017 幼女、入園式をむかえる
地下室の魔法修業が始まってはや半年、穂乃香はついに正式に幼稚舎への入園の日を迎えることとなった。
身に着ける制服は、半年の時を経て穂乃香の体には小さくなった体験入園のものではなく、新たに通園用に制作された真新しいものである。
「今日から穂乃香お嬢様も幼稚舎の一員ですね」
「体験ではないですからね」
ゆかりの言葉に、何処か得意げな様子で返す穂乃香、二人はそう言い合って視線を合わせた後でどちらからともなく笑いあった。
まだわずかに冬の気配を残す空気はやや冷たい。
それでもふわりと差し込む柔らかな日差しが、紺のセーラーワンピースを纏う穂乃香にはとても暖かく感じられた。
校則に定められたとおりに、大変柔らかな仕上がりの黒に近い紺色の生地のセーラー襟に、きちりと縫い付けられた一本のラインが眩しい。
セーラー襟と襟の間にある胸当てには、正式な入園であるため、プリントではなく刺繍で聖アニエス学院の校章が刻まれている。
輝かんばかりのスカーフは、穂乃香に合わせて作られているために、セーラーワンピースのスカート部分への切り返しのやや上でキッチリ留まる長さに仕上げられていた。
およそおへその位置までの上衣の生地にプリーツのスカートが組み合わされていて、穂乃香の細く白い足の膝までが隠れている。
その下にもう少し暑くなれば、学校指定の校章入りの膝下丈の靴下を履くのだが、やや寒い今日は黒のタイツだ。
ぴかりと輝くエナメルの黒のストラップシューズに、頭には通園帽をかぶり、更に斜め掛けに通学かばんが掛けられている。
通学かばんの中にはハンカチやティッシュ、保護者と保育士さんが連絡を取り合うための幼稚舎手帳、そのほか内側のファスナー付きのポケットの中には緊急時用の携帯電話が収められている。
「正直、穂乃香お嬢様には退屈かもしれません」
幼稚舎へと向かう車中で、ゆかりはポツリとそんなことを口にした。
この日は入園式が行われるのだが、未だに海外の菊一郎の代理で出席するため、ゆかりはグレーのスカートタイプのスーツに身を包んでいる。
「ゆかり……さん。子供のネットワークだから学べることもあるわ、実際に体験入学は参考になったしね」
「そうでしたね、私が間違っておりました」
「ふふふ。ゆかりさんは心配してくれただけでしょう? でも、私は満喫する気よ。やっぱり、皆いい人ばかりでも、たまにはお屋敷の外にも出たいわ」
「穂乃香お嬢様」
ゆかりは穂乃香の言葉を深く受け止めていた。
菊一郎を筆頭にした榊原グループは財界屈指の規模を誇る一大グループだ。
それゆえに、親戚縁者ですら骨肉の争いを繰り広げており、その魔の手から保護するために、菊一郎は穂乃香を自分の屋敷に住まわせている。
もちろんそれらの全ては、穂乃香を守る為なのだが、実質軟禁に等しい。
外出の許可や機会は与えられず、穂乃香自身、前世の記憶に目覚めてからも、許された外出は幼稚舎の体験入園位だ。
その上、屋敷の中であっても、重要機密の多い建物ゆえに、穂乃香の立ち入りが許可されている場所は、実は片手の指よりやや多く両手の指なら足りてしまうほどの部屋数しかない。
榊原穂乃香は、榊原グループ総帥の孫娘という羨まれる立場でありながら、とても不自由を強いられてもいるのだ。
そのこともあって、菊一郎をはじめ周囲の人間は過保護になっている。
しかも、穂乃香自身は老人級の精神を持っているために、その環境で増長することも荒れることもなく、素直に仕方ないと理解し納得した上で、周囲にも優しく気遣うのだから、その愛らしい外見も手伝って穂乃香護衛隊はもとより、榊原家の使用人たちには実子、実孫以上に愛されていた。
そんな穂乃香である。
自分の発言でゆかりが表情を曇らせることを察するとすぐにフォローの言葉を口にした。
「あーごめんなさい。皮肉とかじゃないの。でも、やっぱり、ゆかりさんや皆とは別の人脈も必要じゃない? 将来の為にも!」
これは穂乃香の経験に基づく持論でもある。
実際、幾度となく人脈に、友人に救われてきたので、穂乃香はこのことには確信を持っている。
「なるほど、穂乃香お嬢様はずいぶんと先見の目がおありですね」
ゆかりはそう頷いてから、教育担当として「ですが」と否定の言葉を紡ごうと口を開く。
穂乃香はそれを首を振って止めると「わかってるわよ」と笑って見せた。
「打算で付き合う相手を選びに行ったりしないわ。友達を見つけるだけよ」
屈託のない無邪気な笑顔にそぐわない大人なセリフに苦笑しながら、これまでを思い浮かべれば、なるほど穂乃香ならば大丈夫だとゆかりも笑みを返した。
入園式は明確に園児と保護者の席が分かれているため、すでに泣き出してしまった子やその様子を見て泣きそうな子がいて、混乱へと傾き始めていた。
その中でも冷静に状況を観察していた穂乃香が、真っ先に泣いている子に声を掛ける。
「ねぇねぇ。お名前なんて言うの? 私はね、榊原穂乃香」
泣いてることなどお構いなしに柔らかな声でそう告げた穂乃香に、ぴたりと泣き止んだその子はきょとんとした顔を見せた。
その急激な変化につられて泣きそうだった子も、うるさそうに見ていた子も、不安な目を向けていた子も動きを止める。
「お名前、教えて欲しいな」
そう言って笑みを深くすると泣いてた子は驚きながらも「なな」と小さく震える声で返してきた。
「ななちゃんって言うんだね! 可愛くて素敵な名前だね」
穂乃香の明るく弾むような声につられて笑顔を取り戻しかけた奈菜は、でも名前のことに触れられて表情を曇らせてしまう。
「でも、お兄ちゃんがバナナのななっていうの」
消え入りそうな声に、穂乃香はニコリと微笑んだままで「え、いいなぁ、バナナ、甘くておいしくて、私大好きだよ?」と伝えると、再び奈菜の目が驚きに揺れた。
「大好き?」
「うん。黄色なのも可愛いよね、見てるだけで楽しくなっちゃう色をしてる。そのお兄ちゃんがどういう気持ちで言ったのかはわからないけど、私はバナナ大好きだから『バナナのなな』なんて、ちょっとうらやましいかも」
「羨ましい?」
こてんと小首を傾げた奈菜に、穂乃香はわかりやすく溜息を履いて見せた。
「だって、穂乃香って名前だから、ななちゃんのバナナみたいに、似たような言葉がないし……つまらないよ」
「つまらない?」
「うん。だから、ななちゃんいいなぁ」
「え? ななが?」
「うん」
輝かんばかりの笑顔を見せる穂乃香の言葉に嘘がないと察した奈菜はみるみる表情を明るくしていった。
奈菜は最後に穂乃香に向かって、照れくさそうに「えへへ」と笑って見せた時には、先ほどまでの空気も完全に消え去っていた。




