私は姪に脅される
――なんでみっちゃんのスマホって女の子の写真ばっかり入ってるの?
「ふ~、おいしかったぁ。ここのパンケーキ、今日クラスの子が話しててさ、食べてみたかったんだよねー」
私の車の助手席に乗り込んで、草薙雫紅は満足そうに言った。手にはスマホを持ち、何かを打ち込んでいる。そのクラスの子にでも報告しているのだろうか。
機嫌が良さそうなのを見て、私は恐る恐る申し出る。
「雫紅ちゃん、やっぱり学校の帰りに食べに行くのはよくないよ。晩ごはんも食べられなくなっちゃうし、姉さんにも怒られるよ?」
私の言葉に雫紅がじろりと視線を返してくる。
「怒られないようにみっちゃんが連絡するんでしょ? 『私が食べたかったから可愛い姪をむりやり連れていきました』って早く送りなさいよ。その後に私がお母さんに電話するから、お母さんが出たらすぐに私のスマホを奪ったふうに取って謝ってね」
「そんな……」
「イヤなら別にいいよ? あることないことお母さんに言うだけだから。それで口封じにパンケーキ奢られたんだって」
雫紅は視線をスマホに戻して指を動かし始める。もしもそんなことをされたらどうなるか考えたくもない。だがこういう無理難題は今日が初めてではないのだ。仕方のないことだと思いながら、どこかで連鎖を断たないければと心の声が自分を戒める。
(言え、言うんだ。これ以上無茶な命令は聞けないってきっぱり拒絶しろ)
葛藤する私の隣で、雫紅がくすりと笑う声がした。
「あぁそっか。ご褒美がまだだったっけ? この店に連れて来てくれたご褒美をあげなきゃね」
雫紅が座席のリクライニングを倒した。仰向けになったまま目を閉じる。
「はい、どうぞ」
それは悪魔の囁きだった。甘い誘いに乗ってはいけないことを頭では分かっていても、私の体はその魅力に引き寄せられていく。まるでドラッグみたいだ、と冷静な自分が自嘲した。一度味わってしまえばもう戻れない。あとは底のない沼に沈んでいくだけ。
私はゆっくりと顔を近づけ、雫紅のピンク色の唇に自分の唇を重ね合わせた。弾力のある唇から伝わる体温が私の心と体をあったかくしてくれる。だけどまだ足りない。口が勝手にしゃぶりつくように動き、雫紅の口内の蜜を吸い取ろうとする。しかし舌を伸ばそうとしても雫紅の歯がかっちりと閉じているため中に進むことが出来ない。扉を締め出された子供のように、私は舌で何度も雫紅の歯を叩いた。気持ちが通じたのか気が緩んだのか、歯が少し開いた。すかさず舌をすべりこませ、より濃い蜜を探ろうとして――舌を噛まれた。
「――っ」
驚きと痛さに目を見開いた瞬間、小さく『カシャ』と音が聞こえた。舌を挟まれて口を離すことも出来ずに横目で確認してみると、雫紅のスマホのカメラがこちらを向いていた。カメラのレンズと目が合ったまま、もう一回同じ音がした。
雫紅が私の舌を解放した。ぐい、と私の頭を引き離しながら妖艶に微笑む。
「また人に言えない秘密が出来ちゃったね、美月おばさん」
その口元で、私の唾液がてらてらと光っていた。
私は可愛い女の子が好きだ。いつから好きなのかは分からない。気が付いたらテレビでも街なかでも良さそうな女の子がいたら目で追うようになっていた。しょうがないじゃないか。可愛いは正義なのだ。
だからといって盗撮やあまつさえ手を出すなどという最低にも劣るクズ行為をするほど私は愚かではない。
健全にマイナーなジュニアアイドルを漁ったり、ネットリテラシーの欠けた子のあげた無防備な写真を保存する程度だ。そう、全くもって健全だ。昨今のイメージビデオは着エロ化の一途をたどり、いいね欲しさに女の子はとんでもない格好を簡単にしてしまう。健全なのだからもっとするべきだと常々思う。
