京都の男
京都バスは祇園を行く。期待と不安を頭に浮かべながら。振動音はゆっくりと夜の道をたどり、東大路通りを南下していく。
頬杖をついてもたれ掛かった車窓から、車体の軋む音が頬骨を伝い、眠りの浅い脳にギシ、ギシとわずかな悲鳴を響かせる。眠りすぎて眠い。そんな、学生風情がのたまう凡庸な駄弁が、車窓に映るこの男にはよく調和する。
――お前の目には人間の持つべき感情が見あたらないな。
研究室の教授は無能者を威圧するように、頻繁にそう口にした。感情が見当たらない、か。なるほど。こうやって重たい瞼を持ち上げる様は、まさしく冷徹人間のソレに違いない。車窓から睨むように向けられた切れ長の目。こんなものが尊敬するべき教授様に向けられる視線であるのならば、彼の私見も幾分、的を射ている。ただ、御立派な旧帝大学の教授ともあろう御方ならば、そう短絡的に物事を捉えずに、どうかこの視線の本意を探って頂きたいものだ。
無精髭にボサボサの髪。目を擦りながら、冴えない顔つきでこちらをじっと眺めている男。不意に会話がおぼつかなくなり、思考回路がスローダウンしていく。この有り様から、容易く一つの結論に至ることができる。つまり、目を見開いて感情を込められないほど、冷徹人間は睡眠不足なのかもしれない、ということに。だが、それもまた違う。冷徹人間の目は自らを侮蔑するものなのだ。彼もまた眠りすぎて眠い、という自堕落な学生風情の一人にすぎない。昼間、思うがままに眠りほうけていたことは、前日と同じ服装に畳の跡がくっきりと浮かんでいることから伺える。それにしても、もう少しまともな格好があっただろうに。
重ね着の下から覗くYシャツのストライプ柄が染色体の二重螺旋のごとくヨレヨレの襟元から波打ち、格別不精者を演出する。
しかし――。窓に映る男は自嘲して気づく。不満をぶつける相手さえ、そばにはいない。隣でぽっかりと空いた座席。空白のスペースが孤独を浮き彫りにする。だから、俺はまた仕方なく視線を窓の外へ向ける。すると、先ほどまで自分の顔を映していた窓が、視線をそのままに外の景色へと変わる。意識のあり方によって、同じ映像の持つ意味が、がらりと変わる。あの無能な教授は知らないのだろう。ただ見る事と、観察する事は全く別物だということを。
京都に例年より一足早い初雪が降った。それは、周囲の人間を浮き足立たせるのに十分な効果を発揮したようだ。
「今日は素敵な夜ね」
そんな声が聞こえる。言ったのは、乗降口に立っているあの赤マフラーの女か? すると、その芝居めいたセリフは彼女にひどくお似合いだ。派手な服装と、厚塗りのメイクで迫り来る三十路に抗おうというのか、肩まで伸びた金髪を右手の人差し指でくるくると弄ぶが、しかしそれも不毛な反骨にすぎない。体裁振ってはみても、あれは所詮、旬の過ぎた果実だ。だが、望ましいことに、夜の街はその闇の中に不都合な真実を隠してくれる。例え、ネオンの明りに照らされようと、見えるのがごくわずかな表層だけならば、他人の色に染まって、素敵な夜に隠れていればいい。おい、女。せいぜい、隣にいる男の腕を離さぬことだ。
窓の外は雪。粉雪が祇園の夜空に昇った月に照らされ、チラチラと舞う。
雪、か。この界隈を薄着で徘徊するにはとんだ厄介事だが、暖かい車内から眺めている分には随分と都合の良い優美さを魅せる。ただ、こんな美しさも、身体が外の寒さに触れてしまえばすぐに苛立ちに変わるはずだ。
八坂神社でバスを降りると、予想通り、見上げた空から降りかかる美しい雪は、歩道に敷き詰められたタイルへと姿を変え、容赦ない寒さに、小さな舌打ちがこぼれた。
ざわざわ、と道行く人の騒々しい声に埋もれながら、四条通りを西に行く。騒がしさの中でも、しかし、喉を抜けていく呼吸の音は、案外はっきりと聞こえる。右、左、右、左。一踏みずつ、足元を確かめる。
俯きながら歩くのは、疾しいことがあるからではなく、夜の暗がりにまみれて他人事であったはずの出来事が次々と顔を出してくるからだ。だから、俺はできるだけ下を向いて歩こうとする。格別、神経質になっているわけではなく、後ろめたさ、とも違う。夜の中ではとにかく不安になってしまう。昼間、安穏な時間に見過ごしてきた憂鬱が、頭の中に幾つもの声となって浮かび上がり、淡々と正論を焚きつける。
例えばあの時こうしていれば――。いや、あの日こんな失態が無ければ――。
こちらの気持など一切構わず、好き勝手に文句をつける。それも、今宵の寒さも相まってか、なおさら手厳しく、まるで打ちのめされる様をじっくりと観察し嘲笑うかのように。こんな風になってしまうのは大概、夜の途中のことだ。
ネオンサインを灯し、街は妖艶に武装した。
耳障りな周囲の雑談の中では満足に安らぐこともできない。もう少し静かにしてくれないか?
