荘園軒にて
店内は異様に明るかった。外に照明が付いていなかった分、中の光が一層強く感じられたのかも知れない。
戸を閉め奥へ進むと、厨房に男の姿が見えた。色白でガタイが良く、彫りの深い顔立ちをしていた為、調理服を着て居酒屋の厨房に立っている姿が少し不釣り合いだ。どうやら、この人が店主らしい。厨房とホールを一人で行っているのか、ほかにスタッフらしき人は見当たらない。
テーブル席に二人で腰をかけると、香住が慣れた様子で注文を言い始めた。
生ビールに、唐揚げ、出し巻きに、焼き鳥、きゅうり付けに、それから――。たたみかけるような注文にも店主はたじろがず、「オッケー」とも「了解」ともとれるような軽快な返事を返した。
どうやら香住はこの店の常連だったのだろう。ここの空気感をよく知っているようだ。
「そんなに、食べられるのか?」
「余裕よ。でも割り勘ね」
「あたりまえだ。おごってやる気などさらさらない」
彼女は不満そうな顔を浮かべ、反論する。
「ちがう、私がおごる気なんてないってこと」
「なんだ、俺が金に困っているように見えるか?」
「ううん。でも私は社会人だもの」
社会人。取ってつけたようなその言葉が妙に可笑しい。
「聞こえなかったからもう一回、いまのやつ言ってみろ」
茶化れている事に気付いた彼女は、さぐるように言う。
「だから……、私は働いているから」
「社会人、じゃないのか?」
「聞こえてるじゃん」
思わず、ハハッと笑い声をあげてしまう。
「何?おかしい?」
「いや、おかしくない」
「ねえ。私、都会にかぶれてるかな?」
「まあ、いいからメニューを離せ、社会人」
彼女は、慌ててメニューを置くと、照れ臭そうに笑い、取り繕ったように話をそらす。
「寒い。ちょっと暖房の効き甘く無い?」
こういう性格も変わらない。さっきまで不安を抱えていた自分が他人のようだ。もう少しぎこちなくてもいいだろうに。まるで一年越しとは思えない。そもそも俺は香住と空気が合うのかもしれない。
中に入ってみて気づいたのは、やはりここには窓がないということだ。換気する時には、あの入口の引き戸を全開にするのだろうか。随分と不便な構造をしている。壁は一面が木製で作られており、そこに短冊状に切った紙のメニューが幾つも掛けられていた。思ったほど荒廃しているわけではなかったが、いい具合に年月を重ねた建物であった。何度か、改装工事をしたのだろうか、新旧の入り混じった作りとなっている。
「で、社会人。最近はどうなんだ?」
「どうって?」
「だから、あっちでの生活とか」
「ああ、まあ普通よ」
「普通ってのは?」
「それなりに」
「もう少し掘り下げて言え」
「なんていうか、……問題なく?」
「と言うと?」
「いい感じよ」
「例えば何が?」
「まあ、全般的に」
「ああ、わかったもういい」
「フフフ」
一息つくと、こんなテンポで会話が進む。月日を隔てた分そのなんでもない会話が意味を持っていたし、くだらない内容だろうと、この確認作業が情報を共有することよりも大切だった。
しばらくそうしていると、店主が注文した料理を運んできた。
もう一度良く顔を覗き込む。やはり日本人離れした顔つきをしている。髪も、今は白髪になっているが、色つきの名残がある。彼が厨房に帰ったのを見届けてから、彼女に質問する。
「ヨーロッパ系だろうか?」
「うんそうだよ」
「何だ?知り合いなのか?」
「うん」
「だが、お前それにしては随分そっけないな」
「えっ、そう?」
「一年ぶりだと言うのに挨拶もなしか」
そう言うと彼女はフフっと意味深な笑みを浮かべた。
「なんだ?」
「イギリス系のハーフよ。あの風貌で名前が徹朗さんっていうの。面白くない?」
「確かにあれはどう考えても和名が似合う顔ではないな」
「でしょ。徹朗さん、ここで店をやって3年目の新人よ」
「また、随分と詳しいな」
「まあね。でもここに来るのもすごく久しぶり。あっちにいる間もずっと楽しみにしていたから」
そう言うとテーブルの上のきゅうり付けを口に運び、大げさなくらい声を上げた。
「おいしい!」
そう言えば、俺も今日は何も食べていない。思い出すと腹が減ってきた。一つつまんで口に運ぶ。ああ、確かにうまい。
「だが、こんな客入りで生計はたっているのか?」
店内には自分たちを含め5人しか客が入っていなかった。
「徹朗さん一人分の生計ならこれで十分なのよ」
一人なら。でもね――。
彼女はその先を飲み込み、丁寧に言葉を選んだ。
「奥さんとは、別居中なのよ」
「別居?結構な年齢に見えるが」
「先月で46歳よ」
「その年で別居とは、よほど仲が悪いな」
「うん、まあいろいろと、ね」
「というと?」
「まあ、いろいろあるのよ」
――いろいろあるのよ。
この言葉が出たら、深追いはしない。知らなくてもいいことだってあるだろ、というのがお互い暗黙のルールだ。出会ってからの彼女の事は良く知っているが、それ以前の事はと言うとはぐらかされた事も多い。お互いにとって心地よい付き合い方。その一定の距離の中でなら、相談も、是正も、すごく近い距離で向き合うことができる。
しかし、香住はやはり店主とそれなりの知り合いであるのだ。
その時なぜか小さな違和感を覚えたが、その正体はつかめなかった。それは、この場所の独特な空気がそうさせるのだろうか。
今何時だろうか、と周囲を見渡す。しかし店内に時計が見当たらない。
「なに?時間?」
「この店に時計はないのか?」
「時計なら――、あそこにあるよ」
指差された先を見ると、入口の扉のちょうど上側を真っ直ぐ昇っていったところ、天井からすぐ真下の位置に丸い時計が掛けられていた。
どこにでもあるようなシルバーのデジタル式の時計。しかし、趣味が悪い。木造の壁にはおよそ似つかわしく無いし、そこだけが店の質素な雰囲気を台無しにしてしまっている。それに床から高さ6メートルくらいは裕にある。大きさは……半径50cm程か?随分と大きい時計だが、あんな高い位置にあってはいろいろと不便だろう。取り外す時にいちいち手間がかかって仕方ないだろう。
時間は7時50分を指していた。待ち合わせが8時ごろとのことだったので、思ったよりも早く着いていたようだ。
運ばれてきた料理を箸でつつきながら、しばらくそれとない会話をしていた。