可愛い女の子を眺めて心の中で愛でることが私の趣味で日課で生きがいだった。
姪の雫紅に知られるまでは。
一カ月程前、私が私の姉、つまり雫紅の母親の家に行ったときのことだ。姉と話し込んでいた私は、置きっ放しだったスマホを雫紅がいじっていることに気付かなかった。
部屋で見て欲しいものがある、と言われてついていった私に雫紅は天使のような微笑みを浮かべ聞いてきた。
『なんでみっちゃんのスマホって女の子の写真ばっかり入ってるの?』
当然私は白を切った。友達の子供だったり会社の同僚から送られてきたものだと。
だけど雫紅は引き下がってくれなかった。
『きわどい水着を着た女の子のもあったけどさ、ああいうのって児ポ法に引っ掛かるんじゃないの?』
『そ、それはいかがわしいことが目的で所持してたらって話だから私は大丈夫なのよ。女の子の水着がダメって言うなら家族で海水浴に行っても写真ひとつ撮れないでしょ?』
『あの写真の子はみっちゃんの家族ってこと?』
『それは違うけど……』
『じゃあ何で持ってたの?』
『ど、同僚が自分の推してるジュニアアイドルだって言って無理矢理送ってきたのよ。間違って保存しちゃってたみたいだから消しておかないといけなかったよね。ごめんなさい、今もう消しちゃうから』
画像なんてネットにいくらでもある。私がスマホを操作していると、雫紅が安心したように言った。
『なぁんだ、よかった。てっきりみっちゃんはそういう女の子たちが好きなのかと思った』
パキン、と私の心にヒビが入るのを感じた。それでも動揺を外に出さずに答えられたと思う。
『そんなわけないじゃない。やだなぁ、雫紅ちゃんったらー』
お互いに笑ったあと、雫紅はベッドに腰掛けて靴下を脱いだ。そのまま素足を私の方に差し出した。
『最近足がこっちゃったみたいでさぁ、みっちゃん揉んでくれない?』
あまりにも唐突な申し出。今考えると怪しいことこの上ないが、そのときの私は『雫紅ちゃんの機嫌をとってこの場をごまかさないと』しか頭になかったので当然笑顔で頷いて要望通り雫紅の足を揉んであげたのだ。
雫紅の足を触るのなんていつぶりだっただろうか。雫紅が小学校のころはこの家に遊びに来た日に一緒にお風呂に入って体を洗ってあげたりすることもあった。やましい気持ちがなかったとは言わない。雫紅は可愛いし、女の子と二人でお風呂に入れるチャンスなど今後の人生にあるか分からないということで多少堪能はさせてもらった。だが相手は姪だ。姉を、可愛い姪を悲しませることはあってはならない。だから頼れる美月おばさんとして接してきた。それは今も変わらない。
『この辺痛くない?』
大丈夫、と答える雫紅とやりとりをしながら足裏のツボを押していく。すべすべの肌と可愛らしい小さな指。あぁ、いいなぁと思いながら懸命にマッサージをした。
『もう足の裏はいいからふくらはぎ揉んでよ』
お姫様に命令されたお付きの人よろしく、言われた通りにふくらはぎに場所を移した。視線が上がったせいか短めのスカートの奥が見えそうなことに気付き、慌てて目を逸らした。ここでまた嫌疑をかけられても困るからだ。
『んー、ふくらはぎはそこまでいいかな。次ふとももね』
雫紅の要望に私は穏やかに頷き返しながらも内心はまったく穏やかではなかった。
ふともも。女子中学生のふともも。FSS! FSS! と心が声高に叫んでいた。
勿論実際にそんなことをするはずもなく。私は『痛かったら言ってね』と両手でふとももを優しく揉み始めた。
『結構気持ちいいかも』
『ほんと? もうちょっと強くする?』
『うん』
マッサージであっても女の子から気持ちいいと言われるのは嬉しかった。なによりも姪の役にたっているというのはおばさん冥利につきる。