不満は喧騒に消えて行き、月は街行く人の顔を幸せそうに照らす。
所詮、これも他人の色に過ぎない。繁華街から覗く景色はどれも無関心に輝いて見せる。それは、まるで俺だけを排除しようとしているかのように。ふう、と一息吐く。
香住との再開は一年ぶりになる。
――一年、か。一年ぶり、だ。繰り返し念を押す。家を出るまでは楽観していたものの、目的地に近付くにつれて次第に不安が募る。これも、憂鬱にまみれた夜の仕業だろう。しかし、まさか彼女との再会に、それも一年程度でこんな不安を抱える事になろうとは思ってもみなかった。
そもそも、今ごろは家で研究データを練り直している筈だったのに。予定を狂わせるのはいつも彼女からの電話だった。
「もしもし」
昼の2時。電話口から聞こえてきた香住の声は以前と変わりの無いものだった。
「なんだ?」
「夕靖、今日はなにか予定とかあるの?」
「いいや」
「じゃあ、8時に木屋町ね」
「なぜだ?」
「いいから。場所はね――」
そして、それは相変わらずの呼び出しだった。もちろん二人にとってはこんなことが日常だったし、逆もまた然りともいえるが、一年間という小さな隔たりがその自然なはずの呼び出し方を妙に不自然なもののように思わせた。
薄着で家を出たことに後悔しながらも、足早に目的地を目指す。辻利にできた行列を通り過ぎ、四条大橋を超え、河原町の阪急ビルを左前方に先斗町へと踏み入っていく。向かうべき場所をきちんと把握していないからか、道すがら、人混みがいつも以上に煩わしく感じる。狭い先斗町の通りで、すれ違う人に肩を擦っては小さく舌打ちをする。なんで、こいつらはこんな所を歩いているんだ。
しかし、悪態をついてハッとする。なぜだ? ぶつかった相手もこちらを睨んでいるじゃないか。
――私たちもその厄介事の一員だよ。
同時にかつての彼女の言葉が頭に浮かぶ。ああ、そうか。俺も人混みの一員だ。ここを歩く限りは、文句を付ける資格などない。しかし、そんなことは十分にわかっているが、ここ最近の自分はどうにも気が短くていけない。なにせ悩みの種があちこちに散らばっているのだから。一つ一つ数え上げればきりがない。論文のこと、就職のこと、それに――。
粉雪がちらちらと視界をうろつく。寒い。雪を待つのは、家の中だけで十分だ。不満のため息だろうとかまわず、冬の夜には美しく溶けて消えて行く。
――おい、木戸。あんまり人生を舐めるな。
一月ほど前、就職指導課の事務がそうやって声を荒げた。いかにも温厚そうな彼が、あんな風に言うのだから、俺はよほどの事をしでかしたのだろう。
いや、寧ろその真逆、俺は何事もしでかそうとはしなかったのだ。路傍の石のごとく現状を甘んじて受け入れ、打開しようともしない俺に、とうとう彼は腹を立てたのだ。学生は闘争心を持たなくてはいけない、という彼の説教は至極筋が通り過ぎていたが、それだけに俺を辟易させた。なにせ、俺には闘争心なんてものは微塵も無いのだから。就活にはもっと時間をかけろ、お前にはやる気が無いだけだ。友人も先輩も頻繁にそう言った。確かにその通りだ。焦り始めるのはぎりぎりになってからでもいい。そう思っているから、周囲が内定を得る中、着々と取り残されていく自分を、俯瞰から無表情に眺めている自分がいる。そして俺は自問する。
――自堕落なお前に上手く物事が運んだ例などあるか?
