鴨川にて
鴨川の河川敷を歩く二人に冬の冷たい風が吹きつける。香住はやりすぎなくらいコートを重ね、毛糸の分厚い手袋を着け、赤いマフラーに顔を半分うずめた。俺はその斜め後ろを付いて行き、薄いコートのポケットに手を突っ込んで、寒さから必死に意識をそらそうとした。
鴨川等間隔の法則。夜になるといくつもの男女のカップルが等間隔に腰掛けて愛を語り合う。普段なら見られるそんな光景も、さすがの寒さとあってか、まばらに点在する程度だった。
「ところで、夕靖。就活の方は順調なの?」
不意に彼女が口を開いた。
「ああ、まあな。それなりに上手くは行ってる」
それ以上話すつもりがない事を悟ったのか、彼女は無言でこちらに歩み寄ると髪をクシャクシャっとかき乱した。
「なんだよ」
「嘘を付くならもうちょっと計画性を持って、だよ。こんな髪の毛で就職活動なんてできるはずないでしょ」
「大抵の場合、成功するのは事実ですがね」
そう言うと彼女は小さく笑った。その笑顔が澄んだ空気の中に浮かぶ夜月に照らされ優美に見える。
「シャーロックホームズ、オレンジの種5つ、だな。まったくの名推理だ。そういや、ホームズなんかも昔は将来の事で悩んだりしたんだろうか?」
「悩める就活生らしい質問ね。シャーロックホームズ外伝、自己PR欄の謎を埋めろ。なんてね」
「まじめに、聞いてるんだがな」
「ごめん、ごめん」
二人の足取りは軽く、テンポの良い会話が続く。
周囲には桜の並木道が続き、遊歩道の左右にある整理された草木が、落ち着きのある景観を作り出す。
「ここは、本当に心地の良い場所だ」
「うん、犬の目線で見てもね」
「確かに。あんな車の行き交う街中じゃあ、ろくに散歩もできないしな。ここなら犬も気ままに走り回れる」
「でもね、リードを持って歩く人間にとって見たら、それほど好ましい場所じゃないのよ。ここは散歩の激戦区だから」
「どういう意味だ?」
「他の犬と喧嘩になっちゃうのよ。犬って言うのは縄張り意識の強い動物だから、一度吠えるとなかなか泣きやまないでしょ」
「ああ、そいつは大変だ」
――犬の目線、か。
「そうそう。昔、犬のキモチっていうおもちゃが流行ったよね?」
「ああ」
「あれ、ほしかったな」
――盲導犬。Guide dog、か。目が見えなくなるだけで手綱を握る手の意味が変わる。吠える犬を牽制し嗜めるはずの人間が、オロオロと不信感に怯えながら、手綱の動きに身を任せる。誘導する側から、誘導される側へ。そういう意味では、人間も犬の目を持つ。だが、犬の目線。目線ということは目を持つこととはニュアンスがずれるような気が……。
ビュウっと、冷たい風が吹き抜けて行き、彼女は大げさなくらい身を震わせる。すると、高架上で弾き語る男の声が聞こえてきた。聞き覚えのあるメロディー。
「虹の彼方に、か。最近のやつらは、カバー曲ばかりだな」
「あら、でも私この曲好きよ」
「ああ、悪くはない。ただ、ギターの弦がひどく縮みあがってる」
彼の指がギターの上でリズムを刻むたびに、硬くなった弦が金切り声を上げる。キーンという不快な金属音が耳に残る。
「この気温で、この曲調じゃあ、ね」
そう言うと彼女は小さく笑った。
「ああいうギター弾きだとかの発祥は出雲御国なのか?」
「うん。鴨川は、中世の京芸人たち集いの場所だったからね」
「確か南座の前に彼女の銅像があったな」
「ええ、御国は鴨川で歌舞伎を広めたのよ。意外とみんな知らないよね」
歴史とは奇妙な物だ。出雲御国。顔もろくに知らないのに。かつて、この京都の鴨川で彼女が女郎歌舞伎を踊っていた事。そんな事を思うと不思議と親近感がわく。
「ところで、私ね。高瀬川ってずっとあの川の事だと思ってたんだ」
彼女は左手に見える小さなみそぎの川を指差した。
「ああ、よく間違える奴がいるんだ。いくらなんでもこの大きさで物流などと言うのは随分無理があるだろう」
「ええ、でもね。私にとって高瀬川って物流の川っていうイメージが全然なかったのよ。幼いころに聞いた物語のおかげで、ね」
「物語?高瀬舟か?」
「ううん。小説とかじゃなくて、オリジナルのお話しよ。昔、親戚のおじさんに聞いたの」
「どんな?」
「月の、お話よ」
