Episode VII
「へっへーん! どう? 志智くん、あたしのW800!」
「ふうん」
「ふ、ふうん……って。あう」
果たして、どんな驚きと賞賛の言葉を期待していたのか。
豊満といってよいサイズの胸を張りながら、ドヤ顔を見せていた瀬尚玲矢は、一転、がくりと肩を落とした。
「ううっ……そ、そうだよね……亞璃須さんとか、あんなに凄いバイク乗ってるもんね……志智くんはきっと見慣れてるんだよね……」
「いや、そういうことじゃなくてさ。本当に新車買ったんだな━━って、思ってさ」
唇を動かすことよりも、視線を巡らせる方が今の志智には大切だった。
なんのことはない『隣の一台』だと思っていたカワサキ製のバイクが、実は玲矢のものだという。それも昨日、納車された一台だという。
(そうなると、興味がわくよな……W800っていうくらいだから、800ccなんだろうな)
VT250スパーダに比べれば、巨大にも見える二気筒のエンジン。
もっともピストンの数はおなじでも、その形式はスパーダのV型に対して、W800は並列二気筒であり、エンジンの右側には見る者の目を引く特徴的な傘が一本立っている。
(これ、エンジンの部品なのかな……スパーダにはついてないよな)
ぴかぴかに光り輝くフェンダーやエキパイは、傷一つない。それでいて、どこかしっとりとした落ち着きを感じさせるのは、このマシンが最新技術や絶対的性能とは程遠いところを狙っているからだろう。
「ふうん」
そして、三鳥栖志智はもう一度、同じ呟きを繰り返した。
「いいんじゃないかな。このバイク……いいと思うよ」
「ほ、ほんとっ!? 変じゃないかな? 女の子が乗っててもおかしくない?」
「ああ、むしろ玲矢に似合ってると思うよ」
「やったー!! うれしいっ! ありがとう志智くん!」
感激に頬を紅潮させながら、玲矢は志智の手を握りしめる。それどころか、ぶんぶんと上下に振って、おさまらない喜びを表現する。
なぜこんなに玲矢が嬉しそうなのか、志智にはわからなかったが、とりあえず頷きかえしておいた。
「本当によかったあ……志智くんに変だって言われたら、このバイクがかわいそうだもん」
「人からどう見えるかなんて、関係なくないか? バイクなんて乗っちゃえば同じだろ」
「志智くんはそれでいいけど、あたしは気にするんですっ」
「そうか。女はいろいろ大変なんだな」
「ううっ……わ、わかってないよぉ……で、でも似合うって言ってもらえたからいいや……えへへ……」
ほっぺたを両手で包みながら、ニヤニヤと笑いをこらえる玲矢。
やはり新車というのは、嬉しくてたまらないものなのだなと志智は思いつつ、不意に吹き付けた海風に目を細めた。
「この道はさ、景色がいいよな」
「あ、うん。あのね、そこ上がると砂浜があるの! ちょっと見ていく?」
「それもいいけど、どうせ海を見るならバイクで走りながらがいいな」
「し、志智くんがそう言うなら、あたしも……バイクから見た方がいい……です」
「じゃあ、そろそろ行くか」
「う、うん」
ヘルメットを手に取り、VT250スパーダへ志智はまたがる。セルを回すと、聞き慣れたVTエンジンの鼓動が聞こえてくる。
「ん、しょ……」
対して、玲矢の仕草は初々しいと言ってもいいほど、ぎこちないものだった。
まるで、教習中のようにサイドスタンドを払ってから、よたよたとシートにまたがり、左右の揺れがおさまると、セルスイッチへ手を伸ばす。
「やっぱり重いのか?」
「あはは。エストレヤに比べると、ちょっとね……走り出しちゃえばそんなことないんだけど」
「この先は……箱根に行くんだよな?」
「あ、うん。そうだよ。箱根新道から県道20号線を通って……それで、伊豆スカイラインを走るの。
志智くんは初めてなんだよね?」
「ああ。こっちの方は初めて来るな……」
「そうなんだ……バイク乗ってるのに箱根と伊豆に行ったことないって意外だなあ……じゃ! あたしが先導するから、ついてきてね!!」
「ああ、わかった。大型だからって、飛ばして置いてきぼりにしないでくれよ」
「慣らし中にそんなことできないよ~」
困ったように笑う玲矢の表情がよく見えるのは、彼女のヘルメットがジェットタイプだからだった。もっとも、それにしては顎周りを覆うようにリング上のパーツがついているのが珍しい。
(S……Chu……しゅ、べ……これ、なんて読むんだ? ヨーロッパのメーカーかな?)