出来るわけがない。答えは決まっている。後悔は先に立とうとすらせずに、忙しさを理由にどこかへ消えて行くのだから。
計画というものは思い通りにいったためしがない。全てはあの棒グラフにまとめた学習計画みたいなものに集約される。鉛筆を走らせ、びっしりと無駄なく埋めたスケジュールを眺めて、よし頑張ろうと意気込んでみせるが、しかし、長続きなどするはずがない。なぜなら計画を立てた時点で、俺は十分満足してしまっているからだ。幸を奏することもなく希望だけが膨らみ、そのほとんどが文字に出来ないような無駄な時間として消えていく。
卒論の作成にしてもそうだ。そろそろ仕上げにかかろうか、なんて、今頃悠長な時間の中行われているはずだったのに。現実の自分は未だデータ収集にいそしんでいる。
フラスコと試験管を相手に、ベルトコンベアーに流れてくる不良品廃棄のアルバイトさながら、淡々と同じことの繰り返し。化学合成細菌などという厄介な研究を選んだことが災いしたのか、それは恐ろしく退屈で、新鮮味にかけるものだった。むしろ、あの面倒な作業を自動で行う機械の発明なんてどうだ?そんな斬新な発想も迫り来る締切に牽制され、また我に返る。
繁華街の看板はそれぞれが主張し合い、焦点をぼやけさせる。子供の描く絵のように、主張が重なりすぎていてとらえどころがない。仕方なく視線は足元の適当な幅で捉え、外界から線を引こうとする。だから、頭に浮かぶのはこんな憂鬱ばかりなんだ。そしてまたため息をつく。
――悩みは尽きるはずもない。あの若草でさえ俺を裏切ったのだから。
通りすぎた道を引き返し、辺りをうかがう。右か?左か?人波のエネルギーに押される。
憂鬱に拍車をかけたのはある一冊の本だった。
金堂若草作「犬の目線」
彼の新刊が発売されるという事が、衰弱した自分にとっての唯一の楽しみだったのに。
今から三週間ほど前のことだ。彼の新作の発売を心待ちにして、刊行日にいそいそと書店まで足を運びその本を手に入れたのだ。一体こんどは何をしてくれるのだろう、なんて想像しながら。
偶然の一致で起こる殺人、物語の丸投げ、読者への嘘。彼のそんな曲折した表現にコアなミステリファンは魅了された。それは、同時に大衆を遠ざける要因だったが、掘り出し物的存在である事。それが自分にとって金堂若草の魅力だった。
さあ、こんどはどんな話を書いてくれるんだ?
期待は膨らむ。しかしページを開いてみて驚愕し、驚きはだんだんと怒りに変わった。
それは、作品の出来、不出来の話ではなく、彼の裏切りともとれる行為に煩わされたのだ。読み終わった後、全力でその本を壁に投げ捨てた。
「お前にはこんな作風は求めていない」そう吐きののしって。
若草はそもそも一本筋でまかり通るような作家ではなかったのだ。本格ミステリと銘打った実験小説の数々。歪んだ結末。今までずっとそうしてきたのではないのか。
何をいまさら、『児童文学』だなんて。サン=テグジュペリか、それともアンデルセンに憧れたのか。それも、生半可な物であればまだよかったのだが、読了後に満足感が残る――いわゆる大衆向けの売れやすい小説だった。
この作品で新たなファン層を獲得し、一躍注目を浴びるであろうこと、それが何よりの裏切り行為だった。
読者層を広げたかったのか、それともネタが尽きてしまったのか。
失敗してくれたならこれほど腹が立つ事も無かっただろうに、まるで、長年連れ添った同級生が、高校進学時に突然華やかな青春を謳歌し始め、自分とは一線を置いて疎遠になるような寂しさ。そんなものを感じていた。塾や部活動に新たな友達づきあい、という「それぞれの事情」があるのなら、それも仕方ないという事は頭では理解している。
だが、どうして突然に作風を変えたのか。一度この作風で世間に認知されてしまうとこれからが厄介だろう。なまじ、多くの心を浅くつかんだせいで、次回作には必然的に注目が集まる。それは一歩間違えるとその場が酷評の嵐となり得るということだ。
新しくついたファンは過去のお前を知らない。それでいて、騙されたと文句だけは付けるものだ。
お前には何か特別な理由でもあったのか?
