058 幼女、翔ぶ
天上高くに月が昇り、深夜を迎えるころには、ホテル内の照明も落とされ、青海島の周囲に光を放つ灯台の明かりと月光だけが、わずかに周囲を照らしていた。
榊原家所有となっている青海島は、純粋な一般の島民はおらず、榊原家所有の研究所に勤務するスタッフか、旅行客、遠洋漁業の中継基地として利用している漁民以外に人はいない。
穂乃香たちが宿泊することになったこの日は、漁民の滞在もなく、他の旅行客もいないので、島にいるのはすべて榊原家の関係者であった。
その中に子供は、穂乃香、みどり、奈菜のわずか三人である。
ゆえに、砂浜に点々と足跡を作る人影は、そのうちの一人ということでもあった。
シャクシャクと砂浜に足跡を刻む少女は、ピンクのふわりとした半袖のネグリジェに身を包んでいる。
歩む先は寄せては返す波が絶え間なく、白い泡を伴って砂浜を濡らしていた。
少女の眼はうつろであるにもかかわらず、その足取りには迷いがない。
そうして、少女の足が波に触れようとしたところで、別の少女が背後から抱き付いて、波から遠ざけるように後ろへと引き倒した。
「みどりちゃん! しっかりして!!」
いつか見たのと変わらない目で、浜に押し倒されてなお、わずかに手足を動かして進もうとするみどりに、穂乃香は腹の底から絞り出した大声で、覚醒を促す。
だが、穂乃香の試みは成就することはなかった。
「……それじゃあ、それじゃあ」
今の状態がよろしくないのは理解しているし、対処しなければと思いつつも、打てる手立てが上手く思いつかない。
何よりも、状況が良くなかった。
もう少し駆けつけるのが遅ければ、みどりは波に飲まれてしまっていただろう。
そう考えるだけで、穂乃香の中では焦りの感情がものすごい勢いで膨らみ、さらに穂乃香を焦らせた。
「どうしよう、どうしたらいい?」
穂乃香は不安げに瞳を瞬かせながら、自らが飛び出してきたホテル二階の自室の窓を見つめる。
だが、彼女に手を差し伸べる者はどこにも居なかった。
穂乃香がみどりの窮地に駆け付けられたのは、まさしく偶然の一言である。
ゆかりとの言葉のやり取りで、自分の危うさに気付いた穂乃香は、ベッドに潜り込みながらも、そのことを考えて眠りにつけず、目を閉じたまま思考を巡らせていた。
その時、ゆかりが寝ているはずのベッドで物音がした気がして、穂乃香は状況を確認しようとベッドに潜ったままで、感知の魔法を放つ。
「え?」
その魔法の反応に、穂乃香は慌ててベッドから飛び起きた。
「ゆかりさん、起きて、何か変!」
感じ取ったばかりの階下へ向かう小さな人物の気配に、穂乃香は横で眠るゆかりに声をかける。
だが、ゆかりからの返事はなかった。
穂乃香はよほど深く眠っているのだろうかと、別の手を使う。
「エリーさん、聞こえますか?」
さすがに、すぐに返事はないだろうと、再び感知に意識を向けると、想像もしていないことが起きた。
「え? ええ?」
直後、穂乃香が感知したものが事実だと裏付けるように、ガシャンとガラスの割れる音が響く。
「玄関ドアが吹き飛ばされたってこと?」
目にしていないこともあって、感知していて、音が聞こえてもなお、穂乃香はうまく状況を飲み込めずにいた。
そんな中、ホテルを離れていく小柄な人物の気配に、穂乃香はようやく我に返る。
「あ、でも、このままにしておけないし、ゆかりさん!」
申し訳ないと思いつつも、自分が抜け出して、抜け出した人物の件とは別の問題になってもいけないので、ゆかりの布団をめくるも、そこに見たのは蝋人形のように固まってしまったゆかりの姿だった。
「ゆかりさん……あ……また……」
夕暮れの浜で見た光景が脳裏によみがえり、穂乃香は混乱しつつも、状況を把握する。
「とにかく、外も確認しないと」
せめて言葉にしないと、ミスを犯しそうな自分を感じて、穂乃香は独り言を口にすると、慌てて窓辺に駆け寄った。
感知した人影は、皆で通った散歩道をたどり浜に向かっている。
そして、穂乃香は窓を開けてその人物が、みどりであることを目視で確認した。
「やっぱり、みどりちゃん……」
穂乃香の記憶にも新しい『森の人』事件でも、こうしてみどりは誘い出されている。
あの時は、周囲の人間が『みどりの存在を忘れた』が、今回のケースでは蝋人形のように固まってしまっていた。
ケースとして考えれば、共通点と相違点が適度に存在している。
だが、そんなことを長々と考える余裕は穂乃香にはなかった。
みどりの進む先には浜があり、あの足が止まらなければ、どうなるかは想像するまでもない。
穂乃香は水に沈むみどりを夢想した直後、ベッドから抜け出たプリッチのキャラクターたちがプリントされたピンクの可愛らしいパジャマのままで、窓枠に素足を掛けた。
「ひ、しょ、う!!!」
一歩一歩浜に迫るみどりを目指して、穂乃香は『森の人』と遭遇したときと同じく『飛翔』の魔法で最短距離を飛ぶ。
そうして、波にみどりが触れる寸前、どうにかその体に抱き付くことに成功したのだった。




