犬を連れた老人
「もう十五歳だよ」
その老人は、寄り添うように座っている犬を撫でながら誇らしげに言った。
ただ、そう言った後に少しだけしんみりとした顔で言葉を続ける。
「こいつが先に逝くか、わしが先に逝くか…… 」
今日も老人と犬が夕方の散歩をしている。
後ろ手に持ったリードが描く弧は、常に一定の形を保っていた。
時折、トコトコと犬が先を行く。
そして立ち止まり、老人を振り返った。
老人の歩みは常にマイペースである。
それが八十年生きてきた重みである、と感じさせる風格を漂わせていた。
いつもの散歩コースには、一ヵ所だけ国道を渡るための信号機が付いた横断歩道がある。
ボタンを押さないと表示が切り変わらない信号機は、気の遠くなるほど時間を要した。そのため滅多にここを歩いて渡る人は居ない。
その日は、珍しくその横断歩道を自転車で渡る人がいた。老人と犬が横断歩道に近づく少し前に信号の表示が変わり、自転車の人はさっさと渡って行く。
そして歩行者用青信号が点滅を始めた時、老人は何歩か横断歩道に足を踏み入れていた。
ゆっくりと歩みを進める老人、それにぴたりと寄り添う犬。
彼らが横断歩道の半ばに差し掛かかったところで、歩行者信号が赤に変わった。程なくして、車両の信号機が青に変わる。
この状況を知ってか知らずか、老人はマイペースを保っている。まるでビデオ画像のスロー再生を見せられているような光景がそこにあった。
信号待ちをしていた車両に緊張の色が走る。
全てのドライバーが、行方を見守っていた。その場の空気がピリピリと痛いほど張り詰めてきている。
その時、後ろの車両の一台から〈ブッ!〉とクラクションの音が聞こえた。
ドライバーの何人かがルームミラーで後ろを伺う。この瞬間、単なる緊張の空気のなかに苛立ちの感情が刺さり込んだ。全ての光景が一瞬にして凍りついたように停止している。気がついたら、いままでしきりに鳴き続けていたヒバリまでがピタリと静まっていた。
その静止画のなかで、老人と犬だけが同じ歩幅で動いている。
ようやく彼らは横断歩道を渡り終えた。
全てのドライバーに安堵が戻るとともに、再び時間が動き始める。
無事に国道を渡り終えた犬は、少し眩しそうな目で老人を見あげながら、しっぽを盛んに振っていた。