『もっと上の方揉んで』
『わかった』
だから言われた通りにスカートの下に手を入れてふとももの付け根を揉みはじめ――。
カシャ。
スマホで写真を撮られた。
『――――』
何が起きたのか分からなかった。私は雫紅のふとももを揉んだ体勢のまま、雫紅を見つめた。
雫紅がスマホの画面を向けてきた。そこには嬉しそうに雫紅のスカートに手を入れている私の姿が映っていた。
『し、雫紅ちゃん?』
雫紅は微笑んだ。いつもの可愛らしい無邪気な笑みではない。いやらしく、残酷な、上から相手を見下すような笑み。
『未成年者へのわいせつ行為って、確か児童虐待防止法だったっけ?』
この瞬間、私達の主従関係は決まった。
『ねぇみっちゃん、これからどうする?』
完全に自業自得だと理解している。スマホの中に人に見られたら困るような画像を保存していたこともそうだが、雫紅の罠にまんまと嵌まり、下僕のような扱いを受けながらもずるずるとこの関係を続けているのは、私の甘さ、自制心のなさが原因だ。
でもしょうがないじゃないか。
わがままを聞いてあげるだけで中三の女の子の体を触らせてもらえたり、キスが出来たりするのだ。誰だって言うことを聞くに決まっている。姪だからどうした。いや、姪だからこそそこらへんの女の子より可愛く見える。可愛いは正義。証明終了。
いくら言い訳を並べたところで犯罪なのに変わりはない。雫紅の気まぐれで訴えられれば私の人生はあっという間に終わってしまう。それが分かっていてなお雫紅にかしづいてしまう自分の情けなさに今日もため息が出る。
『遊園地行きたい』
雫紅のわがままはいつも突然だ。学校が終わると私のラインに用件だけが書かれる。それをどう叶えて欲しいのかは私が聞き出さなければならない。
『どこに行きたいの? ランド? シー?』
『富士急』
『富士急ハイランド? あそこ絶叫系が多いよ?』
『そんなので怖がるほど子供じゃないし。次の土曜行くから予定空けといてよ』
雫紅に弱みを握られたときから土日は空けるように言われている。元々休みの日なんて買い物に行くか家でごろごろするかだったので、実は雫紅と一緒に休日に出掛けるのが楽しみになってきているのだが。
姉にまで『最近仲いいわねぇ。雫紅がわがまま言ってない?』と心配される始末。まさか『命令されてキスする仲です』などとは言えるわけもなく適当に笑っておいた。
(バレたら軽蔑されるだろうなぁ。縁も切られるかも)
そんなことを考えながら、私はさっそくネットでチケットの手配にかかった。
「クラスの子がね、この前富士急に行ってきたんだって。それでめっちゃ怖楽しかったって言ってたから私も行きたくなったの」
約束の土曜日。私の車で移動中、雫紅が動機を話してくれた。またいつものようにクラスの子に影響されたパターンらしい。
「一緒に行くのが私で良かったの? お友達は?」
「友達とだったら車でこんな楽できないじゃん。それとも何? みっちゃんは私と来たくなかったの?」
「そんなことないよ。雫紅ちゃんと遊園地に行けて嬉しい。多分初めてだよね? 二人で遊園地なんて」
「それを言ったらパンケーキ食べに行くのも映画観に行くのも下着買いに行くのも全部初めてだったし。今更だと思うけど」
これまで雫紅にお願いされた数々を挙げられて私は苦笑する。そもそも二人きりでどこかに行ったことなどなかったのだ。全てが初めてなのは当たり前。
「あ、キスするのも初めてだったね」
「――っ」
雫紅がわざとらしくとぼけてみせた。私は精神を乱されないように運転に集中する。
「雫紅ちゃん、運転中だからあんまり変なこと言わないで欲しいなぁー」