作風を一変させた理由。「それぞれの事情」とは一体何だったのだ?
またそんな事を考えている。他に心配するべき事は多々あるもののどうしてもその事が頭から離れない。
ただ、今日は少し息を抜こうと決めていた。そのために面接の事も、論文のデータ作成の事も、できるだけ他人事であるかのような自堕落な昼間を過ごしたのだから。
人混みをすり抜け少し開けた所まで出て、フーっと長い息を吐き出す。
「わかった?木屋町の裏通りだよ」
「ああ、まて、よくわからない」
「だから――。一つだけ浮いてる居酒屋があるからすぐにわかるよ」
「そんな説明でわかるはずないだろ。浮いてるってのはどういうことだ」
「来てみたらわかるよ」
「まて、もう少し詳しく教えろ」
「場所はさっき言った通りだから、じゃあ8時にね」
「まて――」
そして、電話が切れた。
ようやく、木屋町までたどり着いた。まだ、正確な位置がつかめずに辺りを見回す。
加茂川のすぐ西を流れる対岸5メートルほどの小さな川、高瀬川。元々は物流目的に作られた川だが、今となっては京都の町を彩る景観の一部と化している。春先には桜、秋口には紅葉の名所として観光客でにぎわうが、夜はもっぱら遊び人達の歓楽街へと姿を変える。
声を上げ自店を巧みに売りたてる人。ほろ酔いで、気持ち良さそうに闊歩する集団。
本当にこんなところにその居酒屋があるのだろうか?
――一つだけ浮いてるからすぐにわかるよ。
手を抜く時は盛大に。それが、彼女の処世術だった。
魚寺香住。記憶の中で一人の女がこちらを振り返る。色白の肌。
大きめの瞳。きゃしゃな身体。特徴的な黒い長髪が吹き抜ける風になびく。
香住に始めて出会ったのは、3年前だ。
――思い出は、振り返るときに発光するでしょ? そんな言葉が存分に説得力を発揮するほど、あの日の光景は平凡な生活の中で体験したどの特別なエピソードよりも、鮮明に思い出せる。
大学入学後、新入生歓迎で熱気立つ周囲に流されるように、文芸サークルに入部した。とりわけ公募に挑戦しようなどという大志があったわけではなく、ただ、本が好きだという事、そんな単純な理由からだった。梶井基次郎の小説から取られた「檸檬」というサークル名。ここはなんとなく馬が合うな、と感じ、それが自堕落な自分の興を誘った、というだけのことだった。
あの日も、今日と同じような寒い夜の事だった。バイト終わりに暖を取ろうと立ち寄った部室で、一冊の文庫本が目を引いた。
(衝撃の結末に唖然!サイコホラーの問題作)
そんな帯書に触発され、散在する文庫本の中からその一冊を手に取って、ページをめくる。
主人公は男。舞台はロンドン郊外のとある街。
最初の数十ページで、残虐な描写が描かれる。初めの内は強盗殺人を繰り返す男。貴婦人の心臓を一突きにし、金目のものを奪って逃げるという、よくある類の殺人。
しかし、ページが進むと次第に残虐性は加速する。婦女暴行殺人、無差別殺人。
切り刻まれる身体、生きた人間の悲鳴。生々しく描かれ物語は進行していく。
そんなある日男はある人物に殺害現場を目撃されてしまう。
それは、彼がこの世でたった一人だけ愛する存在である妹だった。
彼は悩む。妹は自首して欲しいという。だが、その頃の彼には快楽殺人をやめることなどもはや不可能だった。妹との口論。争い。揺れる選択。そして――。
男はとうとう妹をその手で殺してしまう。
