生きると云う事
死を重んじる人を軽視する人に対して書きました。
私は死にたがり屋だ。何時も死ぬ事を考えている。だから、他人に嫌われる。然し、果たして其れは正しいのだろうか。死ぬ事を考えずして、生きるのは無為に等しいのではないか? 詰まり、よく云う処の、死に様が生き様なのだ。そうは考えないのか? 皆は何を思い、何に焦がれ、何に憔悴するのか。幾ら気取って見ても、生き方は変えられない。いや、変えてはならない。人は其々に偽り無く生きる権利を持っているのだ。途中、要らない知識を身に着け、路を踏み外す者も居るが、殆どの場合、生きる可くして生き、そして、死するのだ。生きる事を前提に考える者には解る筈も無いだろう。実際、最早友人とも云えなくなった女の子は、死に様など考えていなかった。死する可き時。絶対にやって来る時。其の時に、関係有る皆に囲まれ、笑顔で居られるのか。其れとも、一人で自嘲の俳句を謡いながら死ぬるのか。私には判らない。何方も一緒ではないのか? 光に照らされているか何うかだろう。闇夜でも、星の煌きや、月光は有る。其れは祝福ではないのか? 有れば在ったで構わないが、“次の世界”など無くとも好い。一生涯を掛けて何かを為せば好いだけだ。たった一つでも好い。誰かを、一瞬でも照らしたならば、其れは奇跡だ。人には限界が有る。だからこそ、何かを成し遂げる事が出来たならば、何時死を迎えようと後悔は無いのだ。供養など要らぬ。成仏などしてたまるか。ずっと居続けて、他人を見守る。たとえ、其れが地獄行きの切符になろうとも。閻魔なぞ、一撃で粉砕だ。小鬼を連れて地獄を平定する。そうして見せる。そう思うからこそ、今生きて居る事を誇りに思う。情けなくとも、恥ずかしくとも、他人の笑顔が見れる。其れは幸福ではないのか? 本当にそうなら、私は満足だ。自身は一人。ならば、一人を笑わせられたなら其れで好い筈だ。沢山の人を笑わせても、一人を笑わせても、違いなど無い。美しいじゃないか。たとえ、自身が傷つこうとも、誰かが笑顔に成って呉れるなら。私はそう信じているのだ。だからこそ、死を考える。死に様が生き様だと。後悔などしない。何時か出逢った愛を、私は忘れていないのだから。其の輝きに照らされた幸福を、絶対に忘れはしないのだから。凪ぐ水面に映える月。映る景色を遮るのは私の体。そして、行く。命の限り。死を迎えるまで。心の尽きるまで。もしも、見届けて呉れるなら、君に逢いに行くよ。
死を尊ぶのは生き様を重んじるからです。