志智がヘルメットのロゴを読み解きかねている間に、シュキュとW800のセルモーターが回った。
続いて聞こえてきたエンジン音はびっくりするほど静かなものだった。それでいて、伝わってくる音の圧力は大排気量特有のものだ。
(どっしりしているって言うか……亞璃須のXR650Rとはまたちょっと違うよな)
一気筒あたり400cc分の低音が、クラシカルなキャブトンマフラーから大気に放出されていく。
「出てもいい?_」と訊ねるように、玲矢が視線を投げる。志智は無言でただ頷く。
薄手の革手袋に覆われた、玲矢の左手がゆっくりとクラッチをつなぐ。限りなくアイドリングに近い回転数で、W800の車体はするすると前へ進み始めた。
「ふうん」
三度目の呟き。
およそ後ろ姿をみれば、ライダーの全てはわかると言ってもいい。
W800を駆る玲矢の後ろ姿は、どこかぎこちないものを感じさせた。肩には不要な力が入っているし、背中にはひどい緊張が見てとれる。
(でも……)
大型バイクとしては、どちらかといえばコンパクトな部類に属するカワサキ・W800。
(うん……やっぱり、なんか似合ってるよな……)
そのサイズも。そのフォルムも。
「……いいんじゃないかな」
瀬尚玲矢という一人の女性ライダーには、よくマッチしているように思えるのだった。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
海岸線を小田原へむけて伸びる西湘バイパスは、素晴らしい景観と共に、飛ばそうとすればいくらでも飛ばせるような直線にも恵まれた道路である。
(だからと言っても……慣らし中だしな)
制限速度ぴったりの70kmで走るW800の後方やや右に、志智のVT250スパーダは位置している。海風は車体を押し流すほどではないにせよ、それなりに強い。しかし、軽量なスパーダに比べると、W800は安定しているように見えた。
「やっぱり横風には重い方が強いのかな……」
刹那、後方から甲高い排気音。弾丸のように追い越し車線を駆け抜けていくYZF-R6。玲矢の肩がびくりと震えた。わずかに挙動を乱しつつも、W800はすぐに元の巡航に戻る。
(あるある……いきなり大きな音がすると、びっくりするよな)
ミラーを見れば、いくつかのハイビームが大きくなってくる。猛烈なスピードで何台もの大型バイクが志智達を追い越していく。
(何キロ出てるんだろうな……150か200か……大型って、やっぱりああいう走りがしたくなるものなのかな?)
玲矢のマシンにも同じことができるのだろうか━━なぜなら大型バイクなのだから。
そんなことを思いながら、志智は追い越されるたび微かに車体を揺らす、W800のテールランプを見つめ続けていた。
西湘バイパスの終点から、箱根新道へ向かおうとすると、志智たちはセメントで固めたように動かない渋滞に遭遇した。
(なんだ……?)
どうやらここは小田原厚木道路からの合流部分にあたるらしい。それで交通が集中しているのかと思ったものの、これほど詰まっているのは異常だった。
(ひょっとして事故とか……おっと)
そのとき、玲矢のW800がゆっくりとすり抜けを始める。程なくして、左右の分岐が現れた。右側だけがガラ空きである。
(箱根新道……俺たちが行くのはこっちか。とすると、あの混雑はなんだろうな……)
貸し切りの空間へ向かう玲矢のあとに続きながら、志智は渋滞の原因を探す。
すると、箱根の山をのぼる方向の一般道に、あふれかえるような車列が見えた。青信号なのに、まったく前に進んでいない。どうやらあの渋滞は、有料道路を降りようとしてもなかなか出られない車が詰まってしまったものらしい。
「うげっ……休日の箱根ってこんなに混むんだな……」
これほどの混雑を知りながら、なぜわざわざ身動きの取れない車でやってくるのか━━今の志智には理解できない。
西湘バイパスと変わらぬ70km巡航で短いトンネルを抜けると、建設途中の高架道路が見える。きっとあの渋滞を解消するためのものなのだろう。
さらに進むと、まるで休憩所のように開けた路肩が見えたが、その入り口はガードレールで閉ざされている。
かつて存在した料金所とパーキングエリアの跡地であることを知らぬ志智にとっては、まったく用途のわからぬスペースである。
「……おっと」
━━そして。
その先にあるものこそが、箱根の山だった。
(なるほどな……急な登りだ)
箱根新道。
実に半世紀以上の歴史を持つこの道路は、『天下の険』と称された箱根の山を越えるルートとして最短でありつつも、決して安楽な道程とは言えない。
気の遠くなるような直線をひたすら登り、登り、さらに登る。
コーナーもまた水平ではなかった。気を抜くと、すぐに勾配に負けて速度がさがってくる。VT250スパーダのギアを4速にキープ。
