僕と校長と後輩
「あなたの娘さんに犯されそうになったんですよ」
床の間の間接照明が風韻を生み出す落ち着いた雰囲気の和室に、庭先から聞こえる鹿威しの音色が風流に響いた。
僕の正面の上座で、腕を組み背筋を伸ばして座する強く重厚感溢れる着流し姿の御老人が目を大きく見開いていた。
御老人の名は『栗原竜造』。
我が高校の校長先生にて、僕の隣に断然と座る残念後輩の栗原由希の祖父。
僕らが今、栗原竜造邸の趣のある和室にて顔を並べているのには訳がある。
時間にして約一時間前、残念独身セクハラ教師による暴行未遂事件の後、なんやかんやあった僕と残念後輩の栗原由希は部室の戸締まりを済ませて帰路に着いたが途中、栗原由希の携帯にメールがきた。
差出人は栗原校長。
僕に話があるらしく校長宅まで連れてこられた。
てっきり要先生の愚行の件の謝罪かと思っていたが、校長宅に着いて早々和室に招かれて説教をくらった。
なんでやねん。
説教の内容は簡潔に説明すると「よくも最愛の娘を泣かしやがってこの糞餓鬼が!殺すぞ!!」である。
何かデジャヴーである。
どうやら高校一年生の姪である栗原由希に自宅謹慎を命じられた35歳独身の女教師、栗原要先生は泣きながら帰宅したとか。事情を問い質した校長に要先生は「生徒に婚期を逃した独身女と馬鹿にされた」と説明したらしい。
話を端折り過ぎだろ。
激怒した校長は直ぐ様に孫の栗原由希に連絡(僕と栗原由希が知人なのは知っているらしい)をとり、僕達を呼び寄越せた。
一方的に校長の罵詈雑言を投げ掛けられた僕に業を煮やして反撃に打って出たのは栗原由希であった。
「歩先輩は悪くない!歩先輩は被害者なんだよ!」と。申し訳なさそうに視線を送った栗原由希は「真実を話して下さい」と促した。
覚悟を決めた僕は口を開いた。「あなたの娘さんに犯されそうになったんですよ」と。
話は冒頭に戻る。
静寂が支配する空間を時折轟く鹿威しの音が斬りかかる。
だけど僕達の厳かな空気は壊せない。
「私が何を考えているかわかるか?」
沈黙を破ったのは、咎めるように冷たい校長の言葉。
「『鞭を惜しめば子供は駄目になる』という諺がある。戯言でこの場を言い逃れようとする子供達にどう厳しく叱るべきかな?」
先程まで憤るように激しく僕を罵倒していた親バカな校長の表情が急に厳格な教育者の顔に変わった。
「本当に鞭を振るう相手は誰かわかっていますかお爺様?いくら要おば様……娘が可愛いからといって盲愛で眼が汲もっていては生徒を正しく導けませんよ」
「私の眼が節穴だと?」
「真実が見えていません」
僕は口をポカンと開け、隣に座る後輩の栗原由希に目を奪われる。
威風堂々と祖父である校長に言い合うその姿に。
そこには残念後輩の面影は皆無だった。
「由希は優しいな」
校長の強面の表情が不意に歪む。
唐突に孫を誉める校長の言葉には慈愛に満ちていた。
「私は彼、番羽歩君の事はよく知らないが彼の祖父と父親はよく知っている。あいつらは無節操無神経無責任無鉄砲と本当にロクでもない奴らだった。私がどれだけあいつらに苦労したか!」
目の前の和室テーブルに握りこぶしを叩きつける校長の顔は険しい目で僕を睨み付ける。でもじいちゃんと親父の事って僕とは関係ありませんよね。
……気持ちはわかりますけど。
「歩先輩の事をよく知らないのなら悪く言うのはやめて!先輩の親とか関係無いでしょ!歩先輩は素晴らしい人なんだから!」
突如声を荒上げた栗原由希に驚く僕と校長。
「歩先輩は友達思いでとても情熱的で、照れ屋で恥ずかしがり屋だけどすごい頑張り屋さんで優しい人なんです!」
