夕無しの闇
「よーし、まず口を離せメイ…よし」
「うぐるるるっ…!」
「唸るな、怖えーから。で、夜…が来たらどうなる?」
「…? まっくら!」
「まっくら…そうなると、どうなる?」
「んー…たべられる!」
この世界にも、夜が訪れる。
最低限のコミュニケーションを終えた俺は、空を見上げ恐れおののいていた。
「マジかよっ…!」
最初に俺が居たと思われる台地の向こう、世界の端から暗黒の『夜』が迫ってくる。
昼と夜の狭間、オレンジ色のハーフタイムなんて、そんな牧歌的な黄昏の時はこの世界にゃないらしい。
メイによれば、暗闇に飲み込まれる前に避難しなければ、俺達は『食べられる』とのことだった。
おそらく、この森には夜行性の獣もうじゃうじゃいやがるんだろう。
全く、ロクに休む暇もない。
「話は分かった。じゃ、行くぞっ!」
「?」
声をかけると、俺は黄土色の川に沿って、沈む満月――ではなく、太陽の方に向かって歩き出した。
『夜』は沈む陽の反対側からやって来ているわけだから、当然だ。
少しでも遠ざかるには、こっちしかない。
腕に食いついたまま、つられたメイもよたよたと後をついてきた。
「せー」
が、何歩か進んだところで、いきなり歩みにブレーキがかけられた。
獲物を掴んだメイが俺を後ろに引っ張っていた。
「おいっ、何だよメイ?」
「ん、んーっ!」
メイは鳴きながら、なぜか俺が行こうとしているのとは反対の方角を指さした。
太陽とは逆の、暗闇に染まりつつある森の方だ。
「ちょっお前なっ、そっちから夜が来てるんだ。逃げるんならこっちだろ」
「んーっ!」
「…メイ?」
しつこく、俺の手を引っ張り続けるメイ。
“そっちじゃないよ、こっちだよ”…そう言っているように見えた。
「何か、アテでもあんのか――っておいっ?!」
「はぐッ!」
聞いちゃいなかった。
最早ただの戦利品としか思ってないのか、メイは乱暴に右腕を咥えると、手と口とで俺の図体を引きずり始めた。
「ちょっ、待て待て! メイ、待てって! 行儀悪ぃなおいッ!」
ぐっ…つぅか、ちからつよっ!
さっき木から引きずり下ろされた時も思ったが、メイの腕力はかなりのモノだった。
正直、女の子とは思えないくらいだ。
見た感じは命依より細いのに、一体どこにそんな力があるのやら…筋トレでもしてたのか?
ともあれ、抗弁空しく俺はメイに引きずられ、森の奥へ奥へと進んでいった。
無理すれば抵抗はできなくもなかったが、やめておいた。
メイには何か考えがありそうだ。
こんな時、命依なら俺をより正しい方向に導いてくれる…だから、一度試してみたかった。
暗がりが近づくにつれ、徐々に寒さが増していく。
大樹の群れの中をメイに従って分け入る途中、奇妙な“生物”をいくつか見かけた。
森の中、ところどころの樹の根元には、先に光の玉を灯したつくしのような草が寄り添うようにして群生していた。
その草を、リスみたいに小さいキツネのような小動物が食んでいた。
黄色と白の、見たこともない毛並みが食事にいそしむその横では、雑草の生えた地面が丸ごと動いていた。
遠目でよく分からなかったが、そういう風に見えたんだから仕方ない。
「ったく、この森マジでおかしいだろ…!」
「しーっ!」
謎だらけ。
本当に、謎だらけだった。
生きてメイに会えたのは、実は結構な奇跡だったのかもしれない。
道中、繰り返しそう思った。
「…あっ」
「来やがった…!」
それから、5分と経たない内に――俺とメイは、世界を飲み込む星一つない暗黒の『夜』と対峙していた。
ハッキリ見える、100mほど先だ。
水の張った真っ新なパレットの上に、黒の絵の具を垂らした時のように、白い森が隙間のない漆黒のカーテンに塗りつぶされていく。
目に見えて昼と夜の境界が分かるというのは、ある意味新鮮ではあったがそれ以上に恐ろしい眺めでもあった。
「ここっ!」
いい発音と共に、先導していたメイが立ち止まった。
目の前に、でかい一本のツタが絡んだ大樹が立っていた。
メイが口で俺を引っ張った。
「…これを登れって?」
「ゔぁ」
了解。
“ゔぁ”は肯定の返事とみた。
メイが木を登り始めると、活動的な偽の妹に続き、俺も絡んだツタに足をかけた。
並みの現代人なら躊躇するか手間取るかする場面だが、こと俺に限っては問題なかった。
こちとら、高校に通い始めるまでは、何年も自然を遊び場にしてたんだ。
木登りの経験なら浅くない。
むしろ、メイを追い越して先にてっぺんに――と、意気込んで上を見たところ、とっくにかなり離されていた。
やるな、メイ!
