第6話 魔界の激辛飯
「これより、兵士の士気を高めるための食事対決を行う!」
魔王城の中庭。
分厚い雲に覆われた空からは、絶え間なく雪が舞い落ちていた。
その極寒の広場に整列しているのは、魔王軍が誇る精鋭部隊、百名。
彼らは漆黒の鎧に身を包み、微動だにせず立っているが、その瞳には光がない。
ただ命令に従うだけの、精巧な人形のようだった。
彼らの横には、この対決の審判を務める(というより、高みの見物を決め込んでいる)魔王ゼスト様が、玉座ごとバルコニーに移動してきていた。
「始めなさい」
メルジーナ将軍の冷徹な号令と共に、対決の幕が上がった。
先行は、メルジーナ将軍だ。
彼女は指を鳴らし、部下に銀色のトレイを運ばせた。
そこに乗っているのは、親指ほどの大きさのカプセル。
「我が軍の技術の結晶、『超高濃度魔力カプセル・タイプZ』です」
彼女は兵士たちにカプセルを配り、服用を命じた。
「飲みなさい。これ一粒で、成人が三日活動するために必要なカロリーと、上級魔法を一発放つ分の魔力が補給できます」
「はッ!」
兵士たちは一斉にカプセルを口に放り込み、水で流し込んだ。
数秒後。
彼らの体の周りに、青白い魔力のオーラが立ち昇った。
「おお……力が漲る……」
「疲労が消えた……」
数値上の回復効果は劇的だった。
しかし、彼らの表情は変わらない。
ただ「燃料が補給された」というだけで、そこには高揚感も、生きる喜びもなかった。
「見ましたか、人間。摂取にかかった時間はわずか三秒。それでいて、彼らの魔力値は一五〇%まで上昇しました」
メルジーナ将軍が勝ち誇ったように私を見下ろす。
「これこそが効率。これこそが最強。……貴女がこれからコトコトと煮炊きする時間は、全て無駄なのです」
「……無駄じゃありません」
私はリュックを下ろし、魔導コンロを二台展開した。
ヴォルグさんが巨大な中華鍋(持ってきてよかった!)をセットし、イザベラさんが……じゃなくて、今日はレオンハルト様が火起こしを手伝ってくれる。
「数値だけの強さなんて、脆いものです。……本当の強さは、お腹の底から湧き上がってくる『熱』なんですから!」
私は食材を取り出した。
シルバさんの畑で収穫した、魔界の秘宝たち。
黒曜石のように輝く『ブラック・ライス』。
そして、見るからに凶悪な赤さを放つ『ヘル・ペッパー』。
「ヴォルグさん、挽肉の準備は?」
「おうよ! 『フロスト・ボア』のバラ肉、粗挽きにして脂たっぷりにしといたぜ!」
「ホルン、お米をお願い!」
「うん! 美味しく炊くね!」
調理開始だ。
まずは、主食となるご飯から。
土鍋に洗った『ブラック・ライス』と水を入れ、強火にかける。
この黒米は、炊き上がるとモチモチとした食感になり、独特の甘みと滋養強壮効果を持つ。
次に、メインの具材。
中華鍋にたっぷりの油を注ぎ、火にかける。
ここが一番のポイントだ。
「いきますよ……!」
私は刻んだ『ヘル・ペッパー』と、痺れるような辛さを持つ『デビル・サンショウ(魔界山椒)』を、低温の油に投入した。
ジュワァ……。
油が赤く染まっていく。
同時に、強烈な刺激臭が立ち上った。
「ゴホッ! ゲホッ! な、なんだこの毒ガスは!?」
風下にいた兵士たちが、突然むせ返り、涙を流し始めた。
メルジーナ将軍も慌ててハンカチで鼻を覆う。
「き、貴様! 化学兵器を使うつもりですか!?」
「いいえ、ただの香り出しです!」
唐辛子と山椒の香りを油に移したら、そこへ粗挽きのボア肉を投入。
強火で一気に炒める。
ジャアアアアアッ!!!
