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Episode IX

(さすがに悪いことしちゃったかな……)

 いささかの罪悪感を覚えながら、ライダーにとって忌まわしきサイン会場と化している、鹿ケ谷公園駐車場を通過すると、志智の眼前に広がったのはなだらかな下り坂だった。

「おっ……これ、すごいな」

 感嘆の言葉を漏らした理由は、その傾斜ではない。視界の果てまで続くのではと思われるほどの直線━━その距離だった。

(500メートル……いや、そんなもんじゃない。1km以上はあるんじゃないか、これ……)

 直線の終点からこちらへ進んでくる対向車が、まるで豆粒のようだ。

 羽田あたりの湾岸線か、あるいは常磐道でもなければ、なかなか見られない、超ロングストレート区間である。およそ志智の知っているワインディングというものとはかけ離れた光景だった。

「玲矢の……W800ならリミッターいっぱいまで出るんだろうな」

 スロットルを煽ろうとする右手を、意志の力で押さえつける。対向車線では不意に一台のハイビームが追い越しをかけた。

 そして、速度を増して、ぐんぐんこちらへ近づいてくる。一体何キロ出ているのだ。100、150? いや、そんなレベルではない。

「━━━━━━!!」

 すれ違う瞬間、轟々と空気が逆巻く。最新式のGSX-R1000が放出したエキゾーストノートは、主砲の一斉射にも似た猛烈な圧力で、志智の鼓膜を揺らした。

(200km……それ以上、出てるか? こんな山奥で……)

 冷たいものが背中を流れる。

 それでいて、胸の奥ではわくわくとする何かも踊っている。あんなスピードを、ここの場所では出せてしまうのか。大多磨周遊道路では、絶対に到達できない速度域まで、やすやすと手が伸びてしまうのが。

 それが━━この伊豆スカイラインという道なのか。

「ははっ……なんてところだよ……我慢するだけで大変だな」

 前方を進む玲矢は、何事もなかったかのように、時速50km少々を維持し続けている。

 それは志智にとって、甘い果実を目の前にぶら下げられても、黙として動かぬ修行僧のようにも見えた。


~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~


「ふわ~!! 危なかったねえ、志智くん!」

「そうだな……確かに危なかったな」

 超ロングストレート区間を抜けると、すぐに見えてきたのは亀石PAである。

 玲矢のW800がゆっくりと速度を落とし、そこに滑り込むのを確認した志智は、一人で先行していたらどうなっていたものかと、安堵の溜息をついてしまった。

 広大な駐車場には観光バスや一般車が多数停まっているが、それにもまして存在感を放っているのは、大量のモーターサイクルである。

「玲矢が追いついてこなかったら、このままずっと先まで行っていたかもな」

「ふえ? そうじゃないよ、志智くん。

 あそこでねずみ取りしてたでしょ! 結構有名なポイントなんだよ~。あたしが誘ったツーリングなのに、そのこと言い忘れちゃって……ほんと、気が気じゃなかったよ~」

「ああ……そ、そうか。そういえば、そうだったよな」

 はぐれる危険とスピード違反で捕まる危険。

 真逆どころではない思考のズレに、思わず志智は視線をそらした。

「いや、俺こそ悪かったよ。せっかく先導してもらっていたのに、いきなり前に出ちゃってさ」

「ううん。速い人がいたら、追いかけてみたくなるのは仕方ないよね。

 男の子ってそういうものだもんね。おとーさんが言ってたから、あたしは大丈夫だよ」

「玲矢のおやじさんは、ずいぶんバイクに理解があるんだな……」

「WもZも最初の頃から乗ってる自慢の父ですっ」

 えへん、と胸を反り返らせるそのふくらみは、千歳ほどではないにしても、志智が普段見慣れている金髪の誰かさんとは、明らかにボリュームが違う。

「で、でも、志智くんのこと先導するのは楽しかったよ」

「そうかな。気をつかわせていたら、どうしようかと思っていたけど」

「だ、だって、背中にすっごい視線感じたし……ああ、志智くんに見られてるんだなあ……って思うと。

 えへへ。なんだか、興奮しちゃいました。です」

「……まあ。他のバイク乗りに観察されてると思うと、ライディングにも気合いが入るよな」

「そういうことじゃなくて~……もう、志智くんったらぁ」

 ぐったりと肩を落として、玲矢はまるで責めるような瞳で志智を見る。

(そんな顔されても、な)