月のお話。そう言うと彼女は夜空に浮かぶ月を眺めた。
「明治初期の京都は急速に近代化政策が進んでいたっていうのは知ってる?」
「ああ、町組制度とか言うやつだろ」
地域に区切りを持たせることで、地理的なまとまりを作ろうとした。たしか、郷土歴史の教授がそんな事を言っていた。改革が進みそれぞれの区域で小学校が作られた。戸籍制度が導入されて、町ごとにその戸の長が定められたのだ。
「主人公は町組戸長の一人。尾台って言う名前の男よ。彼がなかなかの人物でね」
「なかなか、と言うと?」
「まあ、なんていうか――。彼はお祭り好きだったのよ」
「ああ、お調子者ってやつか」
「うん、まあね。彼が戸長に就任する時期にちょうど小学校の新設が重なったの。「これは祝い事だ」っていう彼の一言で、お祭りが開催されることになるのよ。木屋町の――高瀬川で。そのお祭の名前は‘月見祭り’だった」
「なら、季節は秋か?」
「うん。名前の通り、月を眺めるお祭りになる……、はずだったのよ」
「はず……、とは?」
「祭りの準備は進められていた。舞台を仮設して、芸人達に声をかけて、料理と酒を用意して。問題なく進んでいる、はずだったのよ。ただ、完成間近になって、彼はある重大な事に気づくの」
「重大なこと?」
「月が――、見えないのよ。祭りの日程は9月初旬。どうしても月を見る事なんて出来ないの。なぜなら、その日は新月の夜だから」
月見祭りなのに、か。まるで落語のような展開だ。
「それは実話か?」
「ううん。言ったでしょお話しだって」
でも――、実話が基になっているとは言っていたけど……。そう彼女は付け加えた。
「そして、追い打ちをかけるようにその祭りの事を聞きつけた地元の権力者が彼のもとに現れるのよ。おい尾台、今度の月見祭り楽しみにしているよってね」
「それは、まずい」
「でしょ。だけどね、ここからがすごいの。祭りの当日。尾台は思いもよらない事をやってしまうのよ」
「なんだ?」
「月が見えるのよ」
「はっ?新月か?」
「ううん。新月の夜に満月が見えるの」
「なんだ?どうやって――」
言いかけている途中で彼女は言葉を重ねた。
「あっ、着いたよ。鴨川デルタ」
加茂川と高野川。左右に伸びる二本の川は出町柳で合流し一本の川になる。そこに出来る大きな三角洲。それを皆は鴨川デルタと呼んだ。
「なんだ、どこに歩いているのかと思えば、デルタだったのか?」
彼女は後ろを振り返り、上方に指を差した。
「ううん、そっちじゃなくて――、ほら、やっぱり」
指先に目を凝らす。なんだ?なにがやっぱりなんだ?
「月が消えてるでしょ」
見ると、先ほどまで南の空に浮かんでいた月が、目の前にある加茂大橋の影に隠れてすっかりと姿を消していた。
「こういう場所を探していたのよ」
「……なぜだ?」
「だってここなら、月が見えないでしょ」
橋の後ろにあるはずの月を確認しようと後ずさりすると、それを制するように彼女が腕を引く。
「じゃ、もう一度さっきの質問ね。夕靖、尾台はどうやってみんなに月を見せたと思う?」
「そんな事は不可能だ。その日は新月だったんだろ?」
「うん。でも彼は皆を驚かせたんだよ」
「日程を変えたのか?」
「ううん」
「では、やっぱり無理だ」
「本当にそう思う?」
「ああ、見えないものはどうしようも無いじゃないか」
すると、彼女は小さく笑って目の前の橋を指差した。
「見ようとするんじゃなくて、観察するのよ」
その、指はゆっくりと向きを変えこちらに差し向けられる。
「後ろ、振り返ってみたら」
言われる通りに振り返るとそこには水面に映る月があった。ゆらゆらと揺れる丸い月。なんだ、こんな簡単なことだったのか。
「ね、不可能じゃないでしょ」
「だが、尾台の場合は新月だったんだろう。ならば、この方法は使えない。水面に映すべき月が出ていないのだから」
そう言うと、彼女はまた、小さく笑った。
「映すべき月なんて初めからない方が簡単なのよ。だって、隠す必要がないんだから」
「だが、これでは空に浮かべるのは到底無理だ」
不満を挙げる俺を見て、彼女はもう一度念を押した。
「見るんじゃなくて、観察するのよ。注意深くね」
――ねえ、尾台はどうやって月を見せたと思う?