激しい音と共に、肉の脂が溶け出し、赤い油と混ざり合う。
香ばしい肉の焼ける匂いと、鼻を突き抜けるスパイスの香りが融合し、極寒の中庭を「熱帯」に変えていく。
「くっ……目が痛い! 痛いが……!」
「なんだ、この口の中に涎が溢れてくる感覚は……!」
無表情だった兵士たちの顔が、紅潮し始めた。
カプセルで満たされたはずの胃袋が、この暴力的な香りに刺激され、隙間を作ろうと蠢いているのだ。
肉の色が変わったら、『黒しずく(醤油)』と、甘みのある『魔界味噌(テンメンジャン風)』を加え、さらに炒める。
全体が馴染んだら、『コカトリス・スープ』を注ぎ入れる。
グツグツグツ……。
鍋の中は、地獄の釜のように赤黒く煮えたぎっている。
そこへ投入するのは、賽の目に切った真っ白な『スノー・トーフ』だ。
魔界の雪解け水で作られたこの豆腐は、絹のように滑らかで、煮込んでも崩れにくい。
「豆腐が赤く染まるまで、少し煮込みます!」
豆腐が踊る。
赤いスープを吸い込み、白から赤へ、そして飴色へと染まっていく。
「……すごい色だ」
レオンハルト様が鍋を覗き込み、少し引いている。
「エリス、これは本当に食べ物か? 溶岩に見えるが」
「大丈夫です。辛いけど、止まらなくなる味ですから」
仕上げに、水溶き片栗粉でとろみをつける。
全体が艶やかにまとまり、濃厚な餡となる。
最後に、追い『デビル・サンショウ』と、刻んだ『ダンジョン・ニラ』をたっぷりと。
「ご飯も炊けました!」
ホルンが土鍋の蓋を開ける。
ボワッ!と白い湯気が上がり、ツヤツヤに炊き上がった漆黒のご飯が現れた。
「盛り付けよ!」
丼に、黒い『ブラック・ライス』を山盛りにする。
その上から、熱々の激辛麻婆豆腐を、雪崩のようにかける。
ドロォォォ……。
黒い米と、赤い餡。そして白い豆腐。
色のコントラストが毒々しくも、美しく、食欲をそそる。
「完成です! 『極寒を吹き飛ばす! 魔界特産・激辛黒麻婆豆腐丼』!」
ドンッ、ドンッ、ドンッ!
百人分の丼が、次々とテーブルに並べられていく。
立ち上る湯気には、カプサイシンの刺激と、肉味噌の濃厚な香りが満ちている。
「さあ、兵士の皆さん。体が冷えているでしょう? 温まってください」
私が声をかけると、兵士たちは互いに顔を見合わせた。
メルジーナ将軍が鋭い声で制止する。
「食べてはいけません! それはただの刺激物です! 消化器官に負担をかけ、戦闘能力を低下させます!」
「……でも、将軍」
一人の兵士が、震える声で言った。
彼は寒さで震えているのではない。目の前の丼から放たれる熱量に、本能が震えているのだ。
「体が……求めているのです」
彼は命令に背き、丼を手に取った。
ズシリと重い。
温かい。
手袋越しに伝わるその熱だけで、凍えていた指先が生き返るようだ。
彼は匙で、豆腐と挽肉、そして黒い米をまとめてすくい上げた。
赤と黒のコントラスト。
意を決して、口へと運ぶ。
パクッ。
「……!!!」
兵士の目が、カッ!と見開かれた。
その瞬間、彼の口の中で爆発が起きた。
『ヘル・ペッパー』の突き刺すような辛さが舌を焼き、『デビル・サンショウ』の痺れが唇を震わせる。
「ぐおおおおっ! からっ、辛いいいいッ!!」
彼は叫んだ。
しかし、叫びながらも、手は止まらなかった。
辛さの直後に押し寄せてくる、ボア肉の濃厚な脂の甘み。
味噌のコク。
そして何より、モチモチとした『ブラック・ライス』の力強い旨味。
それらが辛さと混ざり合い、強烈な快楽となって脳髄を直撃する。
「辛い! でも……うまいッ!!」
彼は汗を噴き出しながら、二口目を掻き込んだ。
ハフハフと熱い息を吐き出すたびに、白い呼気が赤く染まるような錯覚を覚える。
胃袋に落ちた麻婆豆腐が、燃えるような熱源となり、血液を沸騰させていく。
「熱い……力が……底から湧いてくる!」
カプセルで得た「数値上の魔力」ではない。
野生の本能が呼び覚まされたような、暴力的なまでの活力だ。
「おい、どうした! 大丈夫か!?」
「俺にも食わせろ!」
「ずるいぞ!」
一人が食べ始めれば、もう止まらない。
百人の精鋭部隊が、我先にと丼に群がった。
「うおおおおおっ! 辛ぇええええ!」
「水! いや、水なんかいらねぇ! もっと飯をくれ!」
「汗が止まらねぇ! 誰か鎧を脱がせてくれ、暑いんだよ