「私、ファーストキスだったんだけど、みっちゃんは?」
「…………」
助手席から雫紅の視線を感じる。私は前方から視線を外さずに答えた。
「私も初めてだったよ」
「うそ」
「嘘じゃないって。今まで付き合ったことなかったから」
「その歳で?」
「歳の話はやめて! 悲しくなるから!」
今年で三十になるおばさんの慟哭が車内に響く。雫紅が嬉しそうに笑いながらからかい交じりに聞いてきた。
「みっちゃんモテそうなのにねぇ。告白されたこともないんだ」
「残念でした。告白は高校のときにされたの。同じクラスの男の子」
途端に雫紅が笑うのを止めた。その声が無機質なものになる。
「告白されて、どうしたの?」
「一回だけデートしたけど、それだけ。やっぱり無理だなって、何もないまま終わり」
「ふぅん……じゃあ女の子からは? 告白されたことないの?」
「ないない。周りの子はみんな普通だったから」
もしかしたら普通に見えていただけで、本当は違う人もいたのかもしれない。だが少なくとも私の友達はノーマルだった。私だけが異質な存在。
「好きな子は? 自分から告白しようとは思わなかったの?」
「んー、可愛いと思う子はいたけど告白までは……。絶交になるくらいなら友達のままの方が良かったしね」
「……そっか。なるほどねぇ」
雫紅は納得するように何度もうんうん頷いて、声を喜色に歪ませた。
「そんな悲しい青春時代を送ったみっちゃんが今はこんな可愛い姪と遊園地デートできるんだから、これはもう私に感謝するしかないよね。ほら、もっと敬ってもいいんだよ?」
言い方が可愛らしくて私はついほころんだ口元を締め直し、恭しく応える。
「ありがとうございます雫紅姫様。恐悦至極、感謝感激の極みでございます」
「うむ。よきにはからえ」
今日の雫紅はテンションが高いようだ。こうして見るとまだ中三の子供なんだなとよく分かる。遊園地というだけでこんなに嬉しそうにしてくれるなら、私もアッシーとして運転のしがいがあるというものだ。
そうこうしているうちに目的の遊園地に到着した。
「有名なのは全部乗るからね!」
いつも以上に表情をイキイキとさせながら雫紅がパンフレットを広げた。こんな顔をされたんじゃ付き合わないわけにはいかない。
「よし。行きたいの言ってくれたらファストパス買ってきてあげる」
「ホント!? じゃあねぇ――」
…………。
……。
「大丈夫、雫紅ちゃん?」
「へ、へいきだってこんなの、あはは……」
一つ目のジェットコースターを終えて、雫紅は明らかに疲弊していた。
「座席がくるくる回るってああいうことだったんだ。ま、まぁまぁ良かったかな……」
乗ったのは足元に床が無い、いわゆる吊り下げタイプのジェットコースターだ。動きに合わせて座席がくるくると回り、下向きや後ろ向きで進んだりして新鮮で面白い。
私はそこまでではなかったが、雫紅は早くもまいってしまったようだ。
「ちょっと休憩しよっか」
「私まだ大丈夫だって! 来たばっかだし乗らないと!」
「ダメ。このまま乗って戻したらどうするの? ほら、あっちにベンチあるから」
私は雫紅の手を取って無理矢理ベンチの方へ引っ張っていく。
「……こんなときだけ保護者づらして……」
背後で雫紅がぶつくさと文句を言っているがこればかりは譲歩できない。遊びに来て体調を崩させては叔母として失格になってしまう。いやまぁ、すでに叔母としてどうなのかと言われれば耳が痛いが。
「ここに座って」
私が促すと雫紅は素直にベンチに座った。強がりは言っても自分の身体のことを分かっているようだ。
「飲み物いる?」
「いらない」
雫紅は首を横に振った後、右手でぽんぽんとベンチの上を叩いた。
「どうかした?」
