Episode VI
ライダーには『乗れている日』というものがある。
(今日は……いいな)
タンクの下で規則正しく鼓動を刻むピストンの動きがわかる。路面の凹凸をしなやかにいなすサスペンションの運動が伝わる。
ブレーキレバーを握れば、ピストンがパッドをディスクへ押しつけているのが、直接指でつまんでいるように分かってしまう。
そう、まるで鉄とアルミで出来ているマシンのすべてに、自らの血が通っているかのように。
「うん……今のは、いい」
コーナリングの刹那。志智の中で何かが一致した。
それは限界に程遠いスピード。膝をするほどのバンク角でもない。
「今のは良かったよな……うん」
まるでパズルのピースがぴったりとはまったかのように。
脳内に思い描いたコーナリングと、今、現に為したそれとが完璧に一致した……たとえようもない快感が一人のバイク乗りに押し寄せてくる。
「ふふふ……いい。良かったな、あれは……」
━━そんな快感に口元をゆるめつつ。
「何を戻ってくるなりニヤニヤと笑っているんですか、気持ち悪い」
「いや、ちょっとな」
川野駐車場の一角へVT250スパーダを停車させた三鳥栖志智に、日原院亞璃須は眉をひそめていた。
「それにしても今日は蒸しますわねえ」
「ここは標高があんまり高くないからな。上の方は涼しかったけど」
「でも、上はのんびりする場所ではありませんしね」
ティーセットを前に、憂鬱なため息をつく亞璃須は、高校生だった頃と変わらないゴシックロリータ姿だった。30分ほど前までVT250スパーダと一緒に駆け抜けていた愛機・XR650Rは、彼女の傍らで未だ冷え切らない熱を、シリンダーから放ち続けている。
「少しは暑さもやわらいで来ましたけれど、まだまだ夏ですわね」
「まあ、あと一月もすれば涼しくなってくるさ。一番気持ちいい季節だろ?」
「どうでしょうね。大多磨の紅葉は早いですもの。意外と今が、最良の時間かもしれませんわよ?」
「そんなものかな」
東京都の外れ━━大多磨周遊道路。
彼と彼女は今日もそこにいた。
夏休みというものを満喫できる最後の四年間。その始まりだというのに、志智は旅行にもいかなければ、ライダーの聖地である北海道を巡礼することもなかった。
「結局、こうやって周遊を走り回って夏が終わるなんて。もうちょっとドラマチックに……まったく志智ったら……」
「そう腐るなよ。バイトも忙しかったし、こっちは生活があるんだからさ」
「生活なんて、今すぐわたくしと志智が結婚すれば何の問題もありませんわ。
何なら明日から……来ます?」
「来ます? じゃないだろ。生活苦でもらわれていくって、一体いつの時代だよ」
しかも男の方が、と心の中で付け加えながら、志智は終わりゆこうとしている八月の空を見上げた。
(夏か……そういえば、去年は亞璃須たちとキャンプに行ったんだよな……)
テント泊の開放感。大多磨とはまた違った、空気の爽やかさ。
(……それに)
あの夜、志智と亞璃須は━━ささやかではあるが、一線を。
「そうか、もう一年経ったんだな……進歩ないな……」
「何の進歩です?」
「い、いや、バイクの腕がってことさ」
暑さだけのせいではない熱を頬の隅に感じながら、あわてて志智は顔を背けた。
「マダマダ、亞璃須さんには、カナイマセンヨ」
「白々しい……志智ったら、わたくしに何か隠し事をしていますわね」
「隠すって言うほどのことはないけどさ」
そう言いながら、志智の脳裏にはある女性の顔が浮かんでいる。
『し、志智くんと一緒に……あの、二人っきりでツーリングに行きたいんだけど……ダメ、かな?』
その時、瀬尚玲矢がみせた表情は。
(……あそこでノーって言えたら、楽だったんだけどな)
何が志智を立ち止まらせたのか。少なくとも『二人きり』という部分については、否定するべきだったのに。
なぜ志智は言ってしまったのか。
(ああ、いいよ……なんて、さ)
浮気━━そんな単語が脳をプレスするように、押し寄せてくる。
「……あのな。一応、はっきりさせておくが」
「は? 何をです?」
「俺は生涯一緒にバイクで走り続けるならお前しかいないと思っているし、俺がうまくなっても亞璃須なら同じレベルまでついてきてくれると確信してるからな」
「な、なんです!? 志智ったら、いきなり……えっと、プロポーズ!? そういうことでいいんですね!?」
「飛躍するな! っ……こんなところで抱きつくな、バカ! あくまでバイクの話だ、バイクの話!」
ピンク色の声をあげながら、胸に飛び込んでくる亞璃須を引きはがしつつ、志智は一体どうやって収集をつけたものだろうと、頭を抱えたい気分だった。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
翌日のこと。
「おにいちゃん、今夜はお魚とお肉どっちがいいかな?
