第9話 黒き米の朝食と、効率将軍の新たな計算式
魔王城の朝は、静寂の中にあった。
分厚い雲に覆われた空からは、相変わらず白い雪が舞い落ちている。
しかし、城内の空気は昨日までとは決定的に違っていた。
「……いい匂いだ」
廊下を行き交う兵士たちが、鼻をひくつかせながら挨拶を交わしている。
彼らの手には、かつての灰色の『栄養ブロック』ではなく、昨日私たちが振る舞った料理の余韻と、これからの食事への期待が握られていた。
私は城の厨房で、朝食の準備をしていた。
ここを発つ前の、最後の食事だ。
「おはようございます、師匠!」
「おはよう、メルジーナさん」
厨房に入ってきたのは、蛇の下半身を持つラミアの女将軍、メルジーナだ。
彼女は昨日までの冷徹な軍服姿ではなく、少しラフな執務服を着ており、手には分厚い書類の束を抱えている。
「昨夜の宴における兵士たちの士気向上率、および魔力回復速度のデータを集計しました。……驚くべき結果です。従来のブロック摂取時に比べ、回復効率が三百パーセント向上しています」
彼女は眼鏡を光らせ、興奮気味に言った。
「味覚刺激による脳の活性化、そして『ブラック・ライス』に含まれる固有魔力の相乗効果……。私の計算式には、『幸福度』という係数が欠落していたようです」
「ふふ、それは大発見ですね」
私は鍋の蓋を開けた。
ふわりと立ち上る白い湯気。
「さて、計算の続きは後にして……朝ご飯にしましょうか」
◇
今日の朝食は、魔界と人間界の食材を融合させた『特製・魔界和定食』だ。
主役はもちろん、炊きたての『ブラック・ライス』。
土鍋の蓋を開けると、黒真珠のように艶やかなご飯粒が、ピカピカと輝いている。
昨日の麻婆丼のような強い味付けではなく、今日はシンプルに米そのものの甘みを味わってもらう。
汁物は、『フロスト・ボア』の肉と『ダンジョン・ダイコン(魔界大根)』をたっぷり入れた豚汁だ。
ただし、ここにも魔界流のアレンジを加えている。
仕上げに『ヘル・ペッパー』を漬け込んだ特製ラー油を垂らし、ピリッとした辛味で寝起きの体を叩き起こすのだ。
おかずは、『コカトリスの卵』を使った厚焼き玉子。
砂糖と出汁をたっぷり使い、甘じょっぱく焼き上げている。
そして、箸休めの『スノー・キャベツ』の浅漬け。
「お待たせしました。朝の定食です」
玉座の間――ではなく、日当たりの良い(といっても薄暗いが)ダイニングルームに、料理を運んだ。
そこには、すでに魔王ゼスト様と、レオンハルト様、ヴォルグさん、ホルンが席についていた。
「……ほう。朝から豪勢だな」
ゼスト様は、湯気を立てるお椀を覗き込んだ。
昨日のような虚ろな目はもうない。
紅蓮の瞳は、純粋な食欲で輝いている。
「いただきます」
ゼスト様がぎこちない手つきで箸を持ち、まずは豚汁を一口啜った。
「……ンッ」
熱い汁が喉を通る。
味噌の芳醇な香りと、ボア肉の脂の甘み。
そして後から追いかけてくるラー油の辛味が、カッと胃袋を熱くする。
「染みる……。昨夜の酒が残った体に、この辛味と出汁が染み渡るぞ」
彼は感嘆の息を吐き、次は黒いご飯を口に運んだ。
何もかけず、そのまま。
「甘い。……噛めば噛むほど、力が湧いてくる味だ」
モチモチとした食感のブラック・ライス。
それはかつて魔界の民が主食としていた、忘れられた故郷の味だ。
「陛下、厚焼き玉子も絶品ですわ!」
隣でメルジーナも箸を進めている。
彼女は計算高い性格らしく、三角食べ(ご飯、汁、おかずを順に食べる方法)を完璧に実践し、口内調味の効率を最大化していた。
「卵の甘みと、豚汁の辛味……このコントラストが計算し尽くされています。……悔しいですが、栄養ブロックではこの『満足感』は演出できません」
「だろ? エリスの飯は、朝食うのが一番美味いんだよ」
レオンハルト様が、自分のことのように自慢げに胸を張る。
彼はすでに二杯目のご飯をおかわりしていた。
騎士団長の胃袋は底なしだ。
「ボク、この黒いご飯大好き! お婆ちゃんの匂いがする!」
ホルンも口の周りに黒い米粒をつけながら、笑顔で頬張っている。
その様子を見て、ゼスト様がふと箸を止めた。
「……そうか。これが、『日常』というやつか」
彼は窓の外、雪が降り続く魔界の景色を眺めた。
「余はずっと、強さだけを求めてきた。効率を突き詰め、無駄を削ぎ落とし……結果、余の城は冷たく静まり返っていた。だが」
彼はダイニングを見渡した。
食器が触れ合う音。
「おかわり!」という元気な声。
湯気越しに見える笑顔。
「この喧騒こそが、国を豊かにするのだな」
ゼスト様は満足げに頷き、最後の一粒まで米を拾い上げて食べた。
◇
朝食後。
城の中庭には、私たちの馬車が用意されていた。
