Episode I
東京都に入り口というものがあるとすれば、それはどこだろうか。
(ここはいつも混んでるんだよな……)
亀が座り込んだように、ほとんど動かない車列をすり抜けつつ、国道16号線を走る三鳥栖志智の目に見えてくるのは、八王子ICの表示だった。
そう、おそらく西の地からみるならば、この場所からが東京都と言えるのだろう。
料金制度もそれを肯定するように、中央高速の八王子~高井戸間は均一料金となっている。
土日の朝ともなれば、東西どちらの方向にも渋滞が伸び、南北を貫く国道16号線もまた、無数の車両であふれかえる。
「えっと、あの回転寿司のところを曲がるんだよな……」
淡々と1300rpmのリズムをふたつの気筒が刻みづけるなか、じわじわと水温計の針が右側へ動いていく。
もとより冷却には余裕のある250cc。そして、VTエンジンといえども、都内の渋滞は決して楽なコンディションではない。
「まるで風が当たらないからな……」
アスファルトから、シリンダブロックからのぼってくる熱を首筋で感じながら、志智は右折のタイミングをうかがう。
対向の車列は嫌がらせのように途切れない。いけるだろうか━━という程の間隔があいたかと思うと、妙に飛ばした一台が現れる。
「ちっ」
大都市の交通とはこういうものだと分かっていても、若さがいらだちを運んでくる。
もっとも、晴れて初心者期間を終えた志智である。感情の乱れをそのまま行動に移さない程度の分別はつくようになっていた。
(前は結構あぶないタイミングでも、行っちゃってたからな……)
それを改めたのはいつだろうか。
中年女性の運転する軽自動車に、右直でぶつけられそうになってからだろうか。
あるいは、事故直後と思われるひしゃげたスクーターと、ぐったり動かない半ヘルのライダーを見たからだろうか。
(どっちにしても、さ)
結局、信号が赤に変わるまで、志智は待ち続けた。
(こんなところで事故るなんて……ばかばかしいにも程があるよ……な)
それでも過密・慢性渋滞を前提して設計された東京の信号システムは、志智に対して緑色の矢印で猶予を与える。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
「ごきげんよう、志智」
「なんだよ、別に来なくていいって言ったじゃないか」
冷却ファンが回り出すギリギリのタイミングで、VT250スパーダが目的地へ到着すると、一人の少女が彼を待っていた。
見慣れた小柄な体格。見慣れた金髪。そして、見慣れた平坦な上半身。
とはいえ、今日の彼女は服装だけが見慣れない。
「お前……なんていうか、今日は地味だな。
バイクもXRじゃないのか」
「今日はただの付き添いですものね。
ツーリング用の装備というわけにもいきませんし、まっ、あまり似合いのデニムでないのは否定しませんわ」
おそらく勝手に借りてきたのであろう、弟の所有物であるホンダ・グロムにもたれかかりながら、少女は笑う。
その姿はいかにも街乗り、といった軽装で、見も鮮やかなゴシックロリータでもなければ、大多磨周遊道路でいつも目にしているレーシングスーツでもない。
もちろん、三月まで着ていた高校の制服でもなかった。
「ふーん……でも、ちゃんとブーツなんだな。
プロテクターも入ってるみたいだし」
「見とれています? 志智ったら、見とれてしまっています?
まっ、わたくしは何を着ても似合いますから、問題ないですけれど」
「……言ってろ言ってろ」
「ふふふ」
くるりと一回りするだけで、辺りにきらきらしたものをまき散らす金髪。そして、左右で色が違うオッドアイ。
学生になってもまるで衰えることを知らない、自信と自負にあふれた表情で、日原院亞璃須はにんまりと笑う。
「それにしても小さな教習所ですわねえ。
コースも大したことなさそうですし……一周が鈴鹿くらいあるところを選べば良かったですのに」
「鈴鹿サーキットって何キロあるんだよ。
教習所なんてどこもこんなもんだろう? そもそも、アメリカで免許とってたお前が、なんで俺の付き添いで来るんだよ」
「それはまあ、志智のフィアンセとして当然」
「誰がフィアンセだ」
「じゃあ、熱愛中の恋人」
「……それも余計な形容がついてるから却下だ」
「それなら内縁の妻?」
「お前、意味わかってて言ってるか?」
あきれた声で肩をすくめる志智に、亞璃須はくすくすと笑いながら、グロムのシートにほっそりしたヒップをあずけた。
「何でもいいんです。
志智のすることは、出来るだけわたくしも知っておきたいだけ」
「……それならいい」
「あと、日本の教習システムにも興味がありましたし。
聞けば、公道でなんの役にもたたない、ほーきそーこーとか言うのに重点を置いてるのでしょう?