それとも奮発しておうなぎにしよっか? 今年は安くなったんだよ~」
「………………」
「おにいちゃん? わたしの顔に何かついてる?」
「……やっぱり似てるな……」
晴れ予報から一転、降りしきる雨にふてくされていた志智だったが、妹の千歳は兄が出かけないことが嬉しくて仕方ないようだった。
「似てるって? なにが?」
「いや、何でもない。今日は朝からごきげんだな、千歳」
「だって、おにいちゃんが朝から晩まで家にいるんだもん。こんなに嬉しいことはないよ~」
天使のような、あるいは聖母のような笑顔で頬を染める千歳。くるりと背を向けると、エプロンが揺れ、肉付きのいいヒップのラインがよく見えた。
(似てる……間違いなく……)
「ふんふーん♪ おにいちゃんふんふふーん♪」
よく育った胸元を揺らしながら、掃除機をかける横顔を眺めながら、志智はその感慨の正体を探ろうとする。
(何が似てるんだろうな……顔は……違うんだよな……どっちも可愛いって言えば可愛いんだろうけど……まあ、千歳が世界一かわいいよな……当然さ……)
明日で終わってしまう夏休み最後の一日に、何もしない兄と。
そんな兄に見つめられながら、幸せそうに火事をこなす妹が、狭い一つ屋根の下にいる。
「背丈は……そうでもないか……女の子にしてはまあまあ、ある方だけどさ……」
冷蔵庫に貼り付けられた簡易身長計。150cm-160cm-170cmと書かれただけの磁石シールに過ぎないが、右へ左へ行き来する千歳の身長は、その半ばより少し上といったところだ。
「う~ん……参ったな」
「おにいちゃん、なんだか今日はいっぱい悩んでるね」
「まあな。この悩みを誰かに相談できたら、どんなにいいかと思っているよ」
「えへへ、わたしはいつ相談してもらってもおっけーだよ」
「そうだな……それができたらいいんだけどな。千歳にだけはちょっと相談できない悩みなんだ……」
「わたしにだけは相談できない、おにいちゃんの悩み……」
時計の針がチクタクと動くように。
小首をかしげた千歳の頭が揺れ、栗色の髪もまた左右に軌跡を描く。
「……ぽっ。そ、そうだよね……おにいちゃんもプライベートとかあるもんね。
わたし、お買い物行ってくるね!」
「いや、ちょっと待て、千歳……おいっ」
「二時間かかるから! ぴったり二時間は何しても誰も見てないからね! いってきまーす!」
「………………い、いってらっしゃい」
ひどく理不尽な誤解を与えてしまったのではないかと後悔しつつも、三鳥栖志智は買い物袋を手に出ていく千歳へ手を振るのだった。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
翌週、日曜日の朝。
子供たちが楽しみにしている番組が始まろうかというその頃。
(今日は晴れたな……それにしても、地図では結構離れてるのに、走ってみると近いもんだな……)
ヘルメットシールドの向こうには、日光にキラキラと反射する青い海面が見える。
砂浜へ打ち付ける波は規則正しく、そして穏やかだった。海と陸が接する地点がコンクリートで護岸されていない光景は、志智にとって新鮮なものである。
(いつも見る海って、東京湾だからな。それも夜ばっかりだし)