 彼女の真意について、思いを馳せることをあえて怠けつつ、三鳥栖志智はPA狭しと並ぶモーターサイクルの群れに視線を移した。

「それにしても、すごい数のバイクだな。いつもこうなのか?」

「うん。お天気のいい休日はこうだと思うよ。

 あたしは来たことないんだけど、伊豆は真冬でも走れるんだって。だから、一月とか二月でも結構いるみたい」

「へえ……冬でも走れるワインディングがあるんだな」

 例年、真冬は凍結で走れたものではない大多磨周遊道路しか知らなかった志智にとって、玲矢の言葉は驚きだった。

「……っと」

 本線の方向を眺めていると、見覚えのあるフォルムのバイクが走り抜けていった。もっとも、その速度はどこか控えめで、背中には悔しさがあふれているように見える。

「さっきのグラディウスか……」

「捕まったばっかりだと、アクセル開けるの怖いよね」

「へえ、玲矢でもスピード違反なんてするんだな」

「あはは……あ、あたしは初心者の頃にちょっとね。

 バイパスで前にだーれもしなかったから、思わず……そしたら、止まれっていう旗を持った人が出てきて……」

「……なるほどな」

 困ったように笑う玲矢。ゆっくりと走っているように見えても、彼女もやはりバイク乗りなのだと、志智は実感する。

「志智くんって、取り締まりに引っかかったことってないの?」

「ないよ」

「ふえ~……意外だなあ。

 一回も? 追いかけられたけど、逃げ切っちゃったとか、そういうこと?」

「逃げたりなんてしないよ……俺はバイトがバイク便だからさ。

 一緒に働いてる人たちから、取り締まりについては耳にタコができるくらい聞かされるんだ。

 危ない時はあったけど、捕まったことは一度もないよ」

「すごいなあ……」

「すごいって。たった今も捕まりかけたばかりじゃないか」

「でも、やっぱりすごいよ。

 志智くんって、なんていうか、観察力とか鋭そうだし。バイクに乗ってるとき、オーラっていうか……雰囲気がすごいし。

 他の人たちとは違う気がするなあ」

「………………ん」

 悪意が込められているわけではない。

 そんなことは自明であるというのに、玲矢の言葉に志智は反発にも近いものを覚えてしまう。

(なんでだろうな……)

 観察力が鋭そう、と言われている。オーラがある、と言われている。

 これは褒め言葉のはずだ。だというのに、なぜか喉元まで「俺の何を知っているんだ」という言葉がこみ上げてきている。

(バイクに乗っているときの……俺。その何を……玲矢は……)

 それを知っているのは。

 モーターサイクルを駆る三鳥栖志智という男を余すことなく知り、そして理解することができるのは━━

「……志智くん? 急に黙ってどうしたの?」

「いや、何でもないんだ。そろそろ行こうぜ。ここからはどんなルートを通るんだ?」

「あ、うん。えーっとね、ここから宇佐美……えっと、伊東の方におりて、ご飯なんだけど。ちょっと早いかな。ペースが速かったから」

「まだ十時半ってところか。

 昼時になると混むかもしれないし、食えるうちに食べておこうか」

「うんっ、そうしよ」

 にっこりと笑って、玲矢はW800のミラーにかけていた、ジェットヘルメットをかぶる。

 気負いのないその仕草。近所へコーヒーでも飲みに行くような、カジュアルさ。

(亞璃須とは違うよな……)