まったく、そんなだから渋滞がなくなりませんのに」
「それは否定しないけど、四輪がおとなしく走ってくれる方が、バイクはその……なんていうか、いろいろやりやすいけどな」
特に気負うこともなければ、緊張を見せることもなく。
まるでしばらくぶりに、なじみの店を訊ねるときのような軽い足取りで。
三鳥栖志智と日原院亞璃須は、その建物に━━八王子ドライバーズスクールに足を踏み入れる。
「……大型バイクの第一歩、かな」
それでも志智のつぶやきには、わずかな高揚感があった。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
「そろそろ志智も大型をとるべきですわ」
時系列はややさかのぼる。
まだ、ゴールデンウィークの前。志智と亞璃須が学生生活に慣れ、そして二人の妹と弟が、やっと高校二年生らしい顔つきになってきた頃のこと。
八王子駅にほど近い、ファーストフード店の四人がけ席に、彼らの姿はあった。
「は? 大型だって? 俺はトラック運転するつもりはないぞ」
「……なんでそっちの大型になるんです。
バイク乗りが大型といったら、大型二輪のことに決まっているでしょう」
「なんだバイクの方か」
「あ、おにいちゃん、ケチャップついてるよ」
言われてみれば、という納得顔で志智がうなずくと、彼の妹である千歳の指が伸びる。
志智の口元についた赤い液体をぬぐったその指は、そのまま可憐な唇へおさまった。
「ん~、おいしい♪」
「千歳、そんなにケチャップが好きだったか? もっともらってきてやろうか?」
「ん~ん、だいじょうぶだよ~。おにいちゃんのケチャップが好きなだけ♪」
「ぐぬぬぬぬぬ」
「うううううう」
「……お前らは何うなってるんだよ」
ごくごく日常的な三鳥栖兄妹のやりとりに、向かいに座った金髪オッドアイの姉弟はくやしそうなうなり声をあげた。
「危ないですわ……志智が卒業したからって、まったく油断できませんでしたわ……」
「千歳ちゃんの心にはいつも別の人がいるんだね……しくしく」
「亞璃須、それにティック。なにぼそぼそ言ってるんだよ」
「ほっといてください」
「あっ。ああ、いえその」
不満げに頬を膨らませる姉に対して。
彼女の弟━━つまり、三鳥栖千歳と同級生である少年、日原院ティックはとりつくろうように手を振った。
「お、おにいさんが大型免許とるなんてすごいなー、って。
わー、あこがれちゃうなー。僕も取ろうかなー。ね、ねえ、千歳ちゃんはどう思う?」
「え? わたしは別に何でもいいと思うよ~」
「……あう」
「白々しいやつめ……」
興味なさげな千歳の反応に、がっくりと肩を落とすティック。
「そ、そんな白々しいだなんて。
僕はこれでもお義兄さんにあこがれていて、その、少しでも近づきたいな、って」
「ああ、そうか。それは結構だな。
ところで……その『お義兄さん』ってのは何だ? またキツいお仕置きが必要か?」
「ひぃっ!? そ、そんな!?」
あらゆる女性が、どうしようもなく保護欲をそそられるであろう涙目で、金髪の美少年は許しを請う。
「ゆ、ゆるしてくださいよ。何でもしますから」
「……これでも一応、俺と同じ長男なんだから、分からないもんだな」
恥も外聞もない、というよりは特殊な趣味の男を駆り立ててしまいそうな雰囲気をかもし出しているティックを見ていると、志智には性別というものがよくわからなくなる。
(いや……そうだな。こいつが女なら、むしろ何もかも解決だった……)
本来ならば、志智にとっては後輩であり、日原院亞璃須という特別な存在の弟として、すこしは可愛がるつもりにもなろうかというティックであるが。
(こいつが男だから……千歳に妙な気を……!)
親しみをこめた『お義兄さん』という呼称すらも許さないのは、つまるところ志智にとって最愛の妹である千歳に、彼が熱烈な恋心を抱いているからだ。
「まあ、長男だからといって後を継ぐと決まってるわけでもありませんもの」
「そういうものなのか。じゃあ、お前が家を継ぐのか?
