033 幼女、勉強を決意する
森の人との戦いを終えた穂乃香は、絶対安静を申しつけられ、幼稚舎への登園も禁止の上、自室に押し込められる事態となっていた。
「んー。流石にずっと寝ているのも、疲れるよね」
白とピンクで構成された可愛らしいベッドから、むくりと起きだすと、穂乃香は自分の部屋の中を見渡す。
普段はゆかりとともに行動をするか、幼稚舎へ行っているために、長く自室にいるということがなかった穂乃香は、改めて自室を見回して、こうなっていたのかと、今更ながらの感想を抱いていた。
「勉強するなら、もう少し偏りを減らさないと、ね」
穂乃香が自室を見渡す中で、目にとめた本棚は、見事にプリッチ関係の書籍で埋もれている。
塗り絵に始まり、ファンブック、大人向けの解説書とその対象年齢も様々、種類も多岐にわたるが、穂乃香護衛隊の検閲のもと、養育に悪影響のある表現だけがチェックされて、問題の無いものが穂乃香の知らない間に収められて出来上がった本棚だ。
そのために、主であるはずの穂乃香ですら、その全容を把握していない。
「改めて考えると、まずは漢字を覚えたいなぁ」
本を読むうえでも必需となる漢字の修得は、穂乃香にとっても急務であった。
感想を伝えるための菊一郎への手紙をきっかけに、穂乃香はすでにひらがなとカタカナをマスターしている。
子供向けの本には漢字にルビが振られているものもあり、そこそこ覚えていたのだが、スラングや当て字のように本来の読み方ではないルビを振られると知って、穂乃香はゆかりとともに顔を青くしたものだ。
もっとも、子供向け雑誌の読みにそんな奇抜なものはないと知って、2人で胸を撫で下ろしたのはつい最近の事である。
ちなみに、プリッチシリーズは漫画化されているのだが、こちらには女子中学生や女子高校生が中心に使う所謂『流行り言葉』が使われていたので、優秀な穂乃香護衛隊の皆さまの検閲で禁止となっているため、穂乃香の本棚には収蔵されていなかった。
と、そんな背景と暇さが手伝って、穂乃香は思い浮かべた『漢字習得』を実践するべく、穂乃香用の勉強机の脇に設置されているインターフォンのスイッチを押す。
『はい、穂乃香お嬢様、どうなされましたか?』
スピーカー越しにゆかりの声が響いた。
ゆかりを含む穂乃香護衛隊は、穂乃香が自室にいる際は、朝起こしに来るとき以外は基本入室しない。
なので、ゆかりであってもこのように、スピーカー越しに用件を尋ねてくるのが日常だった。
もっとも、最近は無理をした代償で大規模な筋肉痛に襲われていた穂乃香を介助するために、そのルールは一時的に解除されている。
正式に元に戻すという宣言がゆかりからはなかったので、この少し前のやり取りに戻ったことに、平穏が戻りつつある実感を得て「妙なところで」と、穂乃香は苦笑した。
「漢字のお勉強ですか……」
穂乃香の部屋に入るなり、穂乃香に漢字を勉強したいと言われたゆかりは一応腕を組んで考える素振りを見せた。
実際のところ、穂乃香の吸収力ならば、特段問題のない事であるし、文字が読めるメリットは、読めないことの何倍も大きい。
それは間違いないのだが、問題は漢字を覚えるのが『穂乃香』だというところであった。
本は知識の宝庫であると同時に、読み手に知識を与えてくれる教師でもある。
そして、この教師は無機物であるがゆえに、情報の善悪を判断してはくれないのだ。
人であれば、あるいは穂乃香の性格、環境、能力、果ては将来への考慮と、細心の注意でもって、知識を手渡せるだろう。
しかし、穂乃香が無軌道に片っ端から知識を蓄えたらと思うと、ゆかりはその可能性ゆえに縦に首を振れなかった。
すると、超優秀であり問題児である穂乃香は察してしまう。
「ああ、そうね、そういうことね」
穂乃香が訳知り顔で頷くのを見て、戦慄を覚えたゆかりは胸の中で『どういうことだと思ったのですか!』と大声を上げて叫んだ。
もはや嫌な予感しかしない穂乃香の様子に、それでも鋼の精神力で、ゆかりは張り付けた笑顔は崩さない。
「な、にか、お気付きに、なったのですか?」
無理に感情を抑え込んだせいで、妙にたどたどしくなった問いかけに、穂乃香は気にした風も見せずに笑顔で答えた。
「お爺様の許可がいるんでしょう? ゆかりさんだけだと、判断できないってことなら、私がお手紙でお願いしてみるね!」
早速自分の勉強机から可愛らしい封筒と便箋のレターセットを取り出す。
穂乃香はそのままためらいも見せずに、愛用の水性サインペンのキャップを外すと、お手本のような綺麗な字で『おじいさまへ』と封筒にさらさらと宛名を書いた。
もうその段階で、ゆかりにはその手を留めさせることはできないし、漢字習得の件も許可が下りるだろうと踏んだゆかりは『穂乃香が成長するのだ』とプラスの面を強く意識することにして、微笑み掛ける。
「これで、漢字のお勉強もできますね」
「うん。頑張るつもりだよ」
「私もお手伝いしますね」
「うん。ありがとう。さすが、ゆかりさん!」
手紙を書く手を留めて、くるっとゆかりに向き直った穂乃香は、上目遣いでそういうと、極上の笑みで締めくくった。
その笑顔だけで、素直に頑張ってさせようと思うゆかりは、自分の単純さと未来からの逃避に、内心で苦笑する。
それでも、この笑顔を守る為に苦労するならば、たやすい事だと思えてしまう自分が、どれほど穂乃香を愛しく思っているのか自覚して、ゆかりは少し困った顔で笑った。