大学の事、檸檬の事。話題は尽きることなく後から出てくる。時間を共有したということは、こういうことだ。ただ、卒論や就職の事には、触れないほうがいい。なにせ、彼女の言論の正しさは今の自分にとっては大きなおせっかいとしかならないから。攻め立てられると、うっすらと理論武装しただけの自分など、たちまち崩れてしまう。
冷えた体がようやく暖まりだして、二人の空気が荘園軒に溶け込みだした頃、突然彼女がテーブルに並んだ焼き鳥の皿の一つを指さして、質問を投げかけた。
「ところでさ、夕靖。これがなんだかわかる?」
昔から、こんな風に突然の質問でたたみかけるのが常だった。それも、自分の解らない事を尋ねるというよりも、わかるかな?と相手を試す事にその本意が向けられる事が多い。長方形の取り皿の一辺には少しだけ盛り上がってる部分があり、そこに小さな穴が空いている。質問はどうやら、この穴はなんでしょうか、ということらしかった。
「これって、その小さな穴の事か?なら、もちろん知ってる。あれだろ。その穴に焼き鳥の串を引っ掛けるんだ」
初めて見たときに、なんて便利な発明だ、と思ったのを覚えている。串を引っ掛けるだけで、焼き鳥がするりと抜け、そのまま肉が皿の上に盛りつけられるという仕組みだ。
「そうそう。なんだ、知ってたのね。これ(串抜き穴)っていう装置らしいよ。これを発明した人って天才じゃない?」
そう言うと、彼女は同意を求めるかのようにこちらを見た。
確かに、よくできた発明だ。
焼き鳥と居酒屋との組み合わせは一人で飲む時には最高であるが、大勢での飲み会となると、かつてはそれなりに厄介なものだった。というのも、居酒屋で焼き鳥を食べる時は、皆が自由に取り分けられるようにしないといけないため、わざわざ串から鶏肉を引き抜く作業が必要なのだ。そのため以前は、懸命に逆さ箸で串を引き抜く必要があったし、勢い余ってしょうゆ皿をひっくり返したり、鶏肉が散弾のように飛び散ったりという光景がよく見られたものだ。
串抜き穴。まさに、アイデアの勝利と言ったところか。
「まあ――、確かにな。皿と串抜きを一つにまとめただけで装置と呼べるかは疑問だが……。しかし、むしろ注目すべきは、そいつが天才だっていう事より、他のやつらは誰ひとりとしてそれを思いつかなかったってことだろ?」
「また偉そうに言って。その他のやつらっていうのには、自分は含まれてないの?」一風、茶化すような言い方に、軽くあしらうように返す。
「もちろん。俺がそんなに飲み歩いてるやつに見えるか?」
筋の通らない理論を勢いで発せられるようになったのは、大学に入ってからだった。そこでは、正しさよりもつじつま合わせが優先される。
「それ、居酒屋で言うセリフじゃないね」
「ただ、少なくとも、うちの研究所のやつらよりは随分と柔軟な発想力の持ち主であることは間違いない。あいつら基本的に頭が沸いてる。どこぞの、居酒屋店員か知らないが、たいしたものだな」
悪態をついて少し後ろめたくなった。特に目標も無く自堕落に生きている自分よりも、周りも見えないほど研究に打ち込んでいる彼らの方がよっぽどまともに生きているのだから。それに、今こうして、馬鹿にしている彼らのような人間に、いつの日か足で使われるのだということもなんとなく予感していた。
「うん。きっと悩みを抱えたサラリーマンよ」
二人の会話は時々宇宙まで飛ぶ。いつも突拍子のない言葉で、相手を自分の世界に引き込んでしまうのだ。やっつけ気味に「何が?」と聞くと、うれしそうに先を続けた。
「だから。発明した人よ。居酒屋店員じゃなくて――、サラリーマン。焼き鳥の串をはずすのが不便だと思うのは、店員じゃなくてお客さんの方でしょ?」
「だが、なんでサラリーマンなんだ。それも悩みを抱えた」
「職業は解らないけどね。その人は何かに強く思い悩んでいた気がするの。だって、不便だ、なんて言ってみても、所詮は焼き鳥の串じゃない。普通の人にとったら、その不便さなんて、翌日には忘れてしまう程度のちっぽけなものでしょ。きっと、彼は何か大きな悩みを抱えていたのよ。焼き鳥の串程度のわずらわしさですら、大きなストレスとなってしまうほどの」
新奇を見つけたくば常に不都合の引き出しを物色しろ。大学入学直後の学部ガイダンスの時に、それなりの権威をもったらしい教授の一人が、そんなことを話していた。不便だと思うということは、裏を返せばそこに合理的なアイデアが眠っているのだという。
しかし、そんなに大きな悩みを抱えてる人が焼き鳥の串なんかに目を向けるのだろうか、と疑問に思ったがそれは口に出さない事にした。
「つまり、他の奴らにとっては焼き鳥の串なんて不都合だと患うほどの物ですらなかったってことか?」
「うん。そういうこと。そういえば、あっちで、作家の卵を受け持つようになったんだけど」
「ああ、聞いてるよ。一年目で、大したものだな」
「あっちで使うのがソレなのよ」
「それとは?」
「焼き鳥よ」
「は?」
「小説もそれと同じだなって事よ」
「焼き鳥と?」
作家の卵。あの、大手出版企業が言うとその意味は測りかねる。彼女は愚痴の一つももらさないが、いったいどれほどなのだろう。業界の事は良く知らないが、入社一年目にして実際に作家を受け持つという事にプレッシャーを感じないはずはないだろう。
「想像することが大事なのよ」
「またいつものやつか。無敵の時間、だろ」
「もう、ちゃんと聞いてよ。想像はね、なにも無い所に架空の感動を生みだすの」
「物語が独り歩きする、だろ?」
「そうよ。小説も焼き鳥も、慎重に観察して、想像することが大事なの」
――想像することが大事。
昔、鮮やかなトリックと結末に感動した推理本があった。だけど、きちんと把握しようと思ってその小説の内容をノートに書きまとめると、全貌は驚くほど陳腐な物だった。これだけの事を書くのになんで数百ページもの文章が必要だったのか当時は不思議で仕方無かったが、今ならばわかる気がする。あの蛇足に思えた文章には意味があったのだということが。
「本当の物語は、頭の中にあるってやつか。それが、あっちでの教育方針か?」
「うん。遠くはないわ」
そう言うと、彼女はネギマを串ごと頬張った。
そういえば、ネギのある場合、串は上手く抜けないんじゃないだろうか。と気づく。
この不都合が改善されるのはいつなのだろう?
