僕と家族
「あら、今朝はお寝坊なのね、歩さん」
学生服に着替えてリビングに降りると、経済新聞を読んでいる僕の伯母、美紗さんが声をかけてきた。
「おはようございます美紗さん。実はいつも通り起きたんですけど宿題をしてて」
「そう言えば昨日は帰りが遅かったわね。気を付けなさいね、歩さんは可愛いのだから夜道で襲われないでね」
「……はい」
「……えっ!襲われたの!?」
先程までクールに紅茶を飲みながら仕事できる女ポーズをしていた美紗伯母さんが、突如新聞をテーブルに叩きつけ椅子から立ち上がった。ワナワナと震えるその口元から紅茶が滴り垂れている。
「なんで襲われた前提なんですか?」
「私の質問に二秒程間があったわ!正直におっしゃい歩さん!襲われたの!?」
「僕は男ですよ、襲われませんよ」
夜道ではね。
思わず昨日の放課後に要先生に襲われそうになった事を頭に浮かべてしまった。ヤバイヤバイ、もしこの件が美紗伯母さんにバレたら……
「もし何かあったら正直に言うのよ、番羽の名にかけて必ず天誅を下すから」
「……はい、ありがとうございます」
再び椅子に座り読みかけの新聞を手に取る美紗伯母さん。
番羽美紗。
僕の父、番羽卓の姉であり、『地域に愛される会社を』がモットーの番羽商事の代表取締役。
番羽商事とは、江戸時代から続く老舗問屋から根強く生き残り、今も地元にいろんな痕跡を残し続けている総合会社。
番羽不動産や番羽交通、旅館番羽屋に番羽ファームと、その他いろいろと手広くやっている会社。
そんな会社の経営決定権を持つ美紗伯母さんには二人の子供がいる。
長女は現在大手の銀行に勤め経営学を学んでいる最中。いずれ番羽商事を継ぐために。長男は三年前に有名大学に進学していて寮暮らし。きっと今頃遊び呆けているだろう。
そんな成人した子供がいるとは思えないぐらい若々しく美しい美紗伯母さんと、美紗伯母さんの旦那さん、僕の両親と祖父母、そして僕の七人で、番羽本家に現在は暮らしている。ちなみに僕の家筋は分家になるので。
これだけ聞いたらもうすっごいお金持ちの家というイメージが湧くだろうが、正直実感はない。
別にお手伝いさんもいないし、運転手なんて雇っていないし、そもそも暮らしている家が古くさい。まあ三世帯が暮らしているから広いことは広いのだが、何というか田舎臭いのだ。
たまに来る親戚なんかは妙に落ち着くと言うが、たまにだから良いのであって長く暮らしている人間にとってはたまったものではない。
つまりお金持ち感が全くない。
なので僕も周りの人も僕をお坊ちゃんとは思わない。高級な最新の家具は無く、年季のある物しかない家なのだ。そもそも高価な物を買って貰った記憶もないし。
まぁそれでも地元の人にとって『番羽家』とは特別な意味を持つらしい。
「おはよう姉さん、歩」
眠い目を擦りながらリビングに現れたのは僕の父、番羽卓だ。
「おはようじゃないでしょ、何時だと思っているの。あなたの上司(美紗伯母さんの旦那)はとっくに出勤したわよ」
「上に立つ人は大変だな。で、トップの姉さんはまだいるのか?」
「代表取締役が一番に会社にいたら下の者は落ち着かないでしょ」
「そりゃそうだ。歩も早いな。もっとたくさん寝ないと背が伸びないぞ」
「うるさいな、朝から気分が悪くなる話をするなよ」
きつく親父を睨む僕に、歯を剥き出しにしてニヤリ顔する親父。そんな親父に美紗伯母さんが注意をする。
「朝から歩さんに絡まないの。それに歩さんは今のままで良いのよ。今のまま可愛い姿で」