「休ませてくれるんでしょ。私に堅いベンチにそのまま寝ろって言うの?」
雫紅の意図を悟り、私もベンチに座った。私のふとももの上に雫紅が頭を乗せて横になる。
「ジーンズだとごわごわしていまいち」
私のデニムパンツの感触に、雫紅が顔をしかめて見上げてくる。
「次は乗り心地のいいの履いてきてよ」
それはつまり、また一緒に遊びに行く、ということだろうか。しかもひざ枕の予約つき。雫紅の言い方がぶっきらぼう過ぎて思わずくすりと笑ってしまう。
「なに笑ってるの。わかったなら返事」
「わかりました。今度は手触りのいいスカートにしておくね」
「……ふん」
雫紅は鼻を鳴らすと目を瞑った。眠ったように休むその顔は、年齢相応のあどけなさの残った愛らしい寝顔に見える。
園内は恋人や友達グループ、家族連れがにぎやかに往来していた。私達を周りから見たら疲れた子供を膝で寝かせるお母さんなんだろうな、と私は苦笑する。
(雫紅ちゃんが私の子供ってことは15歳で産んだことになるじゃない。さすがにないない)
ふと私達の関係とは何かを考える。
弱みを握られて姪に脅されている私。命令されるがままにお願いを聞いてあげて、そのご褒美にキスが与えられる。
(まぁどう考えてもご主人様とその下僕ってやつだよね……)
自分の半分の年齢の子に手綱を握られるのはなんとも情けない話だ。
情けないが、最近このポジションを気に入り始めている自分がいるのも事実。ご褒美のこともそうだが、雫紅の側にいられるのは嬉しいし心が落ち着くのだ。
怒った顔も、すました顔も、笑った顔も、穏やかに眠った顔も、全部私が独り占め。母である姉には悪いと思うけど、それが私の嘘偽りのない気持ち。
私の手が自然と雫紅の頭を撫でていた。雫紅は薄目を開けて私を見たが、何も言わずに再び目を瞑った。
お姫様から許しが出たところで、憂いなく私は手をゆっくりと動かす。頭のてっぺんから髪を撫でつけるようにそっとすべらせていく。雫紅の黒髪はさらさらで撫でているだけで気持ちがいい。ときおり風が吹くたびに軽く舞い上がる髪を私は手櫛で整えた。近くの木々の梢が奏でる葉擦れの音さえ、今は遠くのものに聞こえる。
私達のベンチだけ世界から切り離されたかのようだ。雫紅と一緒なら、たとえ二人だけになってしまっても生きていける。雫紅本人は嫌がるかもしれないが。
『二人だけになったらどうやって遊園地で遊ぶの? 誰がパンケーキを焼いてくれるの? 水や電気は? スマホが使えないとかムリ』
なんとなく雫紅が言いそうなセリフが浮かんできて私の口端が上がった。大人の私よりも雫紅の方が現実を見ている気がする。
「今だったら」
ふいに雫紅が目を閉じたまま呟いた。
「私逃げられないからキスし放題だよ」
「……え?」
「しないの?」
その声は『ご飯食べないの?』くらいの自然なトーンだった。言葉の真意を計りかねて私は黙りこむ。このままキスをするべきか。しかし雫紅の罠という可能性もある。顔を寄せたところで躱されてくすくすと笑われるのがオチかもしれない。周りの目もあることだし迂闊なことはしない方がいいだろう。ましてや雫紅は今体調が悪く休み始めたばかりだ。優先順位を間違えるほど私は叔母をやめていない。
「休憩中でしょう? 気分がすぐれない人を襲うようなマネは出来ません」
「……あっそ」
雫紅は片目を開けてつまらさそうに呟くと頭を私の体の方に向けた。
「私が休んでる間に行くとこ決めといてよ。絶叫系以外ね」
「かしこまりました、お姫様」
微笑んで答えてから、私は雫紅の前髪を優しく撫でてあげた。