「あっちで、二人の若手作家を担当してるの。一人はまだペンネームすら決まってないような売り出し中の作家で、木内さんっていうんだけどね。彼は作家としての活動の他にアルバイトを3つも掛け持ちしているのよ。居酒屋と、建設現場の夜勤と、新宿のバーテンダーだったかな。小説を書くためにはより多くの経験が必要だっていうのが彼の口癖で、積極的に活動の幅を広げているの。確かに小説の方にもその経験がにじみ出ていて、さまざまな題材をリアルに描くことに長けているのよ」
「はあ、珍しいな。小説家なんて書斎にひきこもった世捨て人が大半だろ。だが、それじゃあ、彼……、木内さんは、悩みを抱えたサラリーマンとは対極にいるだろ?」
「うん。まさにその通り。彼は、確かにネタは抱負に持っているし、そこそこリアルな話を書くんだけど、一言で言うと、世界観がきゃしゃなのよ。登場人物はいかにもありそうな会話を繰り広げるんだけど、なんていうか―、それはまるで借りてきたような言葉と心情変化なのよ。よくも悪くも読み手が入り込めないっていう感じね」
そう言うと、彼女は一呼吸置いた。
「ただもう一人の作家、こっちは斎藤さんっていうんだけど――、彼は木内さんとは逆。世界観がものすごく独特なのよ」
「例えば?」
「そうね――。言うならば、斎藤さんの小説には内容が全く無いのよ。いつまでたっても主人公は動かないし、物語もちっとも展開しない。でも、それでいて読み始めるとなかなかページを閉じられないのよ。そんな小説ってたまにあるでしょ。なぜか、世界観が妙に甘味をもっていて雰囲気に引きずり込まれるようなやつ。上手く表現できないけど」
「純文学志向か?あるな、そういう小説。で、その彼が焼き鳥君なのか?」
「そうね。斎藤さんなら突然発明家になってもおかしくはないわ。だってね、彼の小説、最後の終わらせ方が斬新なのよ」
「そういう作風の奴はたいがい、意味ありげに曖昧な表現で終わるようなパターンだって相場が決まってる。そうだろ?」
「うーん。確かにそうなんだけど……。彼のは、もっと独特。ていうか、曖昧どころか意味が解らないのよ。彼の小説では最後のページで突然全く関係ない物語が始まるの。いきなり語りの視点が移動して、どこか違う場所での新しい物語の冒頭が進行するのよ。それでいて彼は絶対にその物語の続編は書ききらないのよ。これって斬新じゃない?」
確かにそれは独特な終わらせ方だな。そういえば、結末といえば、あの日部室で呼んだサイコホラーだ。
「なあ、香住」
「なに?」
「行きずりの街、の事なんだが」
「ああ、あの本ね。それが?」
「あの結末は結局どうなるんだ?」
――そのへんでやめときなさい。
あの日、そう忠告されてページを閉じた。
快楽殺人の数々。殺害現場を目撃する妹。そして、男の自殺。どのようにしてあの物語を終わらせたのだろうか?
「聞きたいの?」
「ああ」
「後悔するかもよ」
「いいから話せ」
フウっと彼女は息を吐いた。
「第四章で妹が生き返るのよ」
「は?殺されたんじゃなかったのか」
「正しくは植物状態の妹が病院のベッドで眠っている、だけどね」
「息を吹き返したのか?」
「いいえ」
「じゃあ、なぜだ?」
「実は、殺人なんて起きていなかったのよ」
「おい、わかるように話せ」
「だから、彼女には殺人鬼の兄なんて初めから存在していなかったのよ」
嫌な予感がする。まさか――。
「もうわかったでしょ。あれは、ミステリの禁じ手よ。作者は最後の一文で物語をこう締めくくるの」
――あなたのこれまで見た物語、それは全て女の作りだした妄想だったのだ。
「確かにひどい裏切りだ」
なんだそれ?肩を透かすにも程がある。なんともインスタントな終わらせ方だ。
「ね、小説が死んだでしょ?」
「ああ、がっかりだ」
「ほらね。だから、言ったでしょ――」
――その本はそこらへんでやめといたほうがいいよ。
かつて部室で聞いた忠告が、彼女の言葉に重なる。
「ただ、終わり方が独特だと、確かに記憶には残るな。そいう意味でも小説は読み手に物語を想像させるということか?」
「まあね。悪く言えば読者への丸投げともとれるけど。どっちにしろ小説には想像力が欠かせないのよ」
そう言うと、彼女は焼酎の熱燗に口を付けた。
以前は、焼酎は呑まなかったのに。やはり、彼女の時間も知らないうちに進行しているのだ。
酒と雰囲気に呑まれはじめ、二人の会話は少しづつ厚みを帯びてきた。そういえば、こんな風に誰かと会話をするのは随分久しぶりだ。また、二人の会話の後に訪れる余韻がかつてのままであることに、心地の良い懐かしさを感じる。
しかし、こういう懐かしさに触れると、同時に普段の生活の無機質さが嫌というほど思い知らされる。年を重ねるにつれ、アルバイトの同僚や、仲のいい友人、あるいは家族との間でさえ、自分の思った事を本心から口にだす事は少なくなった。毎日の生活は柔らかくて、流れに乗っている限りはそれで十分心地よい。だからこそ、こういう瞬間に底に隠れていた失望が容赦なく顔を見せる。こんなもんだろ、と楽観する限りは十分やり過ごせるのだが、やはりさみしくもある。
だれもが、こんな気持ちに折り合いを付けながら生きているのだろうか?