読み始めて間もなく繰り広げられる展開に置き去りにされそうになるが、この疾走感も悪くはない、と読みふけっていた時だ。後ろから不意に声が聞こえた。
「その本は、そこらへんでやめといたほうがいいよ」
はっとして後ろを振り返ると、部室のドアを開け、女が覗き込んでいた。彼女はまっすぐ伸びた黒い髪をかき分けながら、こちらに歩み寄りあっけにとられている俺に向かってもう一度念を押した。
「最後まで読むと、きっと後悔するよ。ここからどう展開していくんだろうと想像してるくらいが一番楽しいから。もうやめたほうがいい」
数秒固まった。彼女は何者で、いったいなぜこんなことを言うのか聞きたいことは沢山あったが、忠告されているのだということに気づきとにかく言葉を返す。
「なんだ……、そんなに結末がひどいのか?というかおまえは――」
――誰だよ。言い終わらないうちに彼女は言葉を重ねた。
「うん、ひどい。前半で期待させる分だけ最後でがっかりさせられるよ。その物語の
結末は小説を殺す。だから、その辺でやめといたほうが……」
戸惑った表情に気づき、一瞬語尾を弱めたが、思いついたように先を続ける。
「小説を読んでるときに、その後ろに違う物語が見えてくることってあるでしょ?」
「違う……、物語?」
「自分が物語に勝手に色を付けるっていうか。頭の中で登場人物が無限に動き回って、空想の中で新しい物語が発行するような感覚」
――ああ。
「そんなときはページを閉じたほうがいいの。そんな風に想像に浸っている時が無敵の時間なのよ」
――ああ、わかる。
「そのまま読みつづけても、いいことなんかない。だから、もうその本は閉じた方がいい」
――そう。言っていることは、確かにわかるが。だが……、いったいお前は――、誰
なんだ?
あっけにとられる俺を見て彼女はクスっと笑った。
「はじめまして」
好奇心に満ちた二つの目。まるで、全てを見透かしているとでもいうかのような澄んだ目で俺の顔を捉えた。
無敵の時間。その言葉はその後幾度となく耳にすることになる。
――久しぶりに部室に立ち寄ったからだよ。
――だから、それは仲のいい後輩に顔が似ていたの。
初対面の人間にあんな対応をするのか?と聞くと彼女はそんな風に弁明して見せた。
ただ、それが事実であろうとなかろうと、彼女が変わり者である事に間違いは無かった。
ぞんざいにあしらう事にも、あしらわれる事にも慣れている。彼女が一つ年上の先輩であろうが、そんなことは関係なかった。そして、俺がため口で話すのを、彼女は正そうともしなかった。「別に上下関係とかどうでもいいよ」なんて言って。しかし、小説を語る時には、どんな瞬間であろうと彼女の方が常に数段上手だった。彼女は去年大学を卒業し、東京の大手出版企業に勤めた。変わり者でも、俺の周りにいた他の奴らとは違う、「優秀な変人」だった。格別頭の回転が速いというわけでなかったが、物事を注意深く観察し、時間をかけて考察するということに長けていた。たまに連絡する限りでは、すでにあちらで新人作家の担当を受け持つことが決まっているらしい。
――一年越しの再会、か。もう一度、自分自身に向けて念を押す。
再会の空気は重い。交流の無かった人達との会話の不摂生ならばいざしらず、かつての親友との間に流れる奇妙な緊張感がどうにも耐え難い。
――お前たちなら上手くいくだろう?