パーツメーカーとかやってるんだろ。お前の家って」
「わたくし? いえいえ、まさか」
にんまりと笑いながら亞璃須は意味ありげな視線を向ける。その答えについて考えようとせず、志智は顔を背けた。
「えへへ~。でも、嬉しいな」
まるでそうすることが当たり前であるかのように、隣に座った兄の肩へやわらかなほっぺたを預けながら、千歳は笑う。
「おにいちゃんたちが卒業しちゃって、寂しくなるかなあって思ってたけど、毎週こうやって集まれるなんて、すごく幸せ」
「そ、そうだよねえ! ああっ、千歳ちゃんはやっぱり天使だなあ……」
「……まあ、金曜日は時間があることが多いからな」
「楽しい楽しい週末、というわけですわ」
誰が言い出したわけでもなく、決めたわけでもなく。
何となく彼ら四人は、毎週金曜日の夕方にこのファーストフード店に集まっている。
志智にとっては、千歳が満足ならばそれでよく、
亞璃須にとっては、志智との時間であれば構わず、
ティックにとっては、千歳の顔が見られれば何でもよく、
千歳にとっては、去年まで昼ご飯を一緒に食べていた時間を思い出して、幸せになれるのだった。
「で、志智。どうなんです?」
「どうって何がだよ」
「大型免許ですわ。取るんですね? わたくしがすすめるんですからね」
「何でお前に言われたら取らなきゃならないのかは知らないけど……まあ、そうだな。
興味はあるけどな。加速とか凄いんだろうな……」
━━振り返ってみれば。
(亞璃須のXR650Rは当然として……あの『深紫のYZF-R1』も大型バイクだよな……)
もう1年近く前だというのに、その後ろ姿は。
そして、尋常でないブレーキングと加速力は、志智の心に強烈な印象を残している。
(大型バイクに乗れば、俺でもああいう走りができるのかな……?)
漠然とそんなことを思う。
けれど、大型バイクだからといって、何か決定的に変わるのだろうか、とも考える。
(バイクなんて、腕だって言うじゃないか。
そもそも、ただ加速が速いっていうなら……)
4気筒も2stも追いかけた。400ccのマシンと競ったことも、一度ではない。
そのいずれもが、VT250スパーダより加速力は勝っていた。
なにより、志智は日原院亞璃須という一流の技量を持ったライダーがあやつる、XR650Rの性能を知っている。
その爆発的な加速力を、しかし大型バイクだからといって、完全無欠ではないことも。
「………………まあ」
けれどあくまで━━それは実際に乗ったことのない自分の感覚だという事実も。
「春休みにずいぶん働いて、バイト代は結構入ったし……大型免許、取ってみるのも悪くないかな」
他人事のように呟きつつも、既に志智の心には。
(とにかく乗ってみたいよな……大型二輪)
そして、その性能を味わってみたいという期待感が芽生えていたのだった。
~~~~~~Motorcycle Diary~~~~~~
「さてと、手続きはこれで終わりか……あっさりしたもんだな」
念のためにと用意してきた住民票は、すでに免許証があるならいらないと言われ、写真撮影機までしっかり完備されている。
教習待ちのサロンには、フリードリンクコーナーがあり、係員の説明もやたらと丁寧で、まるでお客様になったような気分である。
(いたれりつくせり、ってのはこういうことかな……)
教習コースにあふれる二輪車を、なぜか腕組み仁王立ちで見つめている亞璃須の背中をながめつつ、志智は思った。
(でもまあ、教習所って結構経営とか厳しくて、ちょっと前にもこの辺りで一つ潰れたっていうもんな……印象よくしないといけないのかな)
そんなことを考えながら、所内を見て回っていた志智が、廊下の角を曲がったそのとき。
「……きゃっ!!」
「おっと」
胸元に重量感のある何かがぶつかった。志智はすぐにそれが人間の頭だということに気づく。
「いったぁ~!」
「悪いな、大丈夫か」
見下ろす先には、栗色の尻尾があった。
少女━━と言ってもぎりぎり通じるであろう、やや幼い顔立ちの女性が、額をおさえてぷるぷると震えている。
「い、いえっ、あたしも前を見てなかったですから……あっ」
「書類、落ちてるぜ」
足下に転がった数枚の紙を志智がひろうと、そこには顔写真や名前が記されている。
志智自身も先ほど同じものを渡されたばかりだった。
この後のオリエンテーションが終わったら、教習所へあずけることになってる個人用のファイルである。
「す、すいませんっ」
「いや、別に。それじゃ」
「あ、あのっ!」
足早に立ち去ろうとする志智を、ポニーテールの女性はどこか切羽詰まった声で呼び止めた。
「その格好……えっと、あなたも二輪の教習ですかっ?」
「ああ、今日入ったばかりだけど……大型二輪だよ」
「わっ、それじゃあこれからオリエンテーションですよね?
あたしも大型二輪なんです!!」
「へえ、そうなのか。じゃあ仲間ってわけだな」
志智はなんとなくそう口にしただけだった。特別な興味を目の前の彼女にもったわけでもなかった。
だが、栗色のポニーテールはやたらとうれしそうに揺れている。
「はいっ、おんなじ仲間ですねっ!
あたし、瀬尚玲矢っていいます。よろしくお願いしますね!!」
「………………あ、ああ」
その笑顔は、疑問を差し挟む余地なく、快活で。健全で。
「俺は三鳥栖志智だ。よろしく……って言えばいいのか?」
「はいっ!!」
どこか志智にとっては、戸惑いをもたらすほどのまぶしさだった。