034 幼女、漢字を学ぶ
菊一郎に手紙を出したことで、新たに穂乃香の部屋に追加された本棚には、漢字だけでなく、英語やフランス語といった外国語の入門教材など、こと言語に関する書籍が収められた。
部屋での滞在を命じられている今、地下の練習場で魔法の練習をするわけにはいかない穂乃香は、自然とこれらの教材を相手に勉強に励むことになる。
大人でもその分量に、悲鳴を上げそうなそれらを前に、穂乃香は喜々として、目を輝かせた。
「すごいよ、ゆかりさん、外国語の教本もあるよ!」
「そ、そうですね……」
日本語だけでも厄介なのに、英語が加わってしまうと、いよいよ情報の統制は厳しくなると、ゆかりは内心で溜息をついた。
特に、今は大丈夫であっても、穂乃香が小学校に上がれば、学園の大図書館の使用資格を穂乃香は得てしまう。
学園の蔵書ゆえに吟味はされているが、漫画や小説、趣味本に分類されるエリアには、魔法、魔術、呪術、はては超常現象、宗教と、穂乃香に与えては危険な知識の書かれた本も収蔵されているので、事実上、隠匿してきた情報の全てが開示される可能性が大きかった。
それを思ってゆかりはぎこちなかったのだが、途中でひとつの事に気が付く。
逆にその段階で、穂乃香が自分自身で情報を得たのであれば、菊一郎からの無茶な指令に違反しないだろうことに思い至ったのだ。
そして、一瞬晴れやかな気持ちになったゆかりだが、穂乃香が知識を得た上で、例の『鈍感』を自発的に発動したら、余計こじれるだけだという不都合な事実にも直ぐに気が付いた。
「まあ、今考えても仕方ありませんね」
ほんの小さな声で思わず零れた独り言に、穂乃香が反応を示した。
「ゆかりさん、何か言いました?」
内容は聞き取れなかったのか、あるいは『鈍感』で聞こえなかったのかは分からないが、そう尋ねられたので、ゆかりは素直に答える。
「はい。問題が起きそうな事態があって、でも、問題が起こるかどうかはわからないので、実際に問題が起きた時まで保留にしました」
短く整理された言葉に、穂乃香は素直に頷いた。
「確かに、前もって準備をするのは大事ですけど、予想したことと違った場合に、柔軟性を欠いてしまいますからね。難しいところです」
それは森の人との戦いの中で、穂乃香が改めて自覚した一つの真実である。
ゆえに、とてもタイミングのいい言葉のやり取りができたな、と、穂乃香は一人ご満悦だ。
これに対して、その穂乃香自身のせいで悩んでるゆかりは、すべてを明かすわけにもいかずに、曖昧な頷きと共に「はい。そうですね」と同意する。
そして、胸の中で「厄介なことになりませんように……」とゆかりは願うのだった。
そこから、穂乃香は自室にこもり勉強に明け暮れることになったのだが、その進度にゆかりは驚愕することになる。
翌日の午前中に、何気なく進み具合を尋ねると、穂乃香は笑顔で「漢字は象形文字でありながら、パズルの要素もあって面白いですね」と答えたのだ。
「そう……ですが、もうそこまで学ばれたのですか?」
穂乃香の異常性は自覚していたものの、いかにゆかりといえど、いくらなんでも一日で漢字の成り立ちに触れてくるのは予想外である。
絵から簡略され、徐々に文字になっていく成り立ちの図を指さしながら、穂乃香は興奮気味にゆかりに訴えた。
「最初は漢字の成り立ちで象形文字であることを知ったんですけど、実際のものを模るだけじゃなくて、指示文字のように状況を点や線で図にしてから文字にするっていう成り立ちもあって、そこからはだいぶ夢中になってしまいました」
指示文字のくだりでは、横に引かれた線の上に丸い点が書かれ、それが『上』へと変わっていく様子が描かれている。
「そういった成り立ちの文字を『指示文字』というのですね。勉強になります」
それは純粋なゆかりの感想だったのだが、しかしそれゆえに、思慮が足りなかった。
いつもは様々なことを教えてくれたり、注意喚起してくれるゆかりが『勉強になる』と言ったことに、穂乃香は舞い上がる。
元々、魔法使いとして多くの弟子を抱えていた穂乃香にとって、学ぶ喜びと等しく大きいのが、教える喜びなのだ。
それまで長く満たされていない歓びを、予想外に刺激されてしまった今、その肉体どおりの幼い誇らしさで、穂乃香は饒舌に語り出す。
「ゆかりさん、それだけじゃないのよ!」
そのキラキラと輝く瞳、興奮に赤く染まった頬、そして心なしか荒くなった呼吸に、ゆかりは悟った。
もう穂乃香は一通り満足するまで、言葉を止めないだろう、と。
そうして始まった穂乃香の漢字解説は、実際の学術的分類も裏付けとして使われているので、存外に理解しやすく、より深く漢字を知ってしまったことで、知的好奇心も刺激され、ゆかりはついつい穂乃香との漢字談議に花を咲かせてしまう。
結果、穂乃香の学習意欲が爆発的に高まって、ゆかりの懸念していた独習による知識の大幅補強という事態に至ってしまうのだが、今この時の漢字について語り合う二人には知る由もない事だった。




