異界の初夜
地上のあちこちに、玉のような光が舞っている。
風にゆらり揺れ、ぽつぽつと闇に浮かんでいる。
見えるものといえば、それだけだった。
俺とメイが大樹の頂上に設けられた天然のツリーハウスに避難し、世界が闇に飲まれてから、大体三十分ほどが経っていた。
持っていたスマホはとっくに失くしていたから、計りは頼りない腹時計である。
正確な時間は分からなかった。
でも、今はそんなことより――
「く……!」
「スー、スー……」
暗闇から、メイの安らかな寝息が聞こえてくる。
一方の俺はというと、その横で体を固くして心臓バクバクでブルっていた。
(いや、暗ぇって!)
薄々予想こそしてはいたが、ここの夜空には俺達の世界で云うところの“月”がなかった。
そのせいで辺りは、本当の真っ暗闇だ。
その暗さときたらもう尋常ではなく、横たえているはずの自分の体すら全く見えないぐらいだった。
暗黒。深淵。
世界中が完璧な闇に包まれている。
地上をフラつく、よく分からん光の球だけを除いて。
初めて味わう大自然の中の本物の『夜』に、今更ながら当たり前にあると思い込んでいた文明の灯りの貴さを思い知る。
「メイ…まだ、起きてるか?」
「スー、スー…」
…ほんとよく眠れるよな。
ちょっと見ない間に、不肖の兄貴より肝が据わったようだ。
一体、何があったのか…。
深海の底のような暗闇に内心ビビりつつも、俺は何か今日一日の余韻みたいなものを感じていた。
全身疲れきっているのに、頭にだけはまだ汗ばんだ緊張が残っていて、寝付けない。
そのせいかもしれなかった。
(…思えば、本当に散々な目に遭ったもんだよな)
曲げた片腕を枕に、改めて思い返してみる。
いつの間にか迷い込んでいたこの異世界で、俺は熊に似た“生物”に襲われた。
腕を喰われて、必死に逃げようとして崖から落ちて…それで気が付いたら、川岸に打ち上げられていた。
それから、休む間もなく人食いの木に捕まって…でも、危ないところでメイに助け出されて、今は夜を凌ぐため、こんな高い場所にいる。
落ち着いて一つ一つ思い出してみると…よく、死なずに済んだもんだ。
というか、一度腕をもがれてるのに何で生きているのか、正直よく分かっていない。
謎だらけでメチャクチャで、分からないことが数多くある。
この世界はちょっと、様子がおかしい。
危険な“生物”がうようよしているのもそうだが、それとは別に雰囲気が変だ。
見慣れない動植物に、白い森、金色の流れる長い川…そして、あのバカでかい紫の太陽。
何もかもが、あまりにも俺のよく知る現実からかけ離れ過ぎている。
少なくともここは、『ただの自然の溢れる別世界』とは違う…そんな気がしてならなかった。
この妙な異世界に迷い込む直前、俺は神に祈っていた。
妹の命を助けてくれと、柄にもなく居るはずもない神様に願って…そして、気が付いたらこの世界の森の中にいた。
もしも祈りが通じて、こんな場所に来てしまったんだとしたら…俺はこの事態をどう考えたらいい?
(…分っかんねぇ)
寝返りを打った。
色んなことを考えてみては放り出したあと、最後に頭に浮かんだのは、残してきた命依のことだった。
あれから、命依はどうなったのか?
あの病室で、無事に峠を越えてくれただろうか?
それとも、やっぱり今頃はもう――
…やめよう。こんな暗い場所で考えることじゃない。
それよりも、今気にすべきなのはメイの存在だ。
寒さに体を丸めつつ、その顔を描き出してみた。
妹の命依と瓜二つな野生児、メイ。
性格も服装も命依とは全然違うし、言葉もロクに通じやしないが、その姿は――次いでに言えば声も――あまりに命依と似すぎている。
現実で…つまり俺が今まで生きてきた世界で、命依が死の淵に立たされていたことを差し引いても、この出会いが偶然だとは思えない。
とは言え、もしも神様の存在を信じるとしても、一体どういうつもりでメイを俺の元に遣わしたのかは、まるで見当もつかないが…
「ゔぁっ…おやつ…!」
「っ…!」
闇の中、突然聞こえてきた寝言に思考が中断された。
この野郎、人の気も知らないで健やかに愉快な夢を見やがって…。
でも、おかげで煮詰まりかけていた気持ちが、少し楽になっていた。
(…とにかく、生き延びないとな)
気にかかることはいくらもあるが、何を調べるにしてもまずは生き残ることが大前提だ。
理不尽な世界だが、来てしまった以上は文句を言ってもしょうがない。
生き延びて、生き延びて、生き延びて――そして方法を見つけて、必ず命依の待つ元の世界へ帰ってやる。
まずは、明日から“人”を探してみよう。
大丈夫だ、俺とメイ以外にも必ずいる。確証はある。
一日歩けば、絶対に一人くらいは、見つかる、はず……。
「ふぁ……」
まともに頭を働かせていられたのは、そこまでだった。
体の一部を失い、人生で最も過酷な一日を過ごした俺は、極度の疲労から少しずつ眠りに落ちていった。
すぐ傍にメイの気配を感じながら、底の見えない暗黒に向かって沈んでいくように――
こうして、異世界最初の夜は名もなき大樹の上で眠る俺達を包み込んだまま、人知れず静かに更けていった。
*****
――未科誠一とメイの二人が寝静まったその頃。
夜の帳が降りた森の中で、一匹の巨大な“生物”がその吐息で包み込む闇夜を濡らしていた。
飢えた“生物”は、昼の間に狙いを定めておいた標的を追い、川沿いに並ぶ木々の間をゆっくりと闊歩たる足取りで進んでいた。
雄々しき魔獣の如き“生物”には解っていた。
獲物との距離が、着実に縮まりつつあることを。
最早、その儚い命が風前に晒された灯火にも等しく、己の研ぎ澄まされた爪と牙から決して逃れ得ぬことを。
暗黒の森の中、“生物”が静かに舌なめずりをした。
一片の紙切れが、地に舞い落ちる時ほどの音も立たなかった。
相対せずとも勝利を確信するその仕草には、この自然世界の食物連鎖の頂点に立つ捕食者としての、絶対的な自信が表れていた――
*****
―――――この夜、二人の人間を巡る運命は大きく動き出し、既にその結末はほぼ決定づけられていた。
しかし、二つの内の一つ、『未科誠一』…『セイ』がそのことを知るのは、まだまだずっと先の話である―――――