 志智はどうしても、その一挙手一投足を比較してしまう。

(……亞璃須のやつと、ここに来たら。どんな1日になるのかな)

 目の前に瀬尚玲矢がいるというのに、彼はそんなことを考えてしまう。


~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~


 伊豆スカイラインの中間地点にあたる亀石峠ICを降りて、左折すると県道19号線の急激なダウンヒルが待ち受けている。

(ここも……結構いいな)

 小気味のよいヘアピンが連続したかと思うと、不意に視界が開け、相模灘が見えた。

 一人で走っていたなら、三速全開にしていただろう志智の衝動をおさえるように、前方に光るのはW800のテールランプ。

 なめるようにリアブレーキを踏みながら、スピードをコントロールする玲矢の走りは、伊豆スカイラインの時よりも格段に安定しているように見える。

(意外と……下りの方が得意なのかな?)

 ヘアピンの手前でわざと車間をとり、なるべく高い速度で突っ込んでみる。それでもせいぜいが時速60km。だが、初めて走るすばらしい道で、バイクを倒しこむ感覚は楽しいの一言以外に表現しようがない。

(やっぱりいい道だ……)

 対向車線との間は、コンクリート壁で区切られていた。見れば暴走行為を戒める看板が何枚も立っている。

「こういうところは、バイクブームのころ、いろいろ凄かったんだって……祇園田おじさんが言ってたな」

 現代の目線でみれば、大げさにすぎる命の大切さを教える看板も、きっと当時では切実なものだったのだろう。

 重力に引っ張られ、いきおい速度はあがっていく。10分もかからずに、志智たちは亀石峠から海沿いの町である宇佐美へと至っていた。

 住宅が増え、観光客用ではない商店が散見されるようになると、ここには確かに歴史と産業が存在するのだと志智にも理解できる。

「……山のてっぺんから、もう海か」

 太陽の光を反射する青い海原。潮のにおいが風に混じるT字路を右折する。

 波とたわむれるサーファーの姿を、左手に眺めて楽しむ暇もなく、いくつかの信号を抜けた先でUターン。土産物屋の隣にある小さな食堂の前へ、玲矢はW800を止めた。

「とうちゃく~。お昼はここですっ」

「……個人経営の食堂、か。なんだか小さいところなんだな」

 外食といえば、ファーストフードかせいぜいチェーンのレストランという印象しかない志智にとって、そのたたずまいはあまりに地味で、すこし面食らうものだった。

「ふっふ~ん。志智くん、ここはね。とっておきの場所なんだよ?」

「そうなのか?」

「うんっ! ほら、入って入って」

「ああ……」

 がらがらと音が鳴る横開きのドアを開けると、玲矢に背中を押されて、志智は食堂に入った。

(うわっ……)

 まるで一般家庭のそれとしか思えない安っぽいテーブル。同レベルの椅子。

 壁の高い位置にはテレビが据え付けられており、ワイドショーを流していた。まばらな客はそれを眺めながら、もくもくと白飯をかきこんでいる。

「すごい……光景だな」

「へ? そう? 家庭的でいいと思うけど」

「まあ、家庭的と言えば、家庭的なのかもしれないけどさ……」

「いらっしゃい」

 愛想があるというより、近所の誰かに話しかけているような口調の中年女性が、注文を取りに来る。

「えっと、刺身定食をふたつ下さいっ」

「二人前食べるのか……すごいな」

「何言ってるの、もうっ。志智くんの分もだよ。ここはね! 刺身定食がおすすめなの! おいしいの! だから、勝手に頼んじゃいました! お値段、せんはちじゅうえん!」

「まあ、玲矢がそう言うなら構わないけど」

 やたらと自信ありげな玲矢に頷きつつも、実際のところ、志智は気が気ではない。

(ものすごくまずい飯が出てきたりしないだろうな……)

