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厚型クッションで座高調節された、そのチェアに横たわると……
シャラと水流が髪を濡らして、響の手が髪を通る。
「温度、大丈夫?」
「ん……」
丁寧にすすがれて……
それから、ふわっと。
辺りにシャンプーの匂いが漂った。
「……いい匂い」
爽やかで、ほのかに甘くて、どこか苦くて……
なんだか懐かしい匂いがした。
「ネロリの香りだよ?
ビターオレンジの」
「へぇ……
なんか落ち着く」
泡立てられたそれは、髪とモコモコ戯れて。
そこを響の指が、クルクルシャカシャカと心地よく刺激する。
う、わ……なにこれ。
すごく、気持ちいい……
今までも、美容室でのシャンプーを気持ちいいと思ってた。
だけどこんなに気持ちいいのは初めてで。
あまりの気持ち良さに、意識が飛びそうになるくらい。
それほど気持ちいいのはきっと、髪とその仕事を本当に愛してるからだろう。
そう思ったところで、優しい声が降りかかる。
「さっきの話さ……
もしかして、逃げて来たこと後悔してる?」
「えっ……」
まさかその例え話を私の事だと思ったのだろうか。
「私は別に、育児から逃げて来たわけでもなければ、子供もいない。
でも確かに、後悔はしてる」
なぜだろう……
ネロリの香りに癒されたのか。
響のシャンプーに絆されたのか。
それとも、気付いてくれたのが嬉しかったのか。
なんだか心がほどけてく……
「例えば、死ぬほど追い詰められてたとして。
もし死んだら、死ぬくらいなら全部投げ出して逃げればよかったのにって思ってくれるはずなのに。
生きて逃げたら、怒られたりガッカリされたり、迷惑かけたり心配かけたり……
自分が自分を非難する。
結局、どれほど追い詰められてるかなんて誰にもわからなくて。
どうすればいいのかなんて、自分にもわからなくてっ……」
ますます最悪の結果に結びつく。
「逃げるが勝ちで、いんじゃない?」
「……え?」
思わぬ言葉に戸惑うと。
「そんな時があっても、いんじゃないかな」
抱えてる罪悪感が、そうほどかれる。
その時。
つぅーうと、絶妙なマッサージが施されて。
「痛くない?」
「んっ……
気持ちよすぎて、ヤバイくらい……」
頭皮を滑る響の指に、感覚が連れ去られそうになる。
「……俺も、逃げて来たんだ」
そこでふいに話が戻る。
「え、そーなの?」
「うん。
地元は隣のO県でさ。
美容学校卒業したあと、こっちに就職する形で逃げて来た」
流すよ?と、ひと声挟んで。
泡髪がクシュクシュと掬い流されていく……
「それで、逃げるが勝ちだった?」
「どうだろ?
でもそう思うようにしてる。
それがその時の自分にとって、正解なんじゃないかって。
それに、そこから見えるものもあるんじゃないかなって」
確かに……
逃げた事やその生活で、親や秀人の気持ちを前より考えれるようになった。
「なにより。
誰にわかってもらえなくても、自分くらいは自分の事守ってあげなきゃ。
あと、一応彼氏だし?
俺は憧子さんの味方だから」
その言葉に胸が締め付けられて、泣きそうな気持ちになった。
「んっ……
……ありがとう」
「けどさ、憧子さん。
逃げても出来る事はあるんじゃないかな。
後悔してるなら、せめてメールとか手紙くらいは書いてみたり?」
確かにそうだ……
「ん、そうする」
「よし、終わりっ。
今トリートメントしたから、シャワーの時流しといて?」
軽くタオルを当てられて……
起き上がるとスッキリ頭が軽い。
それに、心のつかえまで洗い流されたみたいだった。
「ねぇ、また洗ってくれる?」
「全然いいよっ?
