はじまり
……。
……。
……?
今一瞬、変に浮いた感じがしたような…?
目を閉じ祈っていた誠一は、ふとした違和感にゆっくりと目を開いた。
途端に、妙に生温かい風がやつれた頬をさらりと撫でる。
(何だ、風か…)
虚ろな気分で、もう一度目を閉じようとして――そして、ハッと頭を上げた。
目の前に、幹。そう、木の幹だ。
いつの間にか、太い木の幹が鎮座していた。
しかも、何だかやたらに白い。
それは、木の根っこが枝分かれしている地面もそうだった。
土なのに、その色合いはまるで薄い緑の茶菓子にシナモンでもまぶしたかのようだ。
それだけ知ったところでもう一度どこからか生温かい風が頬を撫で、今度こそ誠一はハッキリと気がついた。
病院じゃない…どこだ、ここ?
アホみたいにぽかんと口を開けたまま、ノロノロと立ち上がる。
思考の舵の取り方を思い出せないまま、周囲を見回した。
白みがかった広葉樹の太い木立が、視界を絶え間なく遮っている。
病室も、壁も電灯も見当たらない。
座っていた筈の廊下のベンチは影も形もなくなっており、代わりに足元には丸く背の低い切り株が置かれていた。
――どこか知らない森の中にいる!
「あ…え?」
間抜けな声を漏らし、その場に突っ立ったまま硬直してしまう。
わけが分からない。
俺はさっきまで確かに、病院の廊下にいたはずだ。
それがいつの間にか外にいる。しかも、どこか分からない深い森の中に。
「おいおい、何だよ…?」
おかしい。
前後が繋がらない。
何が起こった?
思考の道筋が立たない。
どう考えてもあり得ない状況に、まだ肌に残っているトラウマが蘇った。
これって…まるで、あの時と同じだ。
気が付くと、冷たいアスファルトの地面に体を横たえていたあの時とッ…!
交通事故。ひき逃げ。
最悪な印象を持つそれらのワードが思わず浮かび、俺は慌てて頭を二、三度振った。
そんなことあってたまるか。
なぜなら今の俺は五体満足で――
…五体、満足?
違和感を覚え、弾かれたように自分の右腕を見る。
すると、地味な学生服を着た袖の先に、いつも通り見慣れた自分の腕が顔を出していた。
決定的な矛盾。
事故で骨折し、包帯が巻かれていたはずなのに。
最早、全てが理解不能だった。
だが、脳梁の中に直接泥を注ぎ込まれるような気持ち悪さを感じかけたその時、閃きが走った。
『夢』。
つまり、これは『夢』か?
それは、大層いい思いつきだった。
一瞬にして、心に落ち着きが戻ってくる。
いや、とてつもなくリアルな夢だった。これまでに体験した覚えがない。これがいわゆる『明晰夢』ってやつか?
「ハハ…ハハハっ。なんだ、そういうことか」
いくら何でも、無理をしすぎたらしい。
ろくに空調も効いてない病室前のベンチで極限ともいえる精神状態の中何時間も座っていたせいか、一瞬目を瞑った拍子にまるでブレーカーが落ちるように意識がダウンし、つい眠りに落ちてしまったんだよし辻褄が合ったっっ!!
学のない俺だが、こういう際の対処法は幸いにしてよく心得ていた。
きわめて冷静に利き腕の左手を上げかけ、ふと思いついたようにそれを下ろし、あえて反対の指で自らの頬をつまんだ。
驚いたことに、触れた二つの指と頬っぺたには確かな感触があった。
しかし、悪夢よ。ここまでだ――!
俺は秒読みもなしに、自分でもちょっとびっくりするくらい勢いよく頬をつねった。
その瞬間、幻に囚われていた俺の意識は一瞬にして現実へと舞い戻り――
「痛づああああああああああぁぁぁァァッッッてぇッッ?!」
…はしなかった。
それどころか、あまりの激痛に大声で叫んでしまう。
涙目にふやけた俺の視界には、変わらず白い森の風景が映っていた。
「いっつつつ…あれ? なんで? なんで変わらない?」
思わず口走ったが、答えはもう明らかに示されていた。
夢じゃない。
つまり、ここは――『現実』だ。
「…嘘だろ?」
分かっても、そう簡単には受け入れられなかった。かと言って、もう一度頬をつねる気にもならない。心のあえぎが聞こえる。
これまで培ってきた常識という名の鎖が、目の前の現実を認めずに俺をその場に縛りつけていた。
だが、立ち往生しかけたその時、大切な声を思い出した。
『おにいちゃん…おにいちゃん…!』
そうだ、命依の元に戻らなきゃ。
命依の命は、もうあと幾ばくもしない内に尽きてしまう。
あいつを一人で逝かせるわけにはいかない。
ここがどこだろうと、立ち止まってる場合じゃないだろ!
再び冷静さを取り戻し、今一度周囲の状況を確かめてみた。
360度俺を取り囲んでいる木々達は、改めて見ると大きかった。どれも縄文杉か何かのように幹が太く、背丈も高い。そして、何より白っぽい。
雑草を生やした地面の土も同じ白みがかかったような模様をしていたが、触ってみて、それが雪や灰を被ったわけじゃなく地の色であるのが分かった。
奇妙だな、と思った。
白っぽい色合いとやたらでかい木のせいだけじゃない。
どこか全体として神秘的な感がある。
現実離れしたこの雰囲気は、少なくとも俺のよく知る日本国内の自然ではないように思えた。
「まさか、シベリア…とかじゃないよな?」
焦燥を抑えつつ、次に上を見る。
幾重にも覆い被さった枝と葉に遮られ、空はほとんど見えなかった。
しかし、合間を抜けて届く木漏れ日から、どうやら天気は晴れで今は朝か昼のようだと分かった。
(…昼!?)
病院は夜だったから、あれからここに来るまでにそれだけの時間が経過したということか!?
スッ、と血の気が引いた。
命依は、どうなった?
もし今が1月2日の朝なら、もう命依は…!
…落ち着け。まだ分からない。
とにかく、病院に戻るんだ。
まずは、この白い森から脱出する。周りをぐるりと囲まれていたが、どっちに進めばいいのかコンパスのあてはあった。
足早に、決めた方向に歩き出す。
分からないことだらけだが、別にいいさ。
大切なのは一つだけだ。
一刻も早く戻るんだ。命依の元へ!
*****
最愛の妹を求め、一人の兄が白き森の中を歩み始めた。
わずかばかりの恐怖と、固い決意をその胸に秘め――
だがこの時、彼は全く分かっていなかった。
己のいる場所が如何に異質な世界であるか。なぜ彼がそこにいるのか、その意味を。
そして、何より……ろくな考えも覚悟も持たず急いで歩き出した、その初動の致命的な浅はかさを。