生の目に私は写っていない。
先生には私の知らない過去があって、その過去を先生の彼女は知っていて現在に繋がっている。
私はどうしたって先生の中には入れなくて、ただの部外者だ。それが猛烈に寂しかった。
「芳樹…何かご褒美が欲しい。」
私の言葉に先生はイングリッシュスコーンを食べながら、こっちの顔をじっと見据えた。
高鳴る心臓を抑えながら先生の顔を見つめる。
先生の肌は前よりも白くなっていて冬になると友人たちと一緒にスキーやスノーボードに繰り出していた頃よりも頬が痩けた。
でも腕だけは以前よりも筋肉質だ。きっと脚がないから腕を使うことが増えたのだろう。
「何が欲しいんだ?あんまり高いのはダメだぞ。」
私から目を離した先生が紅茶の入ったティーカップに手を掛ける。
「違う!物じゃない…」
慌てて打ち消す私は言いたい言葉が喉元まで来ていて今すぐにでも伝えたかった。
伝えたい言葉がある。でも先生は私の目を見ずに、「物じゃないとダメだ。」と返した。
’’物じゃないとダメだ。,,
先生は私の気持ちを知っていてそれには応えられないことをいつもそこはかとなく伝える。
「…じゃあ、何も要らない。」
私はいつも先生に気持ちを伝える前にフラれる。先生はとても優しくて残酷な人だ。
でも私は先生が好き。誰かにトキめいたりドキドキする恋をしたことがある。好きな人の前だと緊張して浮かれて、いつもの冷静な自分ではいられなくなる。今はその相手が先生なのだ。
でも先生はそんな私の気持ちを見抜いて以前、こう言った。
「この人ありだなって思って、そこから恋愛が始まって終わって…それを繰り返していくうちに気づいたらずっとそばにいる人に出会えるんだ。いつか華山にもそんな人が現れるよ。」
初めてこの家に入って話した時の言葉だった。
先生は緊張と高揚でいつもより声が上擦る私の頭に大きな岩を落とした。打ちのめされた私は何日も落ち込んで涙が出そうになったけれどグッと堪えた。
泣いちゃダメだ。泣かない。
だってまだ始まったばかりなのだから…
「私、先生が卒業した美大を受験する。」
去年の春に私はこの家で、先生の前でそう決意した。
先生は厳しい声で、「受験って言うのは華山の将来が決まるものだから自分が行きたいって思うところじゃないと…もしも俺の期待に応えたいとかだったらやめた方がいい。」と言った。でもそう言っている先生の瞳が潤んでいるのが私には分かった。
それから私は受験対策を聞きたいという名目で何度もこの家に通った。おばさんは私が来ることをとても喜んでいた。
「事故に遭ってから芳樹は誰とも会わなくなったの。前は大学時代の友達とスキーをしたり、彼女と旅行に行ったりしていたみたいなんだけど今は誰とも会わないし、誰とも連絡を取っていないみたい。きっと今の自分の姿を誰にも見せたくないのね…。でも本当は寂しくてしょうがないのよ…だからいつも来てくれてありがとうね、咲織ちゃん。」
あの時、おばさんは涙ぐんでいた。
交通事故に遭って足を切断することになった先生は突然、当たり前だった生活を失った。
一人暮らしをしていたアパートで当たり前のように起きて、自転車に乗って学校まで行って仕事をして、たまに彼女と遠くに出掛けて、共通の友人たちと食事をする。
そんな平凡な日常は突然消えた。
仕事を辞めて将来性のない先生は彼女にフラれて、共通の友人には顔向け出来なくなった。
事故を起こした人は八十五歳のお年寄りでよくあるアクセルとブレーキの踏み間違いだった。犯人は半年後に心筋梗塞で亡くなって、先生も先生の家族も怒りをぶつける場所を失くした。
先生にはもう何も残っていない。
私が知らない過去で繋がった現在を失って一人、部屋にこもっている。
「先生、また来るね。」
私が手を振ると先生は笑顔だった。
「また来てね、咲織ちゃん。」
おばさんはいつもそう言って玄関まで私を見送る。
おばさんは自分の息子を生かす術を探している。愛する我が子が前向きになれる“何か“を探している。
私は先生の希望の星になれるだろうか…
外に出ると冷たい空気がまとわりついて吐いた息が白く上がる。
駅まで歩いている間にフラれた傷は癒えていた。もう何度も先生にフラれているからフラれ慣れていた。
先生はきっと別れた彼女を引きずっている。失ったものを振り返って見続けているから前に進めていない。だから私はフラれたくらいでくよくよしない。何度もアタックして砕けても砕けても先生を想い続けるのだ。永遠に続く愛はあるんだよって私が証明するのだ。
電車が来るホームの真ん中で顔上げた私は、よし!と叫んだ。それを側にいるサラリーマンが訝しげに見ていた。
愛はあるんだよ。私が証明してあげる。
「ねぇ、どうして先生は先生になろうと思ったの?」
二年前、私は部室で先生にそう尋ねた。
先生はデッサンする手を止めて教えてくれた。