 一般家庭そのままの内装。狭苦しそうな厨房。汚いわけではないが、ぴかぴかに磨き上げられたフローリングの床でもない。もちろん絨毯も敷いていない。

 こんな場所で、どんなグルメが味わえるというのだろう。

(うまい飯っていうのは、もっとこう……清潔で……ぴかぴかで……しっかりしているところで食べるものじゃ……)

 厳格に管理された量産品を使って、統一された価格であるべきなのだと━━

「お待たせしました」

「……えっ」

 そして、志智の前に運ばれてきた膳には、予想以上のものが載せられていた。

「……玲矢」

「なに、志智くん? あ、いただきますだよね。手を合わせないとね」

「いや、そうじゃなくて。注文間違えてないか? これで本当に……あの値段なのか?」

「うん、そうだよ」

 志智の前には、まず白米があった。味噌汁があった。

 刺身定食というだけあって、もちろん魚の刺身も存在した。しかし、そのボリュームが想像以上だった。漬け物もちゃんと小皿に並んでいる。

(もしかして……)

 さらには小さな陶器。ふたを開けてみると、それは果たして茶碗蒸しだった。

「……これであの値段?」

「うん。結構あるでしょ!」

「食べてもいいか?」

「ちゃんといただきますしてね」

「ああ、いただきます……ん」

 赤白く透き通る刺身の一枚を口へ運んでみる。

 その味を志智は覚えている。たしか、これは━━鯛だ。決して安い魚ではない。

 いや、値段などどうでもいい。口の中でとろけるようだ。ただただ、うまい。それがこんなにたくさんあるとは、どういうことだ。

「……魚の刺身って、こんなにうまかったっけ……」

「おいしいでしょ? ねっ。ここはすごいんだから~」

 向かい合った先では、秘密の場所を教えてあげた子供のような笑顔で、玲矢が笑っている。

「ツーリング先で、こういう地元のすてきなお店に入って……それで、おいしいものを食べるって、いいよねっ」

「………………そうか。そうだよな」

 玲矢にとっては既知の楽しみ。そして、志智にとっては初めての驚き。

(……そう、か)

 自分では気づきもしなかった、胸の穴が埋まったような感覚。

(バイクって……ただ、走りにいくだけじゃなくて……行った先で、うまいものを食べるなんて……楽しみ方もあるんだな……)

 ああ、同じような初めては去年も教えてもらった。他でもない、日原院亞璃須が彼に教えてくれた。

「……キャンプの他にも、バイクの楽しみってあるんだな……」

「志智くん?」

「いや」

 ゆっくりと首を振ると、店内からやたらと興味ありげな視線が向けられているのがわかった。若い男女。それもモーターサイクル。あり得ない組み合わせではないが、珍しくはあるのだろう。

(そんなことはどうでもいい……)

 だが、志智にとって今、重要なのは他人ではなかった。

 玲矢だった。目の前にいる、自分の知らないことを教えてくれた彼女に対して、示さねばならない感情があった。

 だから、志智は彼女の目を見て、こう言った。

「ありがとうな、玲矢。こんな楽しみ方が……ツーリングがあるなんて、俺、はじめて知ったよ。

 本当にありがとう。教えてくれて……ありがとうな」

「………………し、志智くんっ」

 それは三鳥栖志智にとって、あくまで感謝の表明であり。

 それ以外の思いなど、微塵も混じってはいなかったとしても。

「そ、そんな……こと言われて……あのっ、熱く見つめられたら……あ、あたし……は、恥ずかしくて……爆発しちゃうかも……」

「………………爆発?」

「はぅああああああ~~~~~~!! よかったあ~……勇気出してツーリング誘ってよかったよぉ……!!」

 ━━そう、あくまで三鳥栖志智は瀬尚玲矢に感謝しているだけなのだとしても。

 恋する一人の乙女にとって、想い人から向けられる優しい微笑みは、超巨大爆弾にも匹敵する破壊力なのであった。


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