じんわりとにじむ汗。それでも耐えがたいほどではない。夏はじわじわと去りつつあり、秋の気配が確かに潮風へ混じっていた。
「……しかし、みんな飛ばすな。ここ70km制限だろ?」
追い越し車線をいきおいよく飛んでいく大きな尻のドイツ車がみえたと思うと、それを追いかけて古めかしいカタナ1100が空気を切り裂いていく。
だが、ここは東名高速道路ではなかった。湘南よりも少し西。相模湾沿いに、小田原までの区間をつなぐ西湘バイパスを、志智のVT250スパーダはひた走っている。
「ずっとまっすぐだし、混んでるわけじゃないし……道路としてはあんまり面白くない、よな」
はじめて走る道路では全開にしない。
なにも大人じみた分別を身につけているのではなく、バイク便のアルバイトで先輩たちから、何度となく聞いた鉄則だった。
(走りやすい道路ほど……張っているってな。ほらいた)
見れば、一台の大型バイクが白馬の王子に捕捉されている。もっとも、王子と呼ぶにはその警察官は中年に過ぎ、そしてあわれな子羊は白髪交じりの頭をしている。
「ああいうふうになったら、せっかくの休日も……たまらないよな」
やはり、飛ばすならいつもの場所に限る、と。
メーター読み90kmをぴったりと維持しつつ、VT250スパーダは料金所を一つ抜け、しばらく先に見えてきたパーキングエリアに滑り込んだ。
「西湘パーキング……待ち合わせはここでいいんだよな?」
バイク用スペースからはみださんばかりのハーレーや、BMWのツアラー勢に遠慮したわけではないものの、志智はやや端の方にスパーダを停車させた。
(まあ、この辺りの方が見つけやすいだろうからな……)
隣にはトラッドなフォルムのカワサキ車がとまっている。
(これじゃないんだよ……こっち系統なんだけどさ……)
ヘルメットを取りながら、志智は待ち合わせの相手を探していた。堤防の方向をみるでもなく。イートスペースの方向をみるでもない。
彼は並んで停まっているバイクを見る。彼女が来ているなら、その車種が停まっているはずだからだ。
それは空冷エンジンで。250ccで。古めかしさと共に、どこか可愛らしさも感じさせるキャブトンマフラーが一本ついているはずだった。
「いない、か。俺の方が早くついたかな?」
スパーダのセパレートハンドルにくくりつけた安物の腕時計をみると、約束の時間は2分ほど過ぎていた。
「となると、厚木あたりの渋滞で遅れてるとか━━」
「志智くんっ!!」
背中から届いたその声は、唐突で意外なものだった。
「……玲矢か。もう来ていたんだな」
「えへへ、志智くん。おはようございます! ツーリング日和だね!
ひょっとして、あたしのエストレヤ探してた?」
「ああ、先に来てるならバイクが停まってるはずだからな……って」
振り向いた志智が見た瀬尚玲矢は、紛れもなくバイクに乗る者の服装をしていた。
この季節には少し暑そうな、しかしセンスのいいレザーの装備。そんな彼女はスパーダの隣にもともと停まっていた、一台のカワサキ車のハンドルに手を掛けている。
「じゃじゃーん!!」
そして、彼女は満面の笑みをさらに超えた笑顔で。
「これね、あたしのバイクだよ! W800! 昨日、納車されたばっかりなんだ!!」
バイク乗りが一生に何度かしか見せない、おろし立ての愛車を紹介する時の表情で、瀬尚玲矢は笑うのだった。