そう言うと、彼女はそれ以降どんな問いかけにも口を塞ぎ、またどこかへ向かって歩き始めた。
――なんだ。いったい香住は何が言いたいんだ?
川沿いを歩く二人の間には沈黙が流れていた。
閑静した空気に、二人分の足音だけが妙に大きく耳元で騒ぐ。その音を聞きながら、硬直した空気に確かな時間の流れがある事を確認する。
右、左、右、左。単調に足を運び、先導する香住の斜め後ろから俺は付いて行く。
やっぱりおかしい。今日の彼女はどこか不自然だ。その言動は、まるで俺を誘導するかのように。作為的な何かが感じられる。
――そして。
「ところで、香住。俺もお前に質問したい事がいくつかあるんだが」
不意の問いかけに彼女は面食らった表情を浮かべる。そして、しばらく考えてから口を開く。
「何……、質問って?」
「お前はいつ京都に帰って来たんだ?」
「何よ――今更。こっちに到着したのは今日の朝よ」
「そうか。いや、そうだったな」
――不穏な種はぬぐえない。
「ところで、香住。その赤いマフラーは向こうの家から持ってきたのか?」
「うん。東京からこっちに来るときに巻いてきたやつだよ」
「じゃあ、その分厚い手袋もか?」
「えっ?そうだけど、――どうして?」
「いや、いいんだ」
――どこか違和感がある。それは今日彼女と出会ったときからずっと付きまとっている。
「なあ」
「何?」
「何か悩みごとでもあるのか?」
彼女は驚いた顔をしてこちらの表情をうかがう。
「えっ、どうして……」
「ボヘミアの醜聞、だ。女性は他人に頼らず、とにかく自分だけで隠しごとをしたがる。なんてな」
「何の話をしてるの?」
「いや。一つ、聞きたい事があるんだ」
「……何?」
――今頭の中には一つの仮説がある。
「お前……、嘘、ついてないか?」
「えっ……」
その瞬間、彼女はハッと表情を変える。
――同時に、仮説が確信へと変わる。
やはり、そうだったのか――。
空気が停止し、二人の足は止まる。振り返った彼女と自分との間を冷たい空気が通過していく。
「なんで……、嘘なんか付いたんだ?」
しばらくの間、冷たい風に揺れる木の葉のざわめきが沈黙を埋める。
うつむく彼女の顔は月明かりの死角に入って、その表情は上手く読み取ることができない。
不意に彼女は顔を上げ、ゆっくりと口を開いた。
「いつから気づいてたの?」
河川敷を歩く二人分の足音が先ほどよりも大きく耳もとで騒ぐ。
「初めに違和感に気づいたのは、荘園軒に入った直後のことだ。あそこの店にガタイのいい店主がいたろ?」
「徹朗さんのことね」
「ああ、そうだ。彼の名は徹朗。彼はイギリス人とのハーフで店を始めてから3年が経つ。奥さんとは別居中で、先月46歳を迎えた。そんな風に言ってたよな」
「うん」
「つまり、お前は彼の事を良く知っていたんだ」
「そうよ」
「なら、やっぱりおかしくないか?」
「何が?」
「お前は、そんな知り合いと1年越しの再会に挨拶もなしだった」
「なんで……?そういうこともあるよ」
「ああ、確かに。別にあり得ない事ではない。だが、そう考えると見過ごせないおかしな点がいくつかあったんだ」
「おかしな点?」
そう言うと、彼女は不安そうにこちらの様子をうかがった。
「おい、お前は俺が荘園軒のドアを空けようとしている時にちょうど荘園軒に到着した。そう言ったよな?」
「うん」
「そうだ、だから俺は不意を突かれて驚いたんだ。だがな、それだったらなぜあの時お前はそのマフラーと手袋をしてなかったんだ?」
彼女はマフラーに手を掛ける。
――寒い、手と首が吹きさらしよ。
彼女はあの時そう言った。手と首を必死に暖めながら。荘園軒に入るまで、確かに防寒着を着けていなかった。
「それは、たまたまよ」
「いいや、そんなはずはない。おまえが過度な寒がりだってことは良く知っている。事実おまえは居酒屋から数十メートル程度のトイレに向かうのでさえ厳重に防寒をしていたじゃないか」
「それは……」
二人をつなぐ空気が少しずつずれ始めて行く。彼女はそれを察したかのように懸命に弁明の言葉を探す。
「今日の集合時間は8時だな?」
「うん。そうよ」
