第88話 普段の自分を演じる難しさ
「終わったのです~……」
キイナはそう言いながら、机の上に上半身を投げ出す。過去所は、Tシャツにキュロットというラフな格好をしていた。
耳を隠すかつらを外しているため、うさ耳が出ている。その耳も力なく、机に伸びていた。後ろ髪は、まだ染めた状態のため、途中から黒へとグラデーションしている。
「どれ……」
ベッドで横になっていた理香が、机の横まで移動する。気配を察知したキイナが自分の下敷きになっている紙を、理香へと差し出す。
「……すごいじゃないか、キイナ」
一通り目を通したところで、理香が褒める。
「頑張ったのです」
体を起こして、満面の笑みを見せてくる。
紙には、キイナの今日の成果が表れていた。
ざっと見、50点。十分赤点を回避できる。
「やればできる子だったんだな、キイナは」
「誉められて伸びる子でもあるのです」
何となくそれは理解できる。理香が「すごいじゃないか」と感想を漏らすたびに、点数が伸びていった。その結果、月曜日の夜に目標を達成。
テールが「優秀な弁護保佐人ですから、問題ないとは思いますが」と言っただけのことはある。
「でも、全部理香のおかげなのです」
「ボクは、教えただけだ」
「教え方が上手なのですよ。きれいな声のおかげで、すんなり頭に入ってきたのです」
「声は、あまり関係ないと思うが」
「そんなことはないのです。これがトーリだったら、そうはいかないのですよ」
「当利の声も、それなりに聞きやすいと思うぞ」
「私は、理香のがいいのです」
「そうか」
理香は柔らかく微笑むと、キイナの頭に手を乗せる。
「そう言って貰えると、嬉しいものだな」
撫でられて目を細めていたキイナだったが、両手で理香の手を握ると、自分の頭上から彼女の掌を排除する。
「……キイナ?」
「やっぱりおかしいのです」
手を握ったまま、キイナが立ち上がり、そして、理香の顔を真っすぐ覗き込んでくる。その距離は、あまりにも至近で、フンスとキイナが吐き出した鼻息が、胸元に当たるのがわかる程だった。
「体調は万全のつもりだが?」
「だからこそなのです! 男子中学2年生並みの性欲と欲求不満を常にまき散らして当たり前の理香が! このシチュエーションで! 私の体にお触り一つしてこないのは! 明らかにおかしいのです!」
「!」のたびに、一歩ずつ踏み込んでくる。それに合わせて理香は一歩ずつ後退したせいで、ベッド際まで追いつめられる。
「随分な言われようだ」
「でも、事実なのです。最低でも胸の一つは揉まれておかしくないのです!」
「何故に中学2年生?」
「俗に言う『厨二病』というやつなのです!」
どや顔で言い切るキイナ。どうやら、色々なものが混ざっているらしい。
キイナが手を放す。
「私は、理香が対価として、体を要求してくると思ったのです。なのに、拍子抜けなのです。欲望の赴くままに突進する理香はどこに行ってしまったのですか? まるで私だけが期待しているようで、バカみたいではないですか」
「君は、ボクを一体何だと思っているんだ……?」
理香は額を抑えると、ベッドへと座り込む。
「セクハラ魔王、なのです」
「ひどいな」
理香は、片手をそのままにベッドへと座る。
「だからこそ、おかしいのです。『私だけが期待しているようで』という、あからさまなフラグを見逃すなんて、普段の理香からはとても考えられないのです」
「君が『変なことするのは禁止』と言ったからだが?」
「それは『勉強するのに時間がないから』という条件付きなのです。私が赤点を回避できる条件を満たした時点で、普段どおりを装うのなら『もういいよな?』と迫ってくるべきだったのです」
その言葉に、思わず理香は目を見開く。
平静を心がけていたことを、キイナに見破られるとは、思わなかった。
「……ボクもまだまだ修行が足りないな」
「私だから気づいたのだと思うのですよ」
そういうと、キイナは理香の隣に腰を下ろす。
「常日頃、理香からはセクハラを受けていたからこそ、気が付いたことなのです」
理香の顔を隠していた掌が、ゆっくりと落ちる。
「思えば、閑梨さんのところから戻ってきてからの理香は、随分と余裕がなさそうだったのです」
「そんなに前から、か」
そこまで指摘されれば、苦笑いしか出てこない。
「思い返してみれば、という程度なのです。『変なことするの禁止』と言った時にも、セクハラ発言の一つもなく、すんなり応じたあたりから、ちょっと違和感があったのですよ」
「そうか……」
指摘されて、その通りだったかもしれない、と理香も考える。
テールに言い放たれた言葉に心揺さぶられ、それを隠すために普段の自分を演じようと試みた。
だが、そもそもが、キイナという異世界人の存在自体がイレギュラーなのだ。
理香が蓄積し続けてきた「普段」には、存在しない相手。初見とは違うことをするだけで、相手は「違う」と感じる可能性があることを考慮するべきだった。酒挽のように、何度も繰り返し理香の日常を見せている相手とは違う。トレースできる「普段」をこなした経験数が、圧倒的に違うのだから。
だが、展開として、キイナが次に何を尋ねて来るかは、脚本家として想像がつく。
気取られないよう、次の展開を必死になって頭の中で構築し直す。
「閑梨さんに、何か言われたのですか?」
「いや……だが、嫌な可能性があることに、気が付いた」
言われたのは閑梨ではない。テールだ。だが、それを馬鹿正直に言うわけにもいかず、自力で気づいたことにする。
後は、持ち前の演技力を駆使するだけ。
キイナには一度も見せたことのない姿。だから、見破られるはずもない。
「嫌な可能性です?」
理香は頷いて言葉を続ける。
「童話裁判で負けた童話は、既に人間界から抹消されているという話だったよな?」
次回の更新は水曜日の予定です。