絶叫系に乗らなくても園内は十分楽しかった。ペダル式の乗り物で空中散歩したり、コーヒーカップに乗って力いっぱいハンドルを回してはしゃいだり、恥ずかしがる雫紅をむりやりメリーゴーラウンドに乗らせて写真を撮ったり、二人乗りの小さなコースターに乗って脱線しないかヒヤヒヤしたり、恐いと有名なお化け屋敷で二人してキャーキャー叫びながら逃げ回ったり――こんなに楽しいと感じたのはいつ以来だろうか。まるで高校生の頃に戻ったかのようだ。
それもきっと雫紅がそばにいたからだろう。口では生意気を言っていても、雫紅も遊園地を心の底から楽しんでくれていた。楽しいという気持ちは伝播するものだ。だから私も心底楽しむことで雫紅に応えた。きっと雫紅にも伝わっていることだろう。
やがて日も傾きだした頃、雫紅が最後に乗ろうと観覧車を指さした。私はパンフレットの説明に目を通して感嘆する。
「へぇ、スケルトン仕様のもあるんだって。さすが絶叫で売ってるだけあるね」
「私たちが乗るのは普通のだからね」
「うん、わかってるよ」
私も座席が透けている観覧車は乗りたくない。きっと乗った心地がしないことだろう。最後に乗るアトラクションは落ち着ける方がいい。
観覧車の列に並び、スタッフに先導されて円形のゴンドラに乗り込んだ。
ゆっくりとした速度で上昇していく。先程まで自分たちが歩いていた地面がみるみる遠くなっていく。やがて眺望は広がっていき、立派な富士山が私達を出迎えた。淡い茜に照らされた富士山はテレビや写真で見るよりもずっと大きく、堂々としていた。
二人でじっと景色を見つめながら私は呟く。
「……晴れて良かったね」
「うん」
雫紅と来られて本当に良かった。安堵と満足の息を漏らし視線を外した先に、スケルトンのゴンドラがあった。
「見て見て雫紅ちゃん。あれ、ほら丸見えだよ」
カップルと思しき男女が肩を寄せ合って座っている。盗み見ているようで後ろめたくなり苦笑した。
「あれじゃあ覗かれ放題だね」
「いいんじゃない? ああいう人たちは見られるのを分かったうえで乗ってるんだろうし。むしろ見せつけてるのかも」
「たんに周りが見えてないだけかもしれないよ?」
「いいや、私には分かるの。見てて。そのうち絶っ対キスするから」
「うーん」
まぁ見られて平気ならキスしそうだし、周りが見えてなくてもキスくらいしそうではある。雫紅の確信のこもった断言に私がうなっていると、件のカップルの男が動いた。顔を斜めに倒しながら彼女の顔に近づいていき、すっと重ね合わせた。
「ほらキスした」
ふふんと雫紅が鼻を高くした後カップルの成り行きを見ていたが、ふと私の方を振り返ってきた。
「私たちも、する?」
何をとは聞かない。分かりきっていたから。
「でも他の人に見られたら……」
「あれと違って透けてないから外から見えづらいし、どうせみんなあのカップルの方を見てるでしょ」
「でも……」
煮え切らない私に雫紅はいらつき、腕を組んで顔を背けた。
「あっそ。じゃあ今日のご褒美はなしね。降りたらそのまま帰宅だから」
「そんな」
「イヤだったらどうすればいいか、わかるよね?」
雫紅が微笑を浮かべて自分の唇を指でなぞり、舌をぺろっと出した。誘ってる。しかもどうやれば私の心が揺り動かされるのかをよく知っている。私の視線は雫紅の唇に釘付けになった。
「観覧車降りるまで、キスし放題だよ?」
その一言で私の理性が砕け散った。目の前の雫紅に飛びついてシートに押し倒すと、息も荒く雫紅の唇にキスをした。
「ん――はぁ――」
私の唇が、舌が、口内の粘膜が雫紅を味わいつくそうと脈動する。唇が微かに離れる度にぴちゃ、ぬちゃ、という粘ついた音が響き、私を更に興奮させる。誰かに見られたらどうしようかなんてすでに頭から消えていた。もっと欲しい。もっと味わいたい。どんどん激しくなっていく呼吸と鼓動で脳が酸欠気味だ。それでも私はキスをやめない。