「だが、俺は予定よりもかなり早く到着した」
「ええ、珍しく……、ね」
「そう。珍しく俺が集合時間よりも早く着いてしまった。だから、お前の計画は少し歯車が狂った」
「でも……、それと防寒着と何の関係があるのよ?」
「本当はあの時、ちょうど到着したんじゃなくて、俺が到着する直前までお前は店内にいたのではないか?」
「えっ……?」
「お前は俺に悟られたくなかったんだ。先に荘園軒に到着して計画していた何かを。予定より早く俺がやって来たことに気づいたおまえは、慌てて店から出た。マフラーを巻くのも、手袋を着けるのも忘れて」
「……」
「そして、店内で俺に言った決定的な一言だ」
「……一言?」
「トイレを探していた俺に向かってお前は言ったな。店内のは使用禁止になっているよ、と」
――夕靖、トイレなら今日は使用禁止になってるよ。彼女は確かにそう言った。
「うん……、だから公衆トイレに向かったんでしょ?」
「ああ、そうだ。店内のトイレを探す俺に向かって、だ」
「そうよ。何か……、おかしい?」
「俺たちは今日同時に店内に入った。その後、お前と俺はずっと一緒にいた。そして、トイレは厨房を右に曲がって真っ直ぐ行った場所にある。その位置はテーブル席からはどうしても見えない死角になっていた。それならば不可能なんだ。トイレが使用禁止になっていることを知っているのは。一度も見ていないはずのお前が」
「……。でも、私はあの店の常連だから」
「いいや。そんなことは関係ない。だって、おまえは今日一年ぶりに京都に帰って来たはずなんだから」
「それはね――」
彼女は必死に言葉を探し考え込んだ後、小さく笑いながら言った。
「……、やっぱり、慣れない事は上手くいかないね」
「だけど――、どうしてそんな意味のない嘘をついたんだ?」
そう尋ねると、彼女はしばらく考え込んだ後、口を開いた。
「ねえ……、夕靖。少し歩きながら話さない」
足取りは重い。今日1日の不信感が懐疑に変わり、二人の間には不和が生じていた。すると、不意に彼女が口を開く。
「本当はね……、一週間前に、帰ってきてたんだ」
「えっ?」
驚く俺に「ごめんね」と小さく呟き彼女は話を続ける。
「帰ってきてたのよ、京都に。『家庭の事情』でね」
「家庭の……、事情?」
家庭の事情。彼女はそう言うと淡々と口を動かした。
月明かりに照らされる二人をつなぐのはその物語のようなエピソードだった。香住の口から発される言葉は、少し柔らかくて、少し残酷で、優しくて悲しいものだった。その表情は自分がこれまで一度も見たことのないものだった。家庭の事情。彼女はその言葉に特別な意味をこめた。
俺はその物語を聞きながら、小さな愁傷と安らぎを感じていた。
――いろいろあるのよ。
そんな言葉に隠された彼女の本質を、その時初めて知った気がしたから。
どれくらい時間が立っただろう?
「聞いてくれてありがとうね」
話し終えた彼女は微笑みながら言った。
気が付くと、二人の足は止まり景色は閑静した木屋町の一角まで戻ってきていた。
「でもね。嘘をついたのはそれだけじゃあないのよ」
「えっ?」
「〈深夜0時の幽霊〉よ」
そう言うと彼女は鞄から腕時計を取り出してみせた。
「言い忘れてたけどね、その幽霊の目撃場所。この辺りらしいんだ」
ゾクっと身震いする。タチの悪い冗談だ。そうあしらうと彼女は「ちょうどこの場所よ」と真面目な表情で言った。
「なあ」
「何?」
「この辺りってどの辺だ?」
「今私たちが立っているここよ」
「目撃した時間ってのは?」
「もちろん深夜0時の幽霊、だから……ね?」
「なら、一週間前の深夜0時って言うのは?」
「先週の日曜日と月曜日の間のことよ」
「えっと、今日は何曜日だった――」
言い終わらないうちに彼女は言葉を重ねる。
「今日は――。日曜日よ」
その時、彼女の腕時計が深夜0時を回る。
キーン、――キーン。キーン、キーン――。
なんだ、この音は?耳鳴り――、か?まさか、そんなはずは――。
「幽霊なんて……」
恐怖を払拭しようと口に出すと、彼女が対岸を指差す。
「ねえ、見て」
指差された方を振り返ると――――――。