そんなどこからともない声に気負わされ、二人の間には思いもよらない程のぎこちない空気が流れるのだから。どんな相手であろうと意識すればするほどに、回避できない。思えば小中学校の同窓会ともなると、それはとりわけひどいものだった。
あいつはどこの大学。営業部から広報部に異動になったらしい。あいかわらずギター一本で売れないバンドマンをやっている。噂話やメールのやり取りで得た情報。それで、十分、卒業後もつながりを保っていられたし、お互いの関係はつつがなく進行していた。しかし、実際に顔を合わせてみるとそう上手くもいかない。すべては、身勝手な錯覚だったんだ。どんな都合のよいやり取りも、結局は想像上の話でしかなかったのだから。
幼い日々を一緒に過ごした時間がある。確かなのはその事実だけで、卒業後いくら情報を共有したところで、本当の時間は随分前に止まってしまっていたのだと気づく。
そして、ぎこちない会話で必死にかつての時間を取り戻そうとする。はたから見ると滑稽だが、それも仕方ない事だ。自分の知らない場所で相手の過ごした時間。その空白は結局、想像することでしか埋められないのだから。
――想像すること。
では、香住が東京で過ごした時間とはどのようなものだったのだろうか。
「さっき京都に到着したところよ。久しぶりにサシで飲もうよ」
「ああ、店の名前はなんて言うんだ?」
「‘荘園軒’よ。木屋町に真っ向から異彩を放ってるからすぐにみつかるわよ」
「わかった。荘園軒というところだな。で、目印は?」
「えっとね――。暗くて細長い」
「は?なんだそれは」
「まあ、来てみたらわかるよ」
「おい、まて――」
電話を受けたのが午後2時。彼女との待ち合わせが午後8時ごろ。今何時だ?家を出る時にケータイを置いてきてしまったか。だが、ようやく到着したようだ。ここが――荘園軒か。なるほど。目的地を乱雑に書きつづったメモ書きをポケットにしまいこむ。
――木屋町に真っ向から異彩を放ってるから。
なるほど、彼女の言った通りだ。そんな説明でわかるか、と反論したが、事実、一目でここが荘園軒であるとわかった。浮いている、という彼女の言葉から、装飾が派手な居酒屋をイメージしていたのだが、どうやらそういうわけではなかった。むしろ派手さなど一切ない。質素で、素朴。悪く言うと生存競争に取り残されたような居酒屋だ。表面の木はささくれのようにはがれているし、遠慮なしに書かれた落書きが目立つ。しかし、何より目を引くのはこの――、独特な形。並列する商家からニュっと飛び出している事だ。
――暗くて細長い。確かにその形容がしっくりくる。
木屋町の中でもさびれて人通りのすくない場所に位置する上、そこを通る時でも注意深く観察していないと見落としてしまいそうになるほど自己主張の少ない店だ。しかし、それでいて細長い奇妙な形が存在感を持つ。10メートル四方に高さ7メートル、といったところか。ただ、孤立して浮いているというより、むしろこの店はあえて周りを拒絶しているのではないか? 表に気持ち程度客寄せの看板がある以外、一切の電灯が無く、また、店の戸は近年よく見られるようなガラス張りの物ではなく、全てが木造のものであった。通りに備え付けられた街頭や歓楽街から漏れるわずかな明かりがなければ、きっと夜の闇に溶け込んでしまうであろう。
扉に手を掛けると、ぐったりと木造特有の鈍い不快感が蓄積する。
まあ、初めに放つ言葉はすでに決めている。俺には一年前まで彼女と共有してきた言葉があるのだから。なにも、心配することは無い。その言葉が、空白を埋めてくれる。
自分を鼓舞するように勢いよく横引きの扉をガラガラと開ける。客は3人。女が1人
と男が2人。しかし――。
香住らしき人は……、見当たらない。
「ワッ!」
明らかに不意打ちだった。後ろから背中を押されたのだ。またやられた。文句を言う間もなく彼女は言う。
「どう、びっくりしたでしょ?見るべき場所を見ないから大切な物を見落とすのよ」
ホームズの言葉、か。
「花嫁失踪事件、だな。ずっと隠れて待ってたのか?」
子供のように浮き立つ彼女の顔を見ながら思った。何も心配する事なんてなかったん
だ、と。また、してやられた。やっぱり彼女の方が数段上手なのだ。香住といると、そのことをいつも実感させられる。
「ううん。ちょうど今、来たところ」
そう言うと彼女は両手をこすり合わせながら、むき出しになった首を暖めるようにオーバーコートに顔を埋めた。
「さむい、手と首が吹きさらし。凍えちゃうよ」
「さすがは檸檬一の寒がりだ」
「ねえ、早く中に入ろうよ」
「ああ、だがマフラーと手袋はどうした?」
「鞄の中に入ってるよ」
「なぜ、巻かない?」
「まあ――、いろいろあって、ね」
彼女は無邪気に笑って見せる。
その表情がたやすく一年間の空白を埋めた。