「ところで、今日の水話は?」
不意に彼女が話題を変える。
「ああ、もちろん用意してきた」
「じゃあ、どっちから始める?」
「先にやれよ」
「本当にいいの?」
「あたりまえだろ。いやというほどやったんだから。今さら順番なんてどうでもいい」
水のような話という意味で――水話。
ファミレスに居座りながら、長時間二人で延々と議論を繰り広げた事はまだ記憶に新しかった。議論といっても学術的なそれではなく、普段の生活で目に付いた小さな不思議をどちらともなく持ち寄って、それを考察し架空のミステリを作り上げるというものだ。
水話と名付けたのは香住の方だった。実体のない話という意味ならば、「空話」や「宙話」と呼ぶ方が正しいのではないかと意見した事もあったが、それは軽く流された。
なんでもない話しに色を塗っていき、それらしい結末を作る。要するに二人がやっていたのは、人間観察や哲学から都合よくいい所どりをした空想ゲームだった。
「空話」だったら、空気でしょ。それは、ちょっとニュアンスが違うよ。私たちは何もない所から妄想で考察してるわけじゃないんだから。一見目には見えないけれど、想像のなかで実体を持つ物語だから、空気と言うより水だよ。あれはこんな風だったら面白いな、なんて好き勝手にいろんな形の容器に水を注いでいくの。だけど、それは実体があるから面白いんだよ。石を投げ込めば波紋が出来るし、穴を開ければ全部こぼれてしまう。水は自由に変形するでしょ。だから水の話で―――水話だよ。
条件は2つ。つじつまは合わせなくてはいけない。そして、議論の場は隔離された空間でなくてはいけない。
ある時は道行く男を米国のスパイに仕立て上げた。また、ある時は小学校教員を風俗勤めの女に仕立て上げた。そんなふうに想像は次から次へと広がっていき、空想の中で二人は無敵になれた。主導権は自分たちが握り、そこで好き勝手に物語に色を付ける。
ただ、外の騒がしさが乱入してくると、たちまち二人の世界は崩れ去ってしまう。無敵の時間は繊細だった。
「今日の題材はね、結構ホラーだよ」
大丈夫?という視線に、フンっと鼻で返す。
「ねえ、〈深夜0時の幽霊〉の話。聞いたことない?」
「幽霊?知らないな」
「京大に〈クスノキ〉ってあったでしょ。ほら、あの学生が発行する季刊誌」
「ああ、吉田校舎に置かれてたやつか」
「三年前の12月号に載ってた話なんだけど……、結構話題になったんだよ。知らない?」
「知らないな」
そう。と一息つくと彼女は話を始めた。
「あのね、その幽霊には顔が無いの。目と鼻のあたりがつるんとしていて」
「のっぺらぼうか?」
「そう。場所は夜の街。その幽霊が現れる時に奇妙な音がするのよ」
「奇妙な音?」
「耳鳴りのような音よ。一定のリズムでキーン……、キーン……、って。耳の奥からはいずり回るように聞こえてくるの」
「なんだそれは、危険な奴なのか?」
「さあ、それはわからないけど」
キーン……、キーン……。
静かな店内でその耳鳴りの音がかすかに鳴ったような気がして少し身震いする。
「で……、ただののっぺらぼうじゃないのよ」
「と言うと?」
「……笑うのよ」
「は?」
「ニヤっと……ね、笑うのよ」
「顔が無いのに、か?」
「言ったでしょ、目と鼻がつるんとしてるって。口が……、あるのよ。格別大きいのが。こっちを向いて笑うのよ。ケタケタケタ……、って」
――ケタケタケタ。
つるんとした顔に口しか付いていない幽霊が想像の中で不気味に笑う。
「それで、いったい何を考察するんだ?」
不穏な空気を変えようとした事を見すかして、彼女は小さく笑う。
「除霊でもたのもうかなって思ってね」
「まさか、幽霊なんて……。そもそも三年前の話をなんで今更」
「目撃者がいたのよ。それもちょうど一週間前に」
「だが、お前は今日こっちに帰ってきたんだろう?」
「うん、まあね」
「なら、一週間前の目撃情報なんて――」
言っている途中で言葉を重ねられる。
「東京にいても情報は入ってくるのよ。悩める就活生のことなんかも例外なくね」
あわてて弁明を探すと、その話はまた別の機会にでも。と彼女は笑う。
無関心ではなく、注意深くこちらの気持ちを汲み取ってくれる。彼女の優しさはいつも他人との絶妙な距離を測る。
「聞きたいのはね、どうして口だけはついてるのかなってことよ」
そういうフォルムなんだから仕方ないだろ、と言うと水話は終わってしまう。彼女の意図はそんな所にはない。あくまで、想像の中で色を付ける話なのだから。
「幽霊でも腹は減るってことだろ。目撃者は言ってなかったか?その幽霊は片手に肉まんを持っていました、って」
「ううん。でも片手には何かを持っていたらしいわ」
「何か?」
「うん。細長い……何か」
「スティックパンか?」
彼女は不満そうに首を振る。
「夕靖には食べる以外の口の使い方が無いの?例えば真面目に議論するとかね」
そこまで言われてようやく彼女の意図に気づく。
「ああ……、コミュニケーションか。寂しがりな幽霊だ」
「そうなの。口が付いているのはその幽霊が何かを伝えたいからじゃないのかな、なんて思っちゃうのよ」
「なら、耳鳴りは?」
「超音波って言うの?幽霊が話しかけてるんじゃないかって」
「口があるのにか?」
「だから……、鳴き声、みたいな感じ……?」
歯切れの悪い言葉で言う。幽霊の鳴き声?できるならば、そんなものは今後も聞きたくはない。
「まあ、それはいいが、そいつはいったい何を伝えたいんだ?」
「さあ。でも幽霊が何年間も伝えつづける事なんて大体予想はつくわよね」
「それは……、良い意味か?それとも――」
「悪い意味よ」
彼女は淡々と言い放った。
「例えば……、その幽霊は、生前誰かに殺害された」
「ダイイングメッセージか?」
[そう。そして、その真犯人は未だにつかまっていない……、とかね」
「自爆霊……というやつだな。それなら差し詰め右手に持っていた細長いものってのはナイフってとこだろう」
ナイフを持った幽霊。誰かに殺されたまま真犯人はつかまっていない。怨念を晴らすために、通行人に必死に伝えようとする。唯一顔に残った大きな口で。キーン……、キーン……、と耳鳴りのような鳴き声をあげながら。
ようやく幽霊の設定が定まってきた。後は、その殺人の様子を浮かべていくだけだ。しかし、ケタケタケタという笑い声……、その意味は一体?