「嫌ですよ何ですか可愛い姿でって……僕、男ですよ!」
「エヘヘッ、可愛い可愛い歩ちゃ~んってか」
「親父殺す」
袖をまくりあげ殴りかかろうとする僕に、自分のお尻をペンペンっと叩き挑発する親父。いつもの馬鹿な日常が繰り返される中、台所から呼び声がした。
「朝食の準備が出来ましたよー」
のんびりとしていてどこか抜けているような、良く言えば安らぎのある声。僕の母親が呼んでいた。
僕の母親の番羽薫は専業主婦。番羽商事の経営に一切関与していない。本人曰く、「家事をしている方が落ち着くから」らしい。
番羽家の朝食は基本和食だ。ご飯と味噌汁、あとは漬物。それと昨日の晩御飯の余り物とか。そういえば昨夜は校長の家で晩御飯をご馳走になったから、余り物が結構あるな。
「歩くん、たくさん食べてね。大丈夫、まだまだ身長伸びるよ」
「……ありがとう母さん」
悪気がない分、余計に僕の心に響く。
祖父母は朝早くから老人会の集いに参加しているため、食卓を囲んでいるのは四人だけ。
「そういえば昨日は何で帰りが遅くなったんだ?おっ、もしかして……デートだったか?」
朝からテンションの高い親父は妙にイラつく。もっと年相応に落ち着けないのか。だけど親父の一言で僕はあることを思いだしたので聞いてみた。
「親父さぁ、栗原先生を憶えてる?今はうちの高校の校長なんだけど」
「栗原?……あの栗原か!よく憶えているぞ!なにせスッゲェ暴力教師でな、すぐ怒るわ殴るわで、俺なんか何も悪いことしてないのによく縄で縛られて二階の校舎から吊らされたものだ。あの栗原が校長か!世も末だな」
「昨夜、栗原校長の家で晩御飯をご馳走になったんだよ。いろいろな話を聞かせてもらったよ」
縄で縛られて吊るされた、は、今はスルーする。朝からエグい想像はしたくないから。とりあえず親父に向かって会心の笑みを向けた。
「……いろいろってどんな?」
バツの悪い顔を向ける親父。
「いろいろはいろいろだよ。そうだなぁ、消防車は何台ぐらい来た?」
「消防車~?何の事だ?」
どうも覚えが無いらしい。そんな顔を見せる親父に美紗伯母さんは苦虫を噛んでいた。
「あなたが火災報知器のボタンを押しまくって小学校に消防車が殺到したの憶えていないの?」
「ん?あーあれか!あれは仕方ないだろ。何故ならそこに……」
「ボタンがあったから、だろ。どんな理由だよ」
僕と美紗伯母さんの冷たい視線を受ける親父。
「大丈夫だ。昔はエレベーターに乗るたびに各階のボタンを押していたが今はやっていない」
胸を張り会心の笑みを向けるクソオヤジ。
「なんかガキだよな。ホントよく結婚出来たよな」
「それはだな、俺は『神秘のボタン』を見つけたからな」
「神秘のボタン?」
腕を組み真面目な顔で語る親父に思わず耳を傾ける。
「俺が高校生になった頃、教室で一人いつものルーティーンのプチプチを押し潰してた時だった」
「もうそれは病気じゃないのか?心が病んでるだろ」
「黙って聞けよ。ある日俺の背後にボタンの気配がした。俺は本能の赴くまま振り向いて電光石火のごとく素早くボタンを押した。とても柔らかくてどこか気持ちいい感触だった。俺は目を開きボタンを確認した。そのボタンはなんと!後ろの席の女子高生の胸ポッチだったのだ!もちろん相手はちゃんと服を着たいたぞ。だが俺の心眼はそんな邪魔な物を無視して見事に神秘のボタンを当てたのだ!ボタンを押した瞬間、甘い声が聞こえて興奮したな。それ以来、俺は他のボタンに興味を無くしてな……」