「お前はまだ若いから騙されているのだ!番羽家の男どもは皆、非常識な奴等だ!彼の祖父は私と同級生だったが女っくせが悪く二股三股は当たり前、友人だった私が間に入りどれだけ苦労したかわかるか!高校の修学旅行の時など強引に夜の繁華街に連れ出され見廻りの警官に追いかけられ補導されかけたり……」
じいちゃんの若き日の武勇伝(?)なんて聞きたくなかった。
「『蝋燭は身を減らして人を照らす』という諺がある。自分を犠牲にして家族や人のために尽くすという意味だ。私はそんな教育者を目指した。君の父親は私の教え子だったが当時小学生だった君の父親は「そこにボタンがあったから」という訳のわからん理由で学校中の火災報知器のボタンを押し周って一時騒然とさせた!」
耳を塞ぐ僕。心を無にしたいがとても無理。
小学校にたくさんの消防車が集まった事が簡単に想像できる。
「小学校を卒業してやっと解放されたと思えば中学校でも数々の問題を起こして、手に負えなくなった教師達が長年アイツの面倒を見てきた私に助けを求めてきて、気付けば中学、高校とアイツの担任を任せられ、『番羽当番』という訳のわからん役職に就かされて!」
当時の苦しくやるせない記憶を想い出したのか、校長の顔は浮き上がる血管がいつ切れてもおかしくないほど赤く染まったり、震える怒声に大きく見開いた目は充血している。
「……なんか、僕の家族がすいません」
「先輩は謝らないで下さい!」
自然と頭を下げようとする僕を栗原由希が遮り祖父である校長を睨む。
「親の罪は子の罪とでも思っているんですか!先輩は全然悪くない!誰にも迷惑なんてかけてませんから!先輩がやらかした事って言ったら……去年の文化祭の『混沌と絶望の地獄門事件』くらいなんだから!」
「なんだと!!!」
ワナワナと震える指を僕に向ける校長の口から「お前がヤったのか……」と、まるで殺人犯を見つけたような口振りで呟く。
え、ちょっと待ってください。
全然心当たりが無いんだけど。ただ自信満々に僕を見る栗原由希の目が「さぁ言ってやって下さい」と促している。
「え~とですね、その『混沌と絶望の地獄門事件』の事は僕は知りませんけど、去年の文化祭なら僕ら芸術部の美術担当の部員で文化祭の正門のアーチを手掛けたんですけど、前日の晩にいきなりの突風で塗装された紙の部分が剥がれ飛んでっちゃったんです。
残ったのは骨組みのアーチだけで直ぐに修繕にかかったんですがあいにく他の部員は皆帰っていて残っていたのは僕一人で……仕方ないので一人で修繕しました。
まぁ紙に絵や文字を描いてアーチに貼るだけの作業だったんですけどその紙がかなり大きくて時間がかかって……完成したのは文化祭当日の朝方でしたか。
で、僕はそのまま学校の部室で夕方まで寝てしまってて……だからその事件の事は本当に知らないんですけど……」
「あの亡者達が光届かぬ暗き地獄の中、火あぶりにされ悶え苦しみ狂い叫ぶ絵をお前が描いたのか……」
「え、僕が描いたのは夜のキャンプファイアの周りで楽しそうにフォークダンスを踊る高校生達の絵ですが」
「あの絵が物語っていた。『この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ!』と」
「おい、誰の絵がダンデの神曲地獄篇の銘文だ!」
思わずタメ口でツッコむ僕。
「ねっ、歩先輩すごいでしょ!あんな情熱的で人の心に衝撃を与える絵が描けるんだから!」
まるで自分の事のように嬉しそうに自慢する栗原由希だが、今の僕の心情はそれに共感出来ない。