「――ぷふ」
雫紅が笑った。鼻先が触れ合う距離で面白そうに呟く。
「まるでワンちゃんみたい」
エサにがっつき我を忘れる様はまさしく犬そのものだ。雫紅に笑われてようやく私の理性が戻ってきた。中三の女の子にこんなことを言われて恥ずかしくないのかと脳内の大人の私が騒ぎ立てている。何回同じことを繰り返すんだ、それでも保護者か、と。でもしょうがないじゃないか。人間の理性なんて簡単に飛んでいってしまうものだ。
「ご、ごめんね……」
謝りながら離れようとした私の腕を、雫紅が掴んだ。
「まだ観覧車一周してないよ?」
雫紅のまっすぐな視線が私を射貫いた。小さな唇が、頬が、夕日に照らされて赤く染まっている。人間の理性なんて簡単に飛んでいってしまうものだ。引き留められただけでもう気持ちが動いて止められない。
「――っ」
私は雫紅に抱きつくと再びキスをした。もう途中でやめたりなどしない。時間の許すかぎり雫紅を味わいつくしてやる。
その熱意に応えるように雫紅も自らの唇を動かし、私を受け入れた。
私たちのゴンドラは、ようやく頂上を過ぎたところだった。
帰りの車中は行きと違っては静謐に包まれていた。お姫様がお疲れでご就寝なさっていたからだ。無理もない。はしゃいで楽しんだ後というのは睡魔が容赦なく大群で襲ってくる。私もこまめに高速のPAで休憩をとりながらゆっくり帰っていた。
最後のPAでトイレ休憩をすませて車に戻る。助手席では外灯の明かりに照らされて、雫紅がすぅすぅ寝息を立てていた。
(寝顔本当に可愛いなぁ)
ベンチで横になっていたときも思ったがこの子の寝顔は世界で一番可愛いと思う。普段のキツイ口調や表情とのギャップがなおさらそう感じさせるのだろうか。穏やかな寝顔はそれだけ私のことを信頼してくれている証だ。
(まぁ本当に信頼されているのか、下僕だからと捨て置かれているのかは分からないけど)
脅されている身としては悲しすぎる限りだが。
私は車のエンジンもかけずにハンドルにもたれ掛かったまましばらく雫紅を眺めていた。長いまつげも、小さな鼻も唇も何もかもがいとおしい。何時間でも、いや、一日中でも眺めていられる自信がある。
だがずっとここにいるわけにもいかない。帰るまでが遠足と同じく、帰るまでが遊園地だ。今から雫紅を無事に送り届けてようやく今日を終えることができる。
今日が、終わる。
……こんなにも終わって欲しくないと思ったのは初めてだ。雫紅と一緒に遊園地を巡っている間、ずっとこの時間が続けばいいのにと願っていた。また遊びに来ればいいという話だが、それがいつになるかなんて分からないじゃないか。だったら今日がずっと続いてくれる方が私は嬉しい。
ダメな大人だという自覚はある。叔母として失格だとも理解している。でも、雫紅といると楽しい。その気持ちは他の何よりも強いのだ。
すぐ横で、雫紅が安らいだ表情で眠っている。無防備であどけないその姿は、まぎれもなく中学三年生の女の子だった。
(今だったら簡単に襲えちゃいそう。まぁそんなことしないけどね)
疲れて寝ているのを起こしたところで怒られるだけ。私が逆の立場でもゆっくり寝かせてよと思うだろうし。
でもこのまま何もしないのはもったいない気がする。雫紅が寝ている今だからこそ出来ることはないだろうか。少し考えて、思いついたことを呟いた。
「……お持ち帰りしちゃおうかな」
なーんて。
「いいよ」
突然、雫紅が目を開けた。空気が凍りついたのかと思うような静寂のなか、私は雫紅と見つめ合っていた。
今、雫紅は何と言った? 言葉の意味は? 真意は? 聞かれてた? 起きてた? いつから?