考えていると、彼女が不意に口をひらいた。
「もうちょっと回してみようか?」
議論が行き詰まったら、逆の発想。こうだろうな、と思っていた事よりも、意外性のある結末が見つかる。彼女はその手段を「回す」と呼んだ。
「例えば、幽霊はいない……とかね」
「だが、それじゃあ水話にならないだろ」
「どうして?追うのは人間でもいいのよ。この噂話が流れて得をする人物は誰か?とかね」
「クスノキを発行した団体か?」
「うーん……?」
「なら、目撃者か?」
「まあ、それもあり得るけど……」
「何だ?」
「もっと疑うべきところがあるんじゃない?」
そう言うと彼女は、試すようにこちらを見た。
疑うべきところ?それは一体……?
「答えは意外と簡単だったりしてね」
「どういう意味だ?」
――答えは意外と簡単だったりしてね。その言葉の意図は読めなかった。
「これじゃあ、つまらないからもう一展開期待してるのよ。夕靖はどう回すの?」
「ああ……、やっぱり幽霊はいると考えると――」
顔のない幽霊。――どうして口だけはついているのかな?という先ほどの彼女の質問が妙に引っかかる。食事のためか?コミュニケーションのためか?
コミュニケーションのためならば、何を伝えようとしているのか。キーン……、キーン……という耳鳴りの音。例えば――いや、しかし……。
気づけば、深く考え込み、目を閉じてしまっていた。
ふと鼻に入ってくる臭いに気づく。焼き鳥か。焦がし過ぎだな。焼き鳥は軽く焦げ目がつくくらいが最高なのに。しかし、煩わしい臭いだ。こういうものが思考の邪魔をするんだ。だが、まてよ――。
――邪魔をする?
目を閉じるまではこんな事気にも留めなかったのに。この臭いはさっきからずっとしていたはずだ。だが、なぜ今突然気が付いたのか。それは、俺が目をつぶって考えていたからだ。そうか。
「目と鼻が無いって考えたらどうだ?」
「えっ?」
彼女は少し面食らった顔をした。
「つまり、口だけが付いている、ではなくて……、目と鼻が無い」
「どういう事?」
議論が行き詰まったら、回す。そう思う根拠は無くとも、この発想がいつも水話に波紋を広げる。
「その幽霊は、目が見えたら困る、鼻が利いたら不都合な状況にあったんじゃないか?」
「へえ、そういう考え方もあるのね」
彼女は小さくうなづいて感心する。
「でも、目が見えたら困る状況って?」
「ああ、それは、例えばだな――」
ビー、ビー、ビー、ビー。
その瞬間、先を続けようとする言葉を、デジタル時計の電子音がさえぎった。
「時計……、か」
なんとなく、不気味な雰囲気に包まれたその場に彼女の言葉が追い打ちをかける。
「ねえ……、今変な音聞こえなかった?」
「なんだ?……時計の音だろ」
「ううん。そっちじゃなくて……」
振り返ると、入口の扉が、外の風に吹かれて、ガタガタと鳴いていた。
会話がさえぎられて、二人の間に静寂が流れる。
なんだか、気味が悪い。顔のない幽霊がケラケラケラと頭の中で不気味に笑った気がした。
その時、時計は夜の9時を示していた。
なんとなくばつが悪くなって席を立つと彼女は尋ねる。
「どこに行くの?」
「ああ、トイレにでも行こうと思ってな」
しかし、辺りをうかがってもトイレは見当たらない。
「店内にトイレはないのか?」
「あるよ。ここからじゃ死角になってるけど」
「どこだ?」
「あっちよ。厨房の奥を右に曲がって、真っ直ぐ行った所――」
――あ、でも。彼女は思い出したように付け加える。
「今、男女とも使用禁止になっているから、向かうなら近くの公衆トイレね」
――明白な事実ほど誤られやすいものはないよ。
公衆トイレで用を済ませ、荘園軒に戻る途中の道でそんな言葉が頭に浮かぶ。
一体何が不安なのだろうか?どこか違和感がぬぐえない。それは、今日彼女と出会った時からずっと自分に付きまとっている。そして今、頭の中には一つの仮説がうっすらと見え隠れしている。だが、確証は得られない。推理するなら、ただ見るのではなく注意深く観なくてはいけない。
やはり、この一角に入ると木屋町の賑わいが消える。まるで、隔離されている空間のようにここだけが特別な不信感を抱かせる。
先ほどより暗くなった空から目をそらし、荘園軒の扉を開ける。
男が一人と女が一人、そして香住。閑散としてきた店内を見回しながら席につく。ここには、窓がない。それは外界から完全に遮断されているということだ。やはりこの店はあえて孤立しようとしているのか?
