86、『大好き』な人④
詳しく状況を聞き出してみると、どうやら魔王は、半裸の美女イアスが膝の上に乗り上げて唇を貪ることを許していたらしい。
「それは、少し――いえ、かなり、聞き捨てなりませんねぇ……」
「ぜ、ゼル……?」
聞いたことがないほど低い声が漏れ聞こえて、びくり、と肩を震わせる。眼鏡が光に反射して、瞳の奥が見えなくて怖い。
(そんなに露骨な性的コンテンツを、幼気なアリアネルに見せつけたと言う時点で許しがたいですが――それ以前に、魔界の頂点に君臨する存在として、迂闊としか言いようがありません)
びきっ……と額に青筋を浮かべて、ゼルカヴィアは胸中で沸々と怒りの炎を燃やす。
中級魔族が、王たる存在の膝に乗り上げ、上から貪るように唇に食らいつくなど、上下関係を誤認させるような光景としか言いようがない。
至高の存在であるはずの魔王が、中級魔族ごときが仕掛けた色欲に支配され、己の欲望に負けて、されるがままに官能を貪ったと捉えられても仕方がない体勢だ。
魔王が女魔族に馬乗りになっているなら、百歩譲って良い。
だが――膝の上に乗ることを許すなど、とんでもない無礼を許可したことになる。
「それが真実なのであれば、私は今すぐイアスを処刑に行かねばなりません」
「えぇ!!?」
「それくらいの重犯罪です。魔王様にも、しっかりとご自身のお立ち場について、臣下の口から言い聞かせねばなりません」
頻繁に皮肉を口にすることはあっても、本気の怒りを燃やすことはほとんどない青年が、はた目にも明らかなほどに激怒していることを察し、アリアネルは思わずたじろぐ。
「ですが――そうですね。そんな場面を見てしまったとしたら、貴女が驚き、イアスが魔王様の特別な相手なのではと勘ぐってしまう気持ちもわかります」
「う……うん……」
「……辛かったですね」
「え――」
ゼルカヴィアは、一瞬で怒りの炎をかき消して、アリアネルの頬へと手を伸ばす。
少女は、驚きに目を何度か瞬いた。
「毎日、毎日、どれほど塩対応をされてもめげずに『大好き』を伝えていた貴女です。それが、ポッと出て来た謎の女魔族に、あっさりと魔王様の特別を奪われたように感じたのでしょう。今までの全てが無意味だったのでは、と思えば、哀しみに支配されてしまう気持ちもわかります」
「ゼル……」
「不愛想で、決して応えてはくれなくても――魔王様は、貴女からの『大好き』も頬への口付けも、全て何も言わず受け入れてくださっていました。幼い貴女が口付けるために首に縋りつけば、落ちないように身体を支えてくださいましたし、膝の上に乗ることも許してくださっていました。魔法の訓練のために移動するときは、ひょいとその身体を抱き上げてくれていましたね」
「ぅ……」
色々と思い出したのだろう。じわり、と竜胆の瞳に水滴が滲む。
「魔王様は、お優しい方ですが、同時に誰よりも厳しい御方です。他者が貴女と同じことをしたら、間違いなくその場で不愉快だと言って首を刎ねてしまうでしょう。それを――貴女にだけは、なぜか、許していた。それは、不器用な魔王様の、わかりにくい優しさの賜物――貴女が、ひたむきに、めげずに、毎日必死に”愛”を伝え続けた結果なのだと、思いたい気持ちはわかります。……し、私も、そのように思っていましたよ」
「っ、ぅ……ふぇ……ゼル……」
「勘違いなどではありませんから、自分を責めてはいけませんよ、アリアネル。魔王様が貴女にだけは特別に無礼を許していたのは事実です。……それを、何もしていない他の魔族にも同じように許していたと知って、魔王様の優しさは自分の努力の成果ではなかったのだと思い、辛かったんでしょう?」
「ふぇ……ぅぇええええん」
ゼルカヴィアの優しい声音が染み入り、アリアネルはついに涙腺を決壊させる。
声を上げて子供のように泣く少女の身体をそっと抱き寄せて、頭を撫でてやりながらぽんぽん、とあやすように背中を叩いた。
「貴女は、あの女魔族に嫉妬したわけでも、魔王様に失望したわけでもなかったのですね」
「ひっく……ぅ、ぅぅぅ」
「ただ、己の無力が哀しくて――毎日毎日、ひたすらに信じて続けてきた行いが、何にも結び付かないのかと思って、絶望してしまった……それだけなのでしょう」
「ゼル、ゼル……うわぁあああん」
ぎゅうっと長身の青年の腰のあたりに腕を回してしがみ付きながら、アリアネルは思う存分声を上げて泣きじゃくる。
「まだ、その結果、魔王様が幸せそうな顔でイアスと口付けをしていれば救われたのでしょうが……それすらもなかったとなれば、もう、貴女はこれから先どうしていいかわからなくなった――そういうことでしょうか」
「ふぇ……ぅえっ……ぇっ……」
ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、ゼルカヴィアの衣服で思う存分涙を拭う少女に、青年は苦笑する。
赤子のころから、人の衣服を涙だの涎だの鼻水だので、随分遠慮なく汚してくれる女だ。
「そうですねぇ……魔王様との付き合いも長い私から言わせてもらうなら、恐らくどこかで何かの誤解が生じているのだろうとは思いますが――貴女が目にしたことは全て現実で、それにショックを受けたことも事実でしょう。この小さな胸が押しつぶされそうに痛んでいるのも、推察できます」
「ぅぅぅ……」
「さて、どうしましょうかねぇ……」
のんびりと言いながら、ゼルカヴィアはゆっくりと落ち着かせるように少女の背中を撫でながら考える。
「では――魔王様に、愛想を尽かしてしまいましょうか」
「へ……?」
いい思い付きだ――とでも言いたげに口にされた言葉に、思わずアリアネルはぽかん、と口を開けてゼルカヴィアの長身を仰ぐ。
眼鏡の奥の優しい瞳は、決して冗談を言っているようには思えない。
「心優しい貴女が、冷酷な分からず屋の魔王様に付き合ってあげる義理などないのですよ」
「ぜ、ゼル……?何を言って――」
「どうせ、どれだけ好意を示したところで、魔王様は応えて下さらないでしょう。それは、万年、共にい続けた私が証明しています。所詮不毛な行為なのですから――もう、やめてしまってはどうか、と言っているのですよ」
にこ、と深緑の瞳が笑みの形を造ったのを見て、アリアネルは驚きに声を飲む。
「で、でも――」
「アリアネルも愛想が尽きたことでしょう。そもそも魔王様は、決して貴女が憧れる『王子様』などではありません。怖い怖い、冷酷非道の独裁国家君主ですよ」
「え……えっと……」
「貴女が望むような『家族』の愛情を向けてくださるような方ではないと割り切るのです。……”パパ”とは結婚出来ないのだと、さすがにもう知っているでしょう?」
「なっ――そ、そんなの、む、昔の話でしょ――!」
かぁっとアリアネルは頬を赤く染める。どうやら幼い頃、何度もゼルカヴィアにしつこく『大きくなったらパパと結婚する』と宣言していた記憶はあるらしい。
それを恥ずかしいと思う程度には、常識を身に着けてくれていたことに、少女の成長の片鱗を感じながら、ゼルカヴィアはくすくすと笑ってひょいっとアリアネルの脇の下に両手を差し込み、小柄な身体を軽々と抱き上げた。
「ゎ――!?」
「では、私が結婚して差し上げましょうか」




