009 幼女、お手紙を書く
「あの、穂乃香お嬢様?」
「なぁに?」
「いつ、文字を書く練習をなすったんですか?」
「ん? してないけど?」
とりあえず可愛らしい便箋と青いインクのペンを手に手紙をしたためる穂乃香の様子を目にしたゆかりは、思わず制止を掛けて割り込んでしまっていた。
手紙を書くという穂乃香の為に用意した50音表に、濁音と半濁音を加えた表を手本に、スラスラと書き進めた文字は、まさに手本通りだった。
コピーでもしたかのように、手本と同じ形……つまり、異常に綺麗な字にゆかりは目を丸くする。
「それにしても、ゆかりさん、この一覧表はすごいね、母音と子音の組み合わせが効率的に整理されてるから、自分の普段発してる声の音で、探すのも簡単だし」
ふんふんと鼻歌まじりで、文字を書くさまは実に年齢相応なのに、出来上がってくる文章がおそらく下手な大人よりもうまいというちぐはぐさに、ゆかりは重要なことに気が付いた。
「穂乃香お嬢様!」
「えっ!? はい、なんでしょうか!?」
急に大きめの声で名前を呼ばれて、全身をビクつかせた穂乃香は、恐る恐る声の主であるゆかりを見上げた。
すると、ゆかりは少し顔を青ざめさせながら「そのままで、しばしそのままでお待ちください」と言い置くと、すぐさま踵を返して、穂乃香が手紙を書いていた居間を後にした。
「え? そのまま? えっ?」
取り残された穂乃香はそのまま呆然とゆかりが去った廊下を見つめて狼狽えることしかできなかった。
「旦那様が、穂乃香お嬢様の成長の過程も記録しなさいと仰っていたので」
「それで、慌てていたんですね」
三脚にカメラをセットしたゆかりは、穂乃香とその周囲、特に手元が映るように調整してから、ふぅっと息を吐いた。
「お嬢様の初めてのお手紙ですから、記録しておかないと、旦那様が悲しまれてしまうかもしれません」
そう言われれば、確かにと穂乃香は心の内で頷いた。
ゆかりの話によれば、祖父は穂乃香が可愛いけど、手の出し方がわからないらしい。
穂乃香にもそのもどかしさに心当たりがあるし、そのせいで『初めての』と名がつく出来事を目撃あるいは遭遇出来たためしがなく、寂しい思いをしたものだ。
当然ながら、今の立場はおなじ爺ではなく、孫と祖父なのだが、協力する気持ちはやぶさかではない。
別段特別なことをする訳ではなく、手紙を書くところを撮影するだけなのだから、手間でもない。
そこで、穂乃香は、ゆかりに最初から書き直すことを提案してみた。
「え? よろしいのですか?」
提案されたゆかりにしてみれば、渡りに船だ。
そもそも、穂乃香の記録という目的は、まるっきり嘘ではないが、そこに至ったのは、文字の異常な美しさにある。
歪みもほとんどなく書かれる穂乃香の文字に『誰かが描き直したのではないか、原本を出さぬか!』と吠える主人の姿を夢想したのがきっかけだ。
つまるところ、この急な撮影は、証拠抑えの一環なのである。
当然、そのゆかりからすれば、最初から書き直すという穂乃香の提案はありがたい。
なので、わざわざ宣言してもらった。
「初めてのお手紙なので、書いているところを最初から見てください」
天使の笑顔でニコリと微笑む穂乃香は、完璧なカメラ目線だった。
世話役として四六時中いることで大分情が移っている身としては、素直に『うちの子が一番』と断言出来ちゃいそうな笑顔に、ゆかりは思わず歓声を上げかけて、自分の声が録画映像の雑音になりかねないと瞬時に察して声を押し殺した。
そうしている間に、手元の便箋に集中した穂乃香は先ほどと変わらぬ美しい字を紙面に書き始めた。
「やはり、我が孫は天才じゃなかろうか?」
榊原グループ総裁であり、穂乃香の実の祖父であり、現保護者の菊一郎は大興奮だった。
衛星回線を利用したテレビ電話で、ゆかりの報告を聞き終え、その上で穂乃香が懸命に手紙を書く姿を動画で確かめ、孫の凄さに普段の威厳たっぷりの姿とはかけ離れた姿をさらしていた。
「やはり、現物に触れられないのは残念じゃが、すぐ帰国するわけにもいかんし、困ったもんじゃ」
菊一郎の手に握られているのは、穂乃香の手紙を複写したものだ。
今現在仕事の都合で海外に出ている菊一郎の手元に、原本が渡るのには数日を要するためだ。
「しかし、このように美しい字を3歳で書いてしまうとは……わたし『は』が、わたし『わ』と音のままに書いているのが、完璧すぎなくていいな!」
一人でうんうん頷いてる見たこともない主人を前に、ゆかりは微動だにしない。
報告開始から、穂乃香の手紙動画を見る間も、使用人ゆかりは微動だにすることなく直立不動を保っている。
「ところで、ゆかり。この『ぷりち』の『すてき』とは何かわかるか?」
菊一郎の問い掛けに、ゆかりは静かに頷くと、発言を許可される。
「はい。お嬢様が最近ご覧になっている『プリティーウィッチ・フローラル』という女子児童向け番組の劇中で使われる変身用のステッキの事です。お嬢様はまだ文語が完ぺきとは言えませんので、そちらは、正確には、プリティーウィッチの略で『プリッチ』の『ステッキ』と書いたつもりだと思います」
ゆかりは淀みなくそう告げると、深く頭を下げた。
それで自分の言は終わりということである。
対して菊一郎は、やや低めの声で「ゆかり」と名を呼ぶ。
ゆかりはその声の低さに、出過ぎた説明をしたのだろうかと内心冷や汗をかきながら、続く言葉を待った。
「お前を穂乃香に付けて良かった! せっかく穂乃香が欲しいものを聞いたというのに、ちゃんと用意できぬ無能な爺にならずに済んだのはお前のお陰だ! 早速、用意するので報告書を秘書の小池に回しておくように」
ゆかりはそう言われて驚きで、ガバリと体を起こした。
「だ、第一秘書の小池様ですか?」
「うむ、任せた」
そう言って菊一郎は頷くと、再び、穂乃香の動画の鑑賞を初めてしまう。
一方で、ゆかりは完璧と名高い『小池第一秘書』を投入してまで用意される魔法のステッキを想像して、若干引いてしまっていた。
なにしろ、やり手で完璧主義者で知られる小池が絡めば、おもちゃ会社から発売されている玩具で済むはずがないのだ。