「ところで、夕靖の持ってきた水話ってなんなの?」
不穏な間に痺れをきらしたのか、彼女は流れを変えるように言った。
「ああ。俺のは、いたってシンプルな内容だ。タイトルは〈犬の目線〉。こないだ刊行された、金堂若草の新作小説だが。香住も読んだだろ?なぜあんな風に突然に作風を変えたのかってな」
彼女が読んでいることは間違いなかった。昔から二人ともかなり多読な方で様々なジャンルの本を読み漁っていたが、若草はその中でも二人の共通項とも呼べる、お気に入りの作家であった。新作が発売されるとなって、読んでいないはずはない。
「ああ、若草ね。もちろん読んだわよ。確かにあれは腑に落ちないわね。突然、児童文学へ移行するんだもん。まだSFとかホラーとかに変えるんだったら解らないでもないけど、児童文学だなんて彼らしくないわよね」
そう言うと、彼女は熱燗を飲み干した。荘園軒に入ってから、もう結構な時間飲んでいるが、酒に強い彼女にとってはこんなものまだまだ余裕よといった所だった。
「それで、夕靖はどう考察してるわけ?」
彼女はこころなしか前傾姿勢になって問う。
「ああ。まず、一番に考えられるのは単純に若草が作風を変えたかったんだろうっていうことだ。ミステリに飽きたのか、それとも新たな読者層の獲得を狙ったのか――。とにかく、彼には何かそれなりの理由があったと思うのが自然な流れだろ?」
「うん。確かにそうね。で、どうなの?」
「なにがだ?」
「だから、その作風を変えた理由――。その理由がなんだったのかって事が、ミステリ要素になるんでしょ?」
「ああ」
「面白そうじゃない、聞かせてよ」
そう言うと彼女は熱燗のお猪口をトンっとテーブルに置いた。
「俺なりに、一つの仮説を立てたんだ」
「仮説って?」
「ああ、まず、若草の人間関係に注目してみた」
鞄の中に手を突っ込み家から持ってきた雑誌を取りだす。
「随分本格的ね」
ぼろぼろになったそれを見て、彼女はまんざらでもなさそうに言う。
「1999年に発行された週刊文豪なんだが……」
雑誌を開け、ページの一角にある(文豪の私生活)というコラムを指さす。
「見てみろ。このページに若草の家庭環境や、周囲の人間関係が少し書かれているんだ。中でも面白いのはこれだ」
「若草と親交の深い……作家?」
「そうだ。ここに一人だけおかしな奴が紛れ込んでいるんだ」
彼女は文字を目で追う。島田荘二、綾辻行人、二階堂梁人、京極夏彦――。数々の有名作家たちの名が並ぶ。そして、その目はある一点で止まる。
「桐谷……健一郎ね」
「ああ」
桐谷健一郎。その名前は他の幾つもの作家の名前の中で、一人だけ場違いに存在していた。というのも、桐谷は若草と親交の深い他のミステリ作家の一群とは全くジャンルの異なる作家だったのだ。桐谷は、エッセイ的な作品を手掛けることが多く、中でも有名なのは小学校教師の連盟によって作られた教育文芸団から刊行された「兎と狼」という作品だった。桐谷の名前がなぜ際立っていたのかと言うと、その「兎と狼」はまさに『児童文学』というジャンルでミリオンセラーを飛ばした小説だったからだ。
「へえ、こんなのよく見つけたね。つまり二人のプライベートのつながりが若草の作風変更に影響を与えたってこと?」
「そうだ。それに、興味深い事がもう一つある」
「何?」
「桐谷の享年は68歳だ。犬の目線刊行の2年前。ちょうど、前作の原稿が仕上がったくらいの時期だ」
「つまり、犬の目線は親友である桐谷の死に対するオマージュ的な作品だったってこと?」
「そういうことだ。全くの空想だがな。その可能性も少なからずある。しかし……」
語尾に力がこもらない。彼女も同様に少し考え込んだ後に、腑に落ちないという風に言った。
「だけど、それだったら、なにかすっきりしないよね。若草だったらそんな風に回りくどいやり方をしないで、犬の目線は桐谷へのオマージュ作品だって大々的に発表するような気もするし」
確かにその通りだった。金堂若草がオマージュ作品を出すのなら、それはまさにオマージュ作品でございますと派手に取り繕ったものであるはずなのだ。なにしろ、彼はそういう目立った事をやるのが大好きな作家だったのだから。
デビューしたての初期の頃、若草は「入江深雪」というペンネームを使っていた。入江深雪――。だれが、どう考えたって男の作家が付けるペンネームではなかったのだ。あたかも自分は女性であるかのようなフリをして文庫本のあとがきや文芸誌のコラムに顔を出していた。そして、ある程度ファンが付いてきた時期に突然、「自分は男なので金堂若草にペンネームを変更する」と発表したのである。あの時はなんとハチャメチャな作家があらわれたものだと、水面下で少し話題になったほどだ。彼はその一瞬の話題をかっさらうためだけに、自分のペンネームすらネタにしてしまう。そんな演出家気取りの作家でもあったのだ。
「そこが問題だ。このやり方だと若草らしくない。確かにそこが気になる点ではあるんだが」
「うーん。そうよね。しかもその展開だったら、あの謎の文章が尾を引いちゃうしね」
彼女は意味ありげに言って、うっすらと笑いを浮かべた。
「謎の文章――?何のことだ?」
「やっぱりね、思った通りだわ。夕靖、あんたまた途中で怒って投げだしちゃったんでしょう?」
「は?なぜ知っている?」
困惑の表情をうかがうと、彼女は大きく息を吐き出した。
「ほら、その鞄に入ってるふでばことルーズリーフ貸してみなさい」
疑問符を浮かべる俺を置き去りに、ボールペンと紙を取り出して、さっそうと文章を書きだした。いや。淡々とつづられたそれは、文章と言うよりは詩のようなものだった。
書き終わると、目の前に突き出して言った。
「犬の目線には、隠された文章があったのよ。まあ、隠されたって言うか、カバーの後ろに堂々と書いてあったんだけどね。まったく、感情が先走ってこんな若草のやりそうな事すら見落とすなんて夕靖。まだまだだね」
そういうと、彼女は満足げに笑った。
降り注ぐ雨は大河のごとく身を濡らし
飛び交う会話は音楽のように眠りを誘う
あなたの隣に立つ私は泥にまみれた革靴だ
言葉で届かないなら物語を書こう
犬の目を持つあなたへ 金堂若草
荘園軒の電灯が、眩しすぎるほどの光の塊になってビールジョッキに反射する。目の前に差し出された紙につづられる謎の文章。なんだこれは?意味がよくわからない。
ボーっとする頭の隅で、なぜか母親に言われた言葉を浮かべる。
――夕靖、あなたはいつまでも子供じゃないんだから。
彼女は頻繁にその言葉を口にした。無知な少年を戒めるように。自分はいつまでも子供ではないのだと。ならば、今はどうなのだろうか。あの日から数年を隔て、背丈の大きくなった自分は、果たして彼女の言う大人になったのだろうか?