「中学生の時に学校でミロのヴィーナスの映像を観たんだ。何気なく見た彼女の姿にすごく引き込まれた…。それでいつか生で見たいって思った。でもうちの家は教育に厳しかったから何も理由なしにフランスまで行くのは許されない…だから彫刻家になりたいって嘘をついたんだ。それでフランスに行って本物を見たよ。…綺麗だった。すごく美しかった。それでもう一度、ヴィーナスを見たかった俺は家に帰って美大を受験するって伝えたんだ。そしたら親に、彫刻家は将来が不安だから教師になってくれって頼まれたんだ。それだったら美術科の先生になればいいじゃんってなって今に至る。」
先生は面白おかしくそう言って私も単純明快な先生の話に吹き出した。
「先生はヴィーナスのガチ勢なんだね。」
「恋しているのかもしれない。」
「ミロのヴィーナスに?なんで⁇」
「理由なく惹かれているから恋なんだよ。」
「じゃあ、彼女とヴィーナス、どっちが好き?」
私の質問に先生は呆れ顔でため息を吐く。
「それはハンバーグとショートケーキ、どっちが好き?って聞いているようなものだ。」
「比べるものじゃないのね。はいはい、分かりました。」
先生の言いたいことは理解できる。
だって私もお母さんと先生、どっちが好き?って訊かれたら答えられないもの。
でも先生がヴィーナスに惹かれていなかったら私も先生の彼女も先生には出会えていなかった。そう思うとヴィーナスが憎くて愛おしい。
私は学校ではクラスの子たちに明るいけど感性が合わないと言われて浮いている。先生はそんな私を受け入れてくれた。
私の中にある暗い部分を掬って拾い上げてくれた。
きっと先生も私と同じ人なのだ。だから他の生徒には一線を引いているのに私だけは受け入れてくれる。
だから私は誰にも言わなかった。
突然、先生がいなくなったことで数名の生徒が先生とコンタクトを取ろうとしていた。でも誰も先生の場所には辿り着けなかった。
私はsnsで先生のアカウントを探し出すとそこから先生のお母さんのアカウントを見つけてメッセージを送った。
そこから何度も何度も交流を積み重ねて今の場所に辿り着いた。
私は先生を絶対に見放さない。意地になっているって言われても構わない。先生のそばにずっといるんだ…。
隣から啜り泣く声が聞こえて一瞥する。
ボブヘアで黒髪を耳にかけた女は涙を流していて涙が通った部分だけ化粧が剥げていた。
私はその女が先生の元カノだと野生の勘で気がついた。
涙しながら口元を押さえる彼女の左手薬指には小さなダイヤモンドが光る銀色の輪っかがついていた。
もしもこの人が先生の元カノだとしたら彼女は先生と別れて幸せを手にしたのだ。
家に帰ったら愛する人がいる。先生じゃない人がいる。
私達の前には先生の屍と笑顔の先生の写真が置かれていて出棺されれば先生の肉体は煙となって天高く昇り、骨は小さな箱の中に納められる。
先生の命はもうここには存在していない。
"先生、また来るね。"
あの時、先生は笑顔だった。
初めて家に来た時に見た絶望している表情と違って柔らかくて、とても穏やかな顔をしていた。
とても死のうとしているなんて思えなかった。
斎場には黒い服を着た多くの人々が座っていて親族席には泣き崩れるおばさんの後ろ姿が見える。
私はまだ先生が死んだことを実感していなくて、先生の屍は棺桶に入っていて近くに寄らないとよく見えない。
先生が死んだ。おばさんから連絡が来た時、時が止まったようだった。毎秒進んでいく時計の針がピタッと止まったような感覚だった。
"先生、また来るね。"
私が先生にそう言った二日後の昼の出来事だった。
早朝にはすでに首を吊って亡くなっていたらしい。
私は先生の希望の星にはなれなかった。先生の愛する人にはなれなかった。
棺桶に入った先生の遺体と対面した瞬間、私は初めて先生の死を実感した。
先生の肌は血色を失って唇は真っ白になっていて、瞳は閉じていた。今まで一度も見たことがない先生の顔だ。でも紛れもなく先生で、葬儀は故人の死を実感する為の儀式なのだと気がついた。
先生は屍になり、想いは後悔に変わり、誓いは果たされないまま失った。
先生にとって私は一体なんだったのだろう。
私には家族がいて失ったものは先生だけだ。たった一人だけ…でも、私の半分がなくなった。
取り残された私は先生の通っていた学校に行って何をすればいいの?
先生がいなくちゃ何も意味がないでしょう…
私は先生の遺体と向き合って初めて涙が溢れた。
目の前に映るこの顔は紛れもなく一週間前に笑顔だった先生だ。
息が止まりそうなほどに苦しい。
哭くってこんなに苦しいんだ。
死を受け入れるってこんなにも酷なことなんだ…
静寂の中で泣き崩れる私の視界に他者は一人も映らず、そこは私と先生、二人だけの空間だった。
この時だけは先生の家族も先生の元カノも私の頭の中から消えて私は先生の亡骸とだけ向き合っていた。
先生が死んだ後も私の人生は続いていく。
ただそこに、いてほしかった者がいなくなった。ただそれだけだ。
おぼつかない足取りで先生から離れた私は出棺された後、どう生きればいいのか路頭に迷うことを理解した。
続編書く…かも。