それにしても、やたら早いな…いや、あれ?
「あ…れ?」
何だ…? いやに地面が近い。
メイの木登りが、異様に早いわけではなかった。
よく見ると、俺の方が全然上に登れていなかった。
もしかして、手間取ってる?
嘘だろ、そんなにもうろくした覚えはないんだが…。
右腕がイカれたことによるハンデと、『夜』がすぐそこまで迫っているのに気づいたのは全く同時だった。
「えっ、あっ…?」
「せー? …せーっ!」
遥か上に広がる枝葉の群れの中から、メイの叫び声が飛んできた。
「せい、セイぃーーっ!」
闇が、森を覆い尽くしながらやってくる。
おい。
おいおい、おいおいオイ。
なんか…やばくね?
ツー、と冷や汗が首筋の裏を流れる。
目と鼻の先までやってきたそれは『夜』なんて可愛げのあるもんじゃなく――真っ暗な宇宙そのものだった。
地平線の彼方まで続く巨大な黒い塊が、白き森を塗りつぶす。
世界の明かりが、端から順に消されていく。
もしも、あんな暗闇の奥で、地上に取り残されてしまったら。
フラッシュバックみたいに、熊の如き獣の姿が目に浮かんだ。
メイと出会ってから、いつの間にやら体の中で鳴りを潜めていたある本能。
俺の中で眠っていたその原始的な本能が、再び息を吹き返していた。
――そうだよ。何忘れてんだ。
――たとえ相手が獣じゃなかろうが、決して気を緩めてはいけない。
――ここは…そういう世界だろ!
もう間もなく日没だ。
音もなく、目の前の大木が闇に飲まれて消えた。
片腕で、どこまで登れるか。
試した経験は一度もないが、やるしかなかった。
「メェェェイっ!」
何度となく呼んだその名前を叫び、必死に上へと這った。
枝やツタを次々と無事な左手で掴みながら、強引に体を上に押し上げていく。
枝葉が、傷ついた全身に新たな擦り傷を何か所も生んだが、なりふり構ってる場合じゃなかった。
「クッソ、メイっ! メェェイッ!!」
「にゃっ――!」
助けを呼ぶ俺の声に従って、メイが枝から枝へ素早く降りて来るのが見えた。
よかった、見捨てるつもりはないらしい。
半分ダメ元だったが、叫んで正解だった。
「ごちそっ、ごちそ~~っ!」
……。
聞かなかったことにして、俺は目先の太い枝の上に体を押し上げた。
よし、取りあえずこれで何とか――
「あっ!」
「っ!?」
と、腕から僅かに力を抜いたその途端、背中から何かに引っ張られた。
…植物化した右腕がツタに絡まっている!
「はぁっ?! 何だよこれ、クソッ!」
急いで解こうとしたが、腕は独りでに何かよく分からない結びで引っかかっていた。
力を込めて強引に引き抜こうとするも、厄介なことに中々抜けてくれない。
大樹の根元が真っ暗闇に消え、焦りに息が止まりかけた。
「――ゔぁっ!!」
「――メイっ!?」
一つ上の枝に足だけでぶら下がったメイが、逆さになって俺に手を伸ばしていた。
「セイっ! セイっ! ごはんの、セイっ!」
「食いモンじゃねぇっての!! ――でも、ナイスッ!」
重力に従い、黒髪を下に垂らしたその顔を見た瞬間、脳裏に閃きが走っていた。
そうだ、その手があった――!
俺は大きく口を開けると、勢いよく首を振り…邪魔な右腕の触手に、思いっ切り喰らいついた。
「ふぐッ、んぎぎぎぎっ――がァッ!!」
そのまま牙を持つ獣のように、歯と顎とで自らの腕を食いちぎる。
流れるように枝の上で起立し、伸ばされたメイの手を握った。
「わっ!」
「頼む、メイっ! せーのぉっ!」
「…ゔぁっ!」
その掛け声を理解していたのかは分からない。
だが、上手くタイミングが合い、俺の体は無事に上の枝に乗っかった。
間近で顔を突き合わせ目と目が合ったその瞬間、俺はメイと名付けたこの奇っ怪な妹似の“生物”と、初めて心が通じ合った気がした。
「――セイ! うえ、うえっ!」
「うおっ、そうだった!」
足元の枝から、世界が暗黒に溶けていく。
どこまでも侵食する影から追われるように、俺とメイはツタの巻いた大樹を登った。
そして、三つ又に分かれた太い幹の割れ目に持ち上げた体を乗せた、その直後――正にタッチの差で目に映る全てが暗闇に包まれ、異世界に『夜』が訪れた。