答えは出ない。いったいどういうつもりであの言葉を放ったのか?
不可解な感情を飲み込むように、6杯めの生ビールを喉に流し込んだ。
「それが、若草の隠した詩よ。たぶん一字一句間違いないと思うけど――。なにせその文章、比喩表現ばっかりで良く意味が解らないのよ。解読してみようと何度も読み返したからもう暗唱できるくらいまで覚えてしまったわよ。その成果はあまり得られなかったんだけどね」
彼女は釈然としない顔つきで不満を漏らした。
それにしても、まさかカバーの裏側にこんな詩が隠されていたなどとは思いもしなかった。
だが、何度読み返してみても一向に曖昧なままの文章である。
果たしてこんな文章を桐谷健一郎に贈ったのか?それに文末に添えられた言葉が妙に目を引く。――犬の目?
「犬の目を持つあなた、ってのは誰の事だ?」
「見当もつかないわ。タイトルを〈犬の目線〉にするくらいだから、なにかの比喩であることは間違いないと思うけどね」
誰かに向けられたメッセージか?それとも……。考え込んでいると彼女が口を開いた。
「いろいろ、犬の目について調べたんだけどね。わかりやすい特徴が2つあったわ」
「特徴というと?」
「犬はすごく近視なの。今でこそ人間の生活に溶け込んでいるけれど、もともとは野生動物でしょ。野生で生きていくためには広い視野が必要だったから目の前の30センチはほとんど見えていないのよ。それから、色盲ね」
「色盲って言うと……、色か?」
「ええ、人間に比べると錐状体が少なくて、ほとんど色を感知できていないのよ」
「だとすると、犬の目を持つあなたとは、視覚障害への比喩とも考えられるな」
「そうね。ちなみに桐谷の死因は?」
「肺ガンだ。視覚障害という線では結びつかないような気がするが。それに――」
――言葉で届かないなら物語を書こう。この一文。
「言葉が届かないとはむしろ、聴覚障害への比喩ではないか?」
「うーん。確かにそうね。じゃあ、桐谷には聴覚障害があったの?」
「いや、特にそんな情報はないが……、すると、言葉が届かないとは――」
「既に死んでる人って事じゃない?」
「死人に耳なしって事か?だったら文字だろうと同じことじゃないか?」
「うん、確かにね」
桐谷健一郎に贈った文章ではないのだろうか。とすると、犬の目を持つあなたとは――。
「とにかく、犬の目って言葉からいろいろ連想していくしかないわね」
「ああ」
――犬の目。犬、犬。目?ドッグ。EYE。
「そうねーー、逆だったらわかるんだけどな」
「逆とは?」
「だから、犬のほうが人の目になるのよ」
「犬が?」
――人間の目を持つ犬?
「盲導犬のことよ」
「ああ、確かにあれは視覚障害者の目の代わりだな。人の目を持つ犬、か。それはそれで面白い問題だ。ところで盲導犬っていうのは英語ではなんて呼ばれているんだ?」
「Guide dogよ」
「案内する犬、か。なるほどな」
――人の目を持つ犬は盲導犬。では、犬の目を持つ人というのは?
