早朝の出会い
初投稿
港区南麻布の住宅街にひっそりと佇む低層階
のマンション。一階が自動車ガレージで、二階
と三階が居住空間であり、一軒の間口が広く、
専用の敷地内には全部で四軒しかない。
電子錠付きの鉄門の向こう側に車寄せが見え
ることから、高級マンションなのだろうと安易
に伺える。マンションのエントランスを挟んだ
はす向かいには、近所の子どもたちがよく遊ん
でいる児童公園があるため、高い建造物がなく、
遮るものがない。そのため、低層階であるが、
各部屋の日当たりも良い。
少々家賃の値は張るが、まぁ、悪くない物件
である。五条浩紀は仕事帰りの早朝にタクシー
で近所を走っていた。
「あ、ここで」
児童公園の入り口前でタクシーを停車させる。
エンタメ業界の打ち合わせは遅い時間に始まり、
明け方に解散という悪しき習慣は、三十過ぎの
身体に堪えるな、と、溜息を吐く。タクシーの
運転手から領収書を受け取り、児童公園内にあ
る公衆トイレに向かった。
「やっべ、急に来た」
ひんやりとした外気にさらされ、尿意を催した
らしい。それは自然現象で、誰もが一度は経験
するものだ。
「はー、すっきりした」
港区の税金は潤っているらしい。児童公園とは
思えない、
高級な公衆トイレに浩紀は驚いた。公園を横切
って、自宅まで帰ろうと、公衆トイレの裏側に
足を踏み入れた時だった。
「がさっ」
「──っ!」
不審な物音がした。
「なん……だ?」
ヒュー、ヒュー、と、虫の息のような呼吸。
気になってしょうがない。浮浪者だった場合は、
すぐに逃げればいい。しかし、見なければよか
った、と思ったのは、その不審者がナイフが刺
さった状態で、血まみれで倒れていたからだ。
「おいおい……うそ……だろ」
後にも先にも、ナイフが刺さった血まみれの人
間を見ることなど、一生あるかどうかもわから
ない。しかも、放っておくわけにもいかない。
五条浩紀は、慌てて電話をする。
「もしもし、俺だけど」
「どちらの俺さん?」
「ナイフ刺さってる人間見つけた」
「はあ?」
浩紀の知り合いで、総合クリニックを経営して
いる女医の立花佐奈に連絡を入れた。朝型人間
なだけあり、もう起きていた。
「救急車呼びなさいよ」
「そうしようとしたけど……殺して……って
何度もうわごと言ってる」
「なにそれ?」
「だから、こういうのって、ワケアリって奴じ
ゃねえの?」
浩紀は良くも悪くも、余計な勘が働く。
警察に届けない方がいい、と瞬時に思ってしま
った。それから、女医の知り合いが来るまで、
時間はなかった。すぐに車に乗せて、彼女の職
場まで運ぶ。
「っ……大怪我じゃないのっ。勘弁してよ。こ
こで死なれたら、面倒なんだから」
「とりあえず、応急処置しなきゃだろ」
「まったく。後でワイン奢りなさいよね」
そう言いながらも、彼女が敏腕な医師であるこ
とを浩紀は知っている。急なオペで麻酔科医も
専門スタッフもいないのに、彼女は淡々とオペ
をこなす。某ドラマの女医さながらの腕前であ
る。医者の世界で女医は出世しづらいうえに腕
があっただけに、出世の道具にされるのが嫌だ
と、早々に独立した。美人で頭がよく仕事がで
きる女を彼女以上に知らない。
用意された長椅子で、浩紀は眠りこけた。どこ
でも寝れることが特技で、何時間寝たかわから
ない。佐奈に勢いよく起こされた時には、だい
たいの処置が済んだ後だった。
「他人が何時間も大手術しているときに、平気
で寝こけられるなんて、どういう神経よ」
「実際、他人だろ。んで? 助かったのか?」
「まあね。一応、警察も呼んだわ。事件性がある
場合は、通報することが義務付けられてるから。
でも、全身裸で、薄い毛布のようなものを羽織
っているだけで、言葉も通じないうえに記憶も
あいまい」
「外国人?」
「いいえ。日本人よ」
浩紀が通りすがりに拾ったその青年は『ハク』
と名乗ったらしい。言葉が通じないというよりは
上手くしゃべれないという具合か。
麻酔の効果、彼は寝り込んでいる。
扱けた頬、カサカサの肌、あざだらけの腕。
ひいき目に見ても、まともな生活をしていたと
は思えない。
絶望に打ちひしがれた彼の言葉は……
──殺して。だった。
いっそ、殺された方が楽になる。ハクはそう思っ
たのだろう。犯罪や面倒ごとに巻き尾まれること
は、ごめんだが、浩紀はその内情が気になった。
気にならない方がおかしいだろう。
この平和な時代に、いい青年が高級住宅地の公
衆トイレの傍らで、血まみれで倒れていたのだか
ら。しかも、ナイフの向きが、逆手になっていた
ことから、自殺未遂とも受け取れるらしい。警察
は事件と自傷の両方で捜査することになった。だ
が、人員不足とかで、どこまで真剣に捜査してく
れるか、甚だ疑問だ。
続きを書くと思います。