「朝から何の話をしてんだよ!セクハラ自慢か!いや、痴漢行為だろそれ!何良い想い出みたいに言ってんの!捕まれよ!もう二階から縛られて落とされろ!」
もう栗原校長の気持ちが少しわかった。この親父は縛り付けておとなしくさせるしか方法はなかったのだ。
「だいたい何の話をしてんのさ!?もしこれが本当に自慢話なら病院に……いや、出頭しろ!」
「何の話って、俺と薫の馴れ初めの話だけど」
「えっ!」
二の句が出なかった。
「胸ポッチの後、薫にボコスカ殴られてな……あれは死ぬかと思った」
どこか物憂げな、遠い目をする親父。
「うふふ、懐かしいですね。でもあれは仕方ないですわ。前の席だった卓さんが急に振り向いて私の胸を突っつくんですから。本当に驚いたんですから。だから無我夢中で卓さんに馬乗りになって顔面に38発拳を叩き込んでもね、当然ですよね」
ニコニコと微笑みを絶やさない母さんに僕は恐怖を感じた。
「薫さんは優しいから。私なら生きたまま生皮剥がしているね」
美紗伯母さんの発言にアッハッハッと笑い声が響き渡る食卓で、僕だけが取り残されている。
あれ?ここは笑うところ?何処に面白い話があった?全然わからない。
「……ま、そう言う理由で、俺は無闇にボタンを押すことをしなくなった。代わりに薫の胸ポッチを押しまくって……」
「もう、歩さんの前で恥ずかしいじゃないですか」
バコンッと親父の後頭部を叩く母さんは相変わらずニコニコ。親父は勢いよく「ブヘッ!」とテーブルにキスをしていた。
「恥ずかしいって……話の内容が全て恥ずかしいよ。こんな話、学校に行く前に聞きたくなかった。出来れば朝食中にもね……」
只でさえ両親の恥ずかしい馴れ初め……そして痴漢行為と暴力事件という馴れ初め。そういうのはシラフでは聞けない聞いていられない。
「いや~、やっぱ歩のツッコミはいいわ!普通すぎて安心するなぁ」
「そうね、さっきの卓の話、番羽家の男なら大爆笑、女なら刃物を投げているわね。さすが歩さん、癒されるわ」
イライラしてる僕の顔を見て穏やかな表情を浮かべる美紗伯母さんと親父は納得したかのように頷いていた。
番羽の男はラテン系。どこでも踊りだすわけではないが、情熱的で人懐っこく大抵の人とはすぐ仲良くなれる。反面、他人との距離感がおかしく時間にルーズでマイペース。
番羽の女は几帳面で倹約家。クールで真面目で感情表現がストレートで自己主張が強く譲らない性格。自立した女性像を持つバリバリのキャリアウーマンタイプ。
なので番羽の男と女は反りが合わない。遊び人と管理職ぐらい違うから。
大柄で男らしい顔と体格の番羽の男に、小柄で綺麗な顔立ちの番羽の女。正に正反対だが番羽の人間は能力値が高い。
営業向けの番羽の男に事務処理を得意とする番羽の女。この二律背反の存在が上手く交わって番羽商事は成り立っている。
遠縁ではあるけど、親戚で親友の早瀬汐織も番羽の血を色濃く受け継いでいる。
それなのにこの僕ときたら。
性格や外見から見ても番羽の男とはほど遠く、能力の方でも平凡。それどころか頑張ってなんとか平均レベル。番羽家の劣等生なのだ。
そんな劣等生な僕だけど別に家族が嫌いとかはない。むしろ大好きである。ただ……
「歩は女に生まれてたらな。きっと絶世の美少女になってたぞ。て言うか俺、可愛い娘が欲しかった。「パパと結婚する!」って言われたかった。なぁ、実は歩は女だったとか……」
「歩さんが番羽の男達と似てなくて本当に良かった。正に奇跡の存在ね。こんな馬鹿弟を見てたら本当にそう思うわ」
ただちょと、愛がウザくて重い。