「そういえば、落語にあるのよ。犬の目っていうやつが」
「演目名が?というか、おまえその年で落語にはまったのか?」
「そうよ。古典落語の演目の一つ。あっちの上司の趣味で……ちょっとね。でも、意外と面白いのよ、落語」
「で、それ。関係ありそうなのか?」
「いや、全然。でも水話ってこういうものでしょ?なにか、ヒントが隠れてる、かもしれないよ」
「で、どんな話なんだ?」
「聞きたいの?」
「一応な」
「関係ないかもしれないよ」
「いい、話せ」
「わかったわ。私が聞いたのは林家三平のやつだったから、本家のとは違うのかもしれないけどね」
そう付け加えて彼女は話を始めた。
「江戸末期の話かな。清兵衛っていう青年が、医者の源兵衛のところに相談に行くのよ。その相談内容っていうのが、目が曇ってるって悩みなの。近所の友人は清兵衛の目を「曇りなら〈雨の目〉だなあ」って茶化すのよ。今で言うところの白内障ってところかしら。そんな目玉を医者の源兵衛はタコ焼きの要領だって言ってクリっと抜きとっちゃうの」
「その口調で聴くとまるでホラーだ」
「まあね、そこが落語の醍醐味なんだよ」
「慌てる清兵衛に源兵衛は大丈夫だよって言って、くりぬいた目玉をお手製の液体に漬けるの。
でもね、長時間漬けておいたらお米みたいにふやけてしまって、今度は上手く目にはまらなくなっちゃうのよ」
「安いコントか?」
「まあ、題材はそんなものよ。でね、ふやけた目玉を乾かそうと源兵衛は陰干しを提案するの」
「なぜ、陰干しなんだ?」
「だって外干しだと眩しいでしょ」
「ああ、太陽を直接観察しないでください、というやつか」
「そう。だけど、そこで事件の発生。置いておいたはずの目玉が消えてしまっちゃうのよ」
「どうして?」
「そこには、隣の家の犬が一匹。舌舐めずりをしながら尻尾を振っているの」
「食われちまったんだな?」
「そうなの。そして、源兵衛は代わりに犬の目玉をくり抜いて清兵衛の目にはめ込むの。これで、一件落着。と思ったんだけど――、数日後、源兵衛は清兵衛に経過を尋ねるのよ」
「――どうだ、目の調子は?すると清兵衛はこう答えるの。まあ、基本的には問題ないですよ。ただ。――電信柱を見ると小便がしたくなります、ってね」
なんだよ、その話。と気の抜けた結末に肩をすくめる。
「ね。この話を面白くするんだから、落語ってすごいでしょ」
話がすり替わっているだろうと言うと彼女はフフっと笑った。
「で、何かヒントは見つかったの?」
「いや、全然。その話の犬の目ってのは、そのままの意味じゃないか。比喩でもなんでもなく」
くり抜いた犬の目を入れた清兵衛にとって他にも生活に支障はなかったのだろうか?
そんな事を考えるならそれよりも前に、見過ごせるはずのない現実離れした表現がいくつもあった。だが、しかし。電信柱を見て小便がしたくなる、というオチ。ひょっとすると「犬の目を持つ」というのはそんな単純な比喩表現なのかも知れない。
「まあ、参考にはしてみるが」
自分で自分を納得させるように言った。
――降り注ぐ雨は大河のごとく
――飛び交う会話は音楽のように
何度も口に出して、つぶやいてみる。一体どういう意味だろうか?
――隣に立つ私は泥にまみれた革靴だ
――犬の目を持つあなた。犬の目。犬の目を持つ人。人?
静かな空間。水話にできていた波紋がだんだん小さくなっていく。会話は止まる。二人が新たな展開を待っているのだ。だが、発想は行き詰まる。そのままの無言が数分間続き、いいかげん痺れを切らした彼女が口を開く。
「どう、なにか進展はあった?」
「いいや」
「そっか」
それで議論は打ち止めだった。水話が完成することなどほとんどない。ただ、議論に色を塗ることが、手段のように見える目的なのだから。自分たちはこのどっちつかずの終わり方をしばしば有名作家の作品になぞらえた。
「リトル・ドリット、だな」
彼女は残った日本酒を空けると、串抜き穴を眺めながめる。
「関係ないけどさ、この穴は皿をくりぬいてまでして作らなきゃいけないものだったのかな?」
「ん?」
その答えには上手い解答が見つからず「人によるだろ」とあいまいな返答を返した。
「リトル・ドリットだね」
彼女はしてやったりと小さく笑う。
「ごめん、トイレに行ってくるね。ずっと我慢してたの」
彼女はそう言うと、鞄から赤いマフラーと分厚い手袋を取りだした。
「おい、こんな距離でもそんな厳重に防寒していくのか?」
「あたりまえでしょ。私を誰だと思ってるの?」
「さすがは、氷の女だ」
「何よそれ。むしろ寒さに弱いのは火の女じゃないの?」
「えっ、そうか?しかし――」
くだらない議論に花が咲きそうな事を懸念し彼女はもう一度念を押した。
「私、トイレに言ってくるね」
店内は閑静し、店主が皿についた洗剤を洗い流す音だけが響いている。いつの間にか客は自分たちだけになっていたようだ。厨房の奥に目を向けるとそこには階段が見えた。厨房に階段とはめずらしい。二階はプライベートルームにでもなっているのか。それとも――。回想して明らかに不審な点に気づく。何だ――?
――階段?不穏な空気がその質量をます。
おかしい。この建物は確かに細長い形をしているが、それは並列する他の家屋と比べて、とりわけ背が高かったわけではない。細長いというのはその形の事だ。二階にプライベートルームなどあるはずがない。何せ、この建物は一階建てしかありえない構造をしているのだから。あのシルバーの時計の掛けられているすぐ上は、屋根になっているはずだ。
では、あの階段はいったいどこにつながっているんだ?
「寒い、寒い、寒い」
ガラガラと勢いよく扉を開けた彼女は逃げるように店内に入って来た。
「ねえ、どうする?」
「何がだ?」
「ここ、11時閉店なの」
「珍しい居酒屋だな。木屋町で11時なんて。この辺、さびれてるからか?」
「まあね、いろいろあるのよ」
「いろいろって?」
「さあ」
「なんだよそれ」
ところで、と彼女は間を仕切る。
「夕靖はこの後、何か予定とかあるの?」
「いいや。特には」
彼女は何かを考え込むように、「そう……」と呟いた。
――ねえ、ちょっと行きたい場所があるんだけど。
「いいかな?」
「二軒目か?」
「ちょっと散歩でもどうかなって」
「ああ、別にかまわないが」
その時、時計は夜の10時30分に差し掛かろうとしていた。
「ところで。あの階段ってどこにつながってるんだ?」
厨房の奥を指差す。
「おっ、いいところに気が付いたね」
「知ってるのか?」
「うん、上だよ」
「は?だってここは一階建てだろ」
「ああ、そうね。えっと――なんていうか」
彼女は返答に困って言葉を選ぶ。
「なにか知ってるのか?」
「えっと――、ややこしいから、また後で説明するよ」
そう言うとそれ以上その件に触れようとはしなかった。
「徹朗さん。お会計」
約束通り割り勘で会計を済ませると、二人は荘園軒を後にした。