命依? メイ?
紫色の陽が傾き、白い森が徐々にその色味のない輝きを失い始めていた。
じきに夕方になるようだ。
とんでもねぇ捕食者(木)よりの脱出に成功してから、約10分。
俺は湿った草の地面に顔を突っ伏したまま、その咀嚼音をじっと聞いていた。
「んぁ…はむ」
もしゃもしゃ。
「ゔぁっ…ふぁ~…!」
ごりごり、しゃくしゃく……ブチッ。
「んん~っ!」
「食うなっっっ!!」
一向に止む気配のない食事にたまらず叫ぶと、少女はサッと身を引き、四つん這いから正座をするような恰好になった。
もう色々と、限界だった。
景気よく食われた右腕が、無残な有様を呈している。
俺は出来るだけそれを見ないようにして、命依によく似た少女と向かい合った。
「よし、命依…話せるか? 俺が誰だか、分かるか?」
ガブッ。
間髪入れずに、歯が食い込んだ。
「食うなっっつの!」
間髪入れずに抗議すると、少女は素早くエサから口を離した。
しかし、話が通じている感じはしない。
目線が、俺の顔と俺の肩から生える植物化した右腕との間をユラユラとさまよっていた。
「…なあ。助けてくれてサンキューな。俺は未科誠一。お前、名前は?」
「…………」
沈黙。
返ってきたのは、やっぱりあの不思議そうな顔だけだった。
ハァ…とため息をついて、俺はもう一度寝転がった。
今度は仰向けだった。
川岸にいるおかげか、森の中なのに空がよく見える。
雲一つない異界の景色は、崖の上から見た時と変わらず灰色と紫色の混じった奇妙な模様をしていた。
命依に話を聞いて、帰り道を見つけて、家に帰る。
それが10分かけて俺が出した結論だった。
計画は一歩目で頓挫していた。
命依までここに来てるんなら、この世界に来る道は必ずあるはずで、それは俺たちが帰る道にもなるはずだった。
だが、そのアテは見事に外れた。
俺を人食いの木から引きずりおろしたコイツは、命依じゃないどころか、話すら通じないらしい。
にしても、他人の空似と言うにはあまりにもそっくりすぎやしねーか…?
「一体何なんだよ、お前はよ…」
「……んー!」
ガブッ。
また少女が俺の腕に噛みついた。骨付き肉に喰らいつく犬っころみたいだった。そんなに美味いか、その緑は。
「な、美味いのか?」
「んーっ!」
すぐさま、「まさに至福」と言った感じの満面の笑み。
キレそうになった。
「よーし、お前は俺を助けたんじゃなく、食い物を獲っただけなんだな。な、そうなんだろ?」
モグモグモグ、と少女が俺の問いかけに頷く。
「分かったよ…好きなだけ食え。ただし、今その口の中に入ってんのが最後だ。いいな?」
少女は、体ごとよそを向いて俺に答えた。
多分伝わっちゃいないだろうが…まあいい。これで一つ、ハッキリした。
こいつの口から、情報は期待できない。
このわけのわからない世界で生き残るには、きっとたくさんの情報が必要だ。だが、そいつは自力で集めるしかないらしい。
OK、現状は分かった。
とにかく、知ろう。調べよう。
俺はまず、自分の体を確かめてみた。
全身傷だらけなわけだが、一番酷いのはやっぱり右腕だった。
根元からあの熊もどきに持っていかれた挙句、今は暗緑色の触手と化している。
改めて見ると、その光景は…やっぱり気持ち悪かった。
轢き逃げ事故の後、担ぎ込まれた病院で腕によく分からないチューブを挿されたが、あの時と似た生理的嫌悪感がある。
ただし、今度のは切実に気味が悪い。
何せ体に異物を入れられるどころか、体が異物になったんだから。
にしても、痛みや吐き気がないのが不思議だ。それと、出血多量で死んでいないのも。
腕を喰い千切られた俺が流した血の量は、半端じゃなかったはずだ。
あの人食いの木が何かしたのかもしれないな。
警戒しつつ、何か知れないかと俺は木に擬態した捕食者に近寄ってみた。
見上げると、縛られている時に見つけた物言わぬドクロが、コツコツと風に揺られ笑っているのが目に入った。
遺された骸の、ぽっかりと空いた空洞の眼窩の奥には何もなかった。
何もない、突き抜けた先には、紫がかった灰色の空だけが見えている…。
背中が少しひんやりとした。
ここには何も無さそうだ…また捕まってしまう前に、俺は人食いの木の傍から離れた。
「あー…」
着ているボロ切れの裾をひらひらさせながら、命依に似た少女がまた隣に寄ってきた。
あどけなく鳴き声を上げて、いくつもの歯形を付けた俺の右腕を両手で掴む。
握った手の平の力強さから、絶対に手放す気はないという固い意志が伝わってくる。
勝ち取ったおやつの所有権を主張する子供のようだった。
そして――改めて見ると、その顔はやっぱり“命依”だった。
一度は違うと思いかけたが、やはり似すぎている。
背格好といい顔といい、その姿はあまりにも――残酷なくらいに――妹・命依の生き写しだった。
少なくとも、命依と全く関係ない赤の他人とは思えない。
どうしてこんな見た目なのか、何でこんな世界にいるのか、疑問はつきなかったけど――いいだろう、どうせ向こうだって離れる気はないようだし。
俺は、食い気たっぷりのこの少女と、共に行動する覚悟を決めた。
「よし…なぁおい。俺達、呼び名を決めないか? ないと不便だし。な」
「うー?」
「まず、命依…お前の名前は“メイ”だ。これから、そう呼ぶからな。OK?」
「…?」
頭の上に疑問符。
この顔は絶対に分かっていない。
しかし、想定の範囲内なので構わずに続ける。
「俺の名前は未科誠一。苗字でも名前でも、好きな方で呼んでくれ」
「…めい?」
「それはお前な。俺は誠一」
「…せー?」
「…まぁ、好きに呼んでくれ」
交互に俺と自分とを指差し頭を捻る野生児のような少女――メイ。
命依とそっくりなせいか、そのアホ丸出しの姿はどこか愛おしく…同時に、同じくらいドッとした疲れを俺に感じさせた。
まぁ…でも、うん。アレだ。アレだな。
命を狙い襲ってくる捕食者共がわんさといる中で、メイは意思の疎通が出来る。
それだけでもまぁ、風向きはマシになってきたと言えるかもしれない。
無理矢理前向きに自分を納得させて、俺は次にどうするか考え始めた。
命依のため、俺は一刻も早く元の世界に帰らなきゃいけない。
しかし、その方法の目処も立ってない今、さし当たり安全な場所を見つけるのが先決に思えた。
こんな森の中で立ち往生していたら、いつまたあの熊のような猛獣に襲われるか分からない。
取りあえず、まずは安全な隠れ家を――
「よる」
「……ん?」
「せー、よる」
唐突に、メイが口を開いていた。
喋った!?
ってか、名前呼んだ?!
いや、そんなことよりも――
「今、何てった?」
「よる…よる、来る」
…『夜』?
言葉に釣られて見上げると、空はまだ明るかった。
だが、よく見ると広がる景色の端っこの方が、いつの間にか真っ黒に塗りつぶされていた。
ちょうど、沈みかける紫色の満月の反対側から、少しずつ…。
…おい待て。
まさか、この世界の『夜』って…!
ガブッ。
メイが物も言わず俺の右腕を咥え、せっせと引っ張り始めた。