須雲川インターチェンジを抜け、大きく右へカーブしながら、志智たちは一本の橋を渡った。
それは、山から山に渡る谷へかかる橋だった。ゆずり合い区間があらわれ、二車線になったタイミングで、W800とVT250スパーダはトラックを追い越す。
(……すごいな)
現れたのは、三つのヘアピンコーナー。本来は七曲がりと称される区間を、たった三つでバイパスするだけに、とにかく勾配が厳しい。
だが、ほとんどの者にとっては難所とされるこのコーナーも、志智にとっては別の色で見えるのだ。
(ここ……全開で突っ込んだら凄そうだな……)
先頭を行く玲矢のW800が慣らし中でなければ、たまらず前に出ていたかもしれない。それほど志智にとっては、魅力的な区間だった。
箱根新道の三曲がりを抜けると、ふたたびゆずり合い区間が現れ、車線が増える。そんなに前が詰まるのだろうかと志智が思った瞬間、前方にのろのろとした渋滞が現れる。
「なるほど……こういうことか」
高速道路ならば、スピードリミッターいっぱいの速度で走れるであろう、巨大な重機を積んだトレーラー。だが、この急勾配を進む車列のあとに並んでみれば、わずか15kmしか出ていない。
(山って……すごいな)
じりじりとにじり寄るように、長い直線区間を十数台もの車輌がつらなって進む。
刹那、赤いドゥカティがそれらをまとめてごぼう抜きにしていった。圧倒的な加速性能が志智には羨ましかった。
(まあ……慌てずに行くか)
焦れる気持ちを抑えきれない志智に対して、玲矢の背中は渋滞にむしろほっと一息ついているようだった。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
箱根新道を登り切った先の信号で、玲矢のW800は左へ曲がる。
「へえ……この辺の景色はすごいな」
振り向くと、富士山が見えた。残暑の雲にかすんでいるとはいえ、その雄大さは志智の心に確かな感動を運んでくる。
どうやら、ここから国道から県道に変わったらしく、舗装はすこし荒れ模様だった。勾配も登り一辺倒の箱根新道とは打って変わって、下り傾斜になったかと思うと、ほぼ水平に戻る。
(観光地だけあって……いろいろあるんだな)
右に大きな建物が見える。それが古い時代にドライブインと呼ばれた類いの施設であることを、若い志智が知るはずもなかった。
きっと食事や買い物ができるのだろう。そんな程度の認識以上に何が持てるだろうか。
左には二つの分岐。どちらも有料道路らしい。
(ターンパイクにパークウェイ……やっぱり観光地なんだな)
玲矢のW800は直進していく。急に左右へ緑が増えたように思えた。のたうつようなカーブが増え、前方を進む車の速度も落ちていく。
「もう少しスムーズに走りたいけど……初めての場所だし、玲矢は慣らし中だからこんなものかな……」
イライラとは方向性の違う、どこか微笑ましい焦燥感。
ひた走ること、およそ10分間。十国峠を抜け、左折すると、ようやく伊豆スカイラインの料金所が見えてきた。
「ふたりぶんー!! 一緒に買っちゃうからねー!」
先に並んだ玲矢が振り向いて、大きな声でそう言った。
伊豆スカイライン。
ライダーならば、誰でも知っているといっても過言ではないこの道路に、志智は今日までまったく興味をもったことがなかった。
(周遊じゃないなら……別にいいさ)
大多磨周遊道路を走るときほど、楽しい道ではないだろう。
何の根拠もなく、そう思い込んでいた。
「……うっ」
しかし、ほんの1kmも走らないうちに、その思い込みは揺らぐことになる。
(ここ……すごい、な……)
たとえば、そのカーブ。
周遊ほどテクニカルではなかった。しかし、圧倒的にダイナミックだった。
(いや……これ、何キロでいけるんだ……おいおい……)
先行するのが瀬尚玲矢でなかったなら、慣らし中のW800でなかったのなら。
「ふ……ふふっ」
三鳥栖志智はとりあえず三桁の速度で突っ込んでみただろう。
それでも十分に曲がれる。いや、もっといける。それが一目で分かる超高速コーナーが無尽蔵に連なっているからだ。
対向車すらも恐れることはない。曲がった先、そのさらに先まで見渡せることもある。
山々の尾根を走るようなこの伊豆スカイラインでは、左右に相模湾と駿河湾の双方を臨むことすら出来るのだ。
(こんな場所……ゆっくり走れっていう方が残酷だろ……)
口元が緩む。ああ、こんなに甘い蜜があると知らなければよかったのに。一度知ってしまったのなら、味わわずにいられるものか。
「バイクに乗っていれば……さ」
それは、大多磨周遊道路だけが、最上のワインディングロードではない、と。
三鳥栖志智が初めて知った、その瞬間だった。