「生徒達や教師達に学校に入ることを拒めさせ、あまつさえ来客達に悲鳴と絶叫を引き起こさせて……
気分を悪くした者は数知れず、泣き叫ぶ者は多数、失神した者数名、我が校最大の不祥事『混沌と絶望の地獄門事件』を引き起こしたのがお前だったとは……
『蛇に噛まれて朽ち縄に怖じる』という諺がある。一度ひどい目に遭ってしまったので必要以上に警戒するという意味だ。それぐらい人の心に大きな傷を付けたのだ。……やはりお前は番羽の血を引く男よ……」
恐ろしいものを見たかのように後ろの壁際まで後退りブルブルと震える校長。
「ちょっと待ってくださいよ!だってあのアーチは……そういえば文化祭当日は勇太達と裏門から帰って……二日目は確かアーチが壊れたとかって……え、それって?もしかして……」
「あんなヤバイものその日の内に撤去したに決まっているだろ!」
校長の怒声が僕の頭上に雷のように落ちる。
「あの時、あのアーチは外部の人間のイタズラとして処理されたが犯人がわかったのであれば話は別だ!番羽歩!君を退学処分にする!そして金輪際、由希には近付かないでもらおう!」
校長が何か叫んでいるが上手く聞き取れない。
退学?なんで?え、僕の描いた絵ってそんなにヤバイの?あれ、なんか頭が上手く回らない。
「……お爺様」
それはひどく冷たい、魂までも凍らせるほどの無感情な栗原由希の声。
「お爺様が先輩をいじめるのなら私にも考えがあります」
「お、お前は私の言うとおりにすればいいんだ!逆らう事は許さん!」
「聞いてください先輩!お爺様の庭に建っている蔵の中には……」
「何を言おうとしているのだ由希!」
言い争う二人を眺めてふと思った。
栗原家も番羽家に劣らず結構ヤバイ家系なのではないかと。
すると急に和室の戸がスゥーと開く。
「なんか騒がしいな、お客さん?……えっ、なんで……」
開いた戸の先には、『3-2栗原』と書かれたゼッケンの付いた、我が校の校章が描かれているジャージを着ている栗原要先生が立っていた。
そうか、要先生は我が校のOGだったのか。
いやそれよりも35歳の女性が家着に高校時代のジャージをいまだに着ているのはどうだろうと思う。
僕と目が合い、ワナワナと手で口を押さえながら震える要先生。
放課後の部室で『お前の穴を開通してやる!』とほざいていた先生は、
「なんで番羽と由希がここに?……はっ、まさか番羽お前!私を訴えるつもりか!」
自ら墓穴を掘った。
▽▽▽▽▽
あの後……要先生が墓穴を掘った後、僕達は校長に今日の放課後の詳しい事情を説明した。
話を聞くに連れワナワナと震え怒髪天を突く勢いで「ばかも―――――ん!!!」と、某国民的アニメのお父さんみたいな怒声を要先生にぶつけた。
そして要先生は某国民的アニメの弟君のように身を縮みながら土下座していた。
その後は校長から「本当に申し訳ない」とたくさん謝罪され、そして校長の奥さん、栗原由希の祖母が用意してくた晩御飯をみんなで美味しく頂いた。
そして時間は夜の9時頃。
車で家まで送ろうと言ってくれた校長の好意を謝辞し歩いて帰路に着く僕と栗原由希。
「今日はお爺様とおば様が迷惑をかけました。本当にすみませんでした」
「もういいよ。校長と要先生からたくさん謝罪してもらったから。それに要先生の件に関しては僕もかなり悪ノリしちゃってたからね。それよりも……」
なんか僕の絵がヤバイとか、僕の絵がヤバイとか、僕の絵がヤバイとか、僕の絵が……
……なんか落胆の切なさが深くて頭が上がらない。