憧子さんが良ければ毎日でもっ」
「それはいい」
さすがに毎日は気が引ける。
でもおかげでその夜は……
途中で目が醒める事なく、ぐっすり眠れた。
翌日。
今はメールもラインもしてない私は、仕事帰りにレターセットを買って帰った。
だけど、なんて書こうか思い悩んで……
"心配かけてごめんなさい。
でも本当に大丈夫だから、どうかしばらくはそっとしておいて下さい。
あと、秀人にもそう伝えて下さい"
結局それだけ。
でも書かないよりマシに思えて、肩の荷が少し降りた気がした。
なのに……
相変わらず毎日鳴り響く、親からの着信音。
それに加えて日曜は秀人からも。
なんだか、それじゃ納得いかないと責められてる気がして……
その音に追われてるような気がして……
電話が怖くなる。
ねぇ。どうしてそっとしてくれないの!?
私もう、頑張れないよっ……
苦しいよ……
そして、夜中に目を醒ます。
今服用してる眠剤は即効性もあって、こんなふうに途中で目が醒めてしまう中途覚醒にも有効だ。
だけど私はたまに、中途覚醒を引き起こす。
それはストレスが強い時や、休日がほとんどで。
また眠れる時もあれば、今日みたいに眠れそうにない時の方が多い。
そんな時は、一真と過ごす。
響を起こさないようにベッドを抜けると……
キッチンの引き出しからイヤホンを取り出して、ダイニングのソファに座った。
開いた携帯の動画に、眩しい姿が映し出されたと同時。
差し込んだイヤホンから、愛しい声が流れ込む。
彼と出会ったのは夏だった。
夏の太陽に負けないくらい、眩しい人だった。
その姿は瞳を透って、その声は耳を伝って……
身体に溶け込んで、涙に変わる。
だけど、どんなに泣いても……
いつも私を撫でてくれてたその手は、もう慰めてくれさえしないのだ。
それでもまた、次の動画を開いた。
『えーただいま、例の天主堂に来ています。
憧子が行きたがってた場所なのに、出張とはいえ俺だけ来ちゃってごめんなさい!
ではさっそく、映像だけでもお楽しみ下さいっ』
外光を透したステンドグラスが、煌びやかで神々しい翳りを堂内に落としてる。
『どっ?
綺麗だろっ。
昨日電話で寂しいって拗ねてたけど、少しは気が紛れた?
後で写メも送りまーす!
でも、今度は一緒に来ようなっ』
そう笑う、この爽やかで陽だまりみたいな笑顔が大好きだった。
『あと、提案なんだけどさ。
俺達お互い忙しいし、一級建築士取ったら出来る事も増えて、これからも寂しい思いをいっぱいさせると思うんだ。
だから提案なんだけど……あっ、また言っちゃった』
そんなところも愛おしい。
『えーとごめん、提案ってよりお願いかな。
これからは、そーゆう寂しさを可能な限り無くしたい。
そして、寂しさも薄れるような絆を築きたい』
急に真剣な顔して、真っ直ぐな瞳を向ける。
『北原憧子さん、俺と結婚して下さい!』
幾度聞いても、胸がこれ以上なく貫かれる。
当時とは違う、惨苦の衝撃で……
『言っちゃった……
やっぱ照れくさいなっ』
そのはにかんだ笑顔も好きだった。
『えと、返事は明後日。
出張から帰ったら聞かせて欲しい。
ノーなら電話で、イエスならJホテルに来て下さい。
詳しい事はフロントに伝えとくから。
一緒にお祝いのディナーが食べれる事を願ってますっ』
交際から4年の月日を重ねてされた、動画でのプロポーズ。
"告白とかお祝いって、サプライズが多いじゃない?
でもそーゆう嬉しい瞬間ほど、映像で残せたらいいのにね"
そんな話をした事を、覚えててくれたんだろう。
ごめん……
ごめんね、一真っ……
首元のネックレスをぎゅっとした。
何度目を閉じて、何度目覚めれば……
あと幾度それを繰り返せば……
この絶望から解き放たれるのだろう。
一緒に生きられないのなら、一緒に行きたい。
文字にした方が届く気がして、ツイッターに思いを託した。
〈ねぇ早く、連れてって〉