荷台には、約束通り大量の『ブラック・ライス』と『ヘル・ペッパー』、そして『フロスト・ボア』の冷凍肉が積み込まれている。
「すごい量だぜ。これなら王国の連中も腰を抜かすな」
ヴォルグさんが荷台を確認してニヤリと笑う。
これらは、魔界と王国の国交樹立の証であり、最初の輸出品だ。
「エリス」
見送りに来たゼスト様が、私の前に立った。
その背後には、メルジーナをはじめとする魔王軍の幹部たちが整列している。
「世話になったな。……余の舌を生き返らせてくれたこと、感謝する」
「いいえ。ゼスト様が『美味しい』を思い出してくれて、私も嬉しかったです」
「ふん。……だが、忘れるなよ。余はまだ、お前を諦めたわけではない」
ゼスト様は悪戯っぽく笑い、懐から何かを取り出した。
それは、黒曜石で作られた美しい指輪だった。
中央には、紅蓮の宝石が埋め込まれている。
「これを持っていけ。余の魔力を込めた『魔王の通行証』だ。これがあれば、魔界のどこへでもフリーパスで入れるし、念話で余を呼び出すこともできる」
「えっ、そんな貴重なものを……」
「受け取れ。……そして、気が向いたらすぐに飛んでこい。余の胃袋は、常にお前を待っているからな」
ゼスト様は私の手を取り、強引に指輪を握らせた。
「むぅ……」
隣でレオンハルト様が唸り声を上げている。
殺気立ってはいないが、明らかに嫉妬の炎がくすぶっているようだ。
「安心しろ、騎士団長。エリスを奪いはせん。……今はな」
ゼスト様はレオンハルト様に向けてニヤリと挑発的な笑みを向けた。
「だが、油断するなよ? 彼女の料理を独占しようなどとすれば、余が軍を率いて奪いに行くからな」
「……フン。返り討ちにしてやる。彼女の料理も、心も、守り抜くのが私の務めだ」
レオンハルト様は私をぐっと引き寄せ、肩を抱いた。
最強の魔王と、最強の騎士。
火花は散っているが、そこには以前のような殺伐とした空気はなく、奇妙なライバル関係が成立していた。
「エリス殿」
メルジーナが一歩進み出た。
彼女は居住まいを正し、深々と頭を下げた。
「貴女の教えてくれた『心の栄養』……この国に根付かせてみせます。兵士たちのため、そして何より陛下のために」
「はい。期待しています、メルジーナさん」
「それと……」
彼女は少し頬を赤らめ、小声で付け加えた。
「あの『麻婆豆腐』のレシピですが……辛さ控えめのアレンジも教えていただけますか? その……毎日は、少し刺激が強すぎて」
「ふふ、もちろんですよ。レシピ、書いておきましたから」
私はメモを渡した。
彼女はそれを宝物のように大事に懐へしまった。
◇
「じゃあね、魔王のおじちゃん! メルジーナお姉ちゃん!」
ホルンが馬車の窓から大きく手を振る。
馬車が動き出す。
雪道を軋ませながら、車輪が回る。
「達者でな! また美味いもん食いに来いよ!」
「ありがとう! さようなら!」
魔王城のバルコニーから、ゼスト様たちが手を振っているのが見えた。
灰色の空の下、そこだけが温かい光に包まれているようだった。
「……良い国だったな」
手綱を握るレオンハルト様が、ポツリと言った。
「ええ。寒かったけど、温かい人たちでした」
私は指にはめられた黒曜石の指輪を撫でた。
異種族との壁なんて、同じ釜の飯を食えばなくなってしまう。
今回の旅で、また一つ証明できた気がする。
「さあ、帰ろうか。王都へ」
馬車は南へと進む。
荷台に積まれた『ブラック・ライス』の香ばしい匂いが、風に乗って漂う。
これでホルンの病気も完治し、お店の新メニューも充実するはずだ。
全ては順調。
ハッピーエンドの帰路のはずだった。
しかし。
「……エリス」
ホルンが私の服の袖を引いた。
彼は、魔王城が見えなくなってもなお、北の空――さらにその上空をじっと見つめていた。
「どうしたの、ホルン?」
「……聞こえるんだ」
「え?」
「お米の声じゃない。……もっと大きな、木の声が」
ホルンは胸を押さえた。
彼の顔色が、再び優れないものになっている。
「『世界樹』が……泣き止まないんだ」
その言葉に、私は背筋が寒くなった。
魔界の食文化を取り戻し、ホルンの熱も下がったはずなのに。
世界の魔力の源である『世界樹』の異変は、まだ終わっていなかったのだ。
「お腹が空いて、力がなくなっていく……。助けてって、言ってる」
馬車が進むにつれ、空の色が少しずつ変わっていくような気がした。
王都の空は青いだろうか。
それとも、世界樹の不調の影響が出始めているのだろうか。
「……急ごう、レオン」
私は言った。
「ええ。胸騒ぎがする」
レオンハルト様が鞭を入れる。
馬車は速度を上げた。
美味しいお土産を積んで帰るはずの道中は、次なる、そして最後の試練へのプロローグとなろうとしていた。