そんな僕に気遣うように栗原由希が声をかけた。
「歩先輩、絵を描くの辞めないで下さいね。お爺様は酷い事を言っていましたけど、感動した人はいますから。例えば私と要おば様とか……」
「え、」と呟き足が止まる。歩みを止めた僕を追い抜き爽やかな笑顔で振り向く後輩。
「文化祭の当日にアーチは撤去されましたけどあの後、私と要おば様と勇太先輩と汐織先輩で絵を破かないようにきれいに剥がしたんです。歩先輩がみんなのために一人で頑張った作品を棄てるのは忍びないって。おば様なんて「これは貴重な芸術作品だ、保護しなくては!」って言ってましたよ」
ワナワナと肩が震えた。
そして親友達と恩師の顔を思い浮かべて目頭が熱くなった。
「歩先輩の作品は今も大事に保管されてます。その場所はですね……お爺様の蔵の中なんですけどね。勿論、お爺様は知りません。ちょっと作品が大きいので手頃な保管場所が無かったんですよ。あ、この事はお爺様には『秘密』にしといて下さいね」
まるでイタズラが成功したような愛嬌のある笑顔を向ける後輩に僕は咄嗟に目を逸らした。
その咲き誇るような微笑みは、風花のようにちらちらと舞い振り僕の心に染み込む。
そして目を合わせない僕の顔を覗き込んで灯すように囁いた。
「私は先輩の絵が好きですよ」
その言葉が更に僕の心を染め上げ堕としていく。
ズブズブと栗原由希という沼に沈んで行くように。
もがき,抗い、はい上ろうとする僕の心に気付かないまま向き直して歩き出す後輩に、つられて僕も足を動かす。
もう認めるべきではないだろうか。
気付かないフリなんてポーズは維持出来そうにもないのだから。
自分の心に嘘はつけないのだから。
「先輩の絵が好きですよ」と言われただけでこんなにも、これほどにも心を揺さぶられるのだから……
僕は、栗原由希を……
「そう言えば『秘密』で思い出したんですけど、実はあの蔵にはもう一つ『秘密』があるんですよ。
私が小学五年生の頃に大事な花瓶を割ってしまってお爺様に叱られて蔵に閉じ込められたんです。蔵の中って重い鉄の扉が閉まると昼間でも結構暗くて怖いんですけど、当時の私は腕時計型ライトを持ってたのでチャンスとばかりに蔵の中を探索したんですよ。
蔵は二階建てで、一階には使われなくなった学習机や椅子にクリーニングのビニール袋に入れられた洋服とか、もうガラクタ置き場だったんですけど、二階に上がったら結構古くて年代物のタンスとかたくさんあって、何か珍しい物とかないか引き出しを開けまくって調べたんですよ。
そしたらすごいお宝物を発見したんですよ!
『○○○倶楽部』とか『○○○マニア』とか『○ス○ムの世界』とかっていう雑誌で、その雑誌にはなんと縄で縛られた女の人の写真とか鞭を振るう女の人の写真とか熱そうな蝋を掛けられて泣いている男の人の写真とか!いわゆるエ○本って物が何十冊もあって!
当時、思春期だった私はもう夢中で読んじゃって。思い起こせばあの時私の中の何かが目覚めちゃたような気がするんです!
それでこのエ○本誰のだろう?と思って雑誌に書かれた発行日を見たんです。そしたら私の父が産まれる前の本で……つまりお爺様の本だったんですよ!
先輩憶えてます?今日お爺様が私達に『鞭を惜しめば……』とか『蝋燭は身を減らして……』とか『……朽ち縄に怖じる』って諺を言ってましたよね!もうどれだけ鞭とか蝋燭が好きなのお爺様って思っちゃって私笑いそうになったんですよ!もう我慢するのが苦しくて苦しくて……
……先輩?先輩聞いてますか?」
「……お前ってホント落とすね」
僕の中のお前の評価を。