「いいよ」
今度は強くはっきりと、私の混乱を打ち消すように雫紅が口にした。その言葉にこめられた意志は、問いただす必要すらないほど明確に私に伝わってきた。
「し、雫紅ちゃ……でも……」
落ち着いた雫紅とは正反対に、私は戸惑いを隠せない。だってそんな返しは想定していなかった。叔母と姪。血筋、年齢、性別、すべてにおいて受け入れられるべきことではない。
これも冗談の類いなのだろう。またいつものように私をからかって最後は写真を撮ってまぬけな顔だと笑うのだ。そうに決まっている。だから早くスマホを取り出してシャッターをきって欲しい。でなければおかしいじゃないか。
雫紅がそっと体を寄せ、私の手を両手で包むように握った。小さなあたたかい手。そのぬくもりは手から腕へ、腕から体へと広がっていく。だが心にまでは届かない。叔母として、保護者としての矜持が、最後の一線を越えてはならないと私を踏みとどまらせる。
この先に行ってしまえば、もう後戻りは出来ない。私が、私なんかが雫紅を連れていって良いわけがない。
「いいよ」
雫紅は私を見上げたまま穏やかに微笑んだ。その声は、表情は、こんな関係になる以前の私を慕っていてくれた姪の雫紅のものだった。
ご主人様でもお姫様でもなく私の姪として、すべてを分かったうえで私の想いに応えてくれた。そのことがたまらなく嬉しい。
「――雫紅」
雫紅の手に私の手を重ねる。雫紅からもらったぬくもりをお返しするように、私の気持ちを隠さずに伝えるために。もしかしたら人の手とは本来そういう役目だったのかもしれないな、なんて思いながら。
私たちは何も喋らなかった。喋る必要がなかった。今この瞬間は二人分のぬくもりを互いの手であたため合っているだけで幸せだったから。
ふと見ると雫紅が目を瞑っていた。眠さが理由でないことくらい私にも分かっていた。何故なら私も同じ気持ちだったから。
その日、私と雫紅は初めて、ご褒美でもなんでもない普通の優しいキスをした。
◆ ◆
〈おまけ〉
雫紅ちゃん、苦悩の日々を思う
他の人から見ればまるで私がみっちゃんを脅していたように見られるかもしれないけど、それというのも全部みっちゃんが悪いんだ。
そもそもみっちゃんがスマホにあんな写真を入れていたのが原因だ。
あのとき言ってやりたかった。なんで私の写真じゃないの! と。
そりゃあ私だって怒る。怒った勢いで言い訳の出来ない事案の写真を撮ってやりたくもなる。私の言うことを聞くのは当然の償いだ。
別に私はみっちゃんにいじわるしたかったわけでも困らせたかったわけでもなかった。ただ私の方を見て欲しかっただけ。
だいたい、みっちゃんはおかしいと思わなかったのか。ロリコンの叔母なんて普通に考えたらわざわざ命令してまで一緒にいようとするわけがないだろうに。それでも連れ回した理由は、そこにみっちゃんと行きたかったからに他ならない。
クラスメイトが家族や恋人と行って楽しかったと語った場所に、私はみっちゃんと行ってみたかった。ただそれだけ。
私の言い方や態度について反省するべき点もたくさんある。でもそれはしかたなかった。もしも下手に出てみっちゃんに迫ったとして、みっちゃんにその気がなければあっさり捨てられてしまうじゃないか。だから高圧的にみっちゃんを束縛する立ち位置にいることで、みっちゃんを私から離させないようにしたのだ。決して私にそういう気質があるというわけでは断じてない。断じて。
ご褒美にしても、みっちゃんはいつまでたってもキス以上のことをしなかった。保護者としてのメンツがあったのかもしれないが、私からすればそんなの最初から無かったわ! としか言いようがない。あれだけ人の唇にしゃぶりついといて叔母だからダメ? ふざけんな! こっちはデートのたびに心や下着の準備してたっていうのに!
はぁ、やめよう。色々とやきもきさせられることはあったけれど、無事みっちゃんを振り向かせることが出来たし、結果としては上々だ。
でもまだ油断はできない。他の女に目移りしないように私がしっかりと教育をしていかなければ。二度とジュニアアイドルなんかの写真をスマホに入れさせない。みっちゃんが望むのなら私が同じ格好をして写真を撮らせてあげる。……いや、やっぱり紐水着は難易度が高すぎる。普通の水着なら、まぁ。
こういうダメダメな叔母を支えていってあげようっていうんだから、私はなんてできた姪なんだろうか。これは一生をかけて感謝してもらわなければ割に合わない。
『小学校のころ、お風呂一緒に入ってるときに私のことお嫁さんにしてくれるって言ったよね?』
今同じ湯船に入ってのほほんとくつろいでいるみっちゃんに向かって言ったら、どういう反応をかえしてくれるのか楽しみだ。
まぁ、答えなんて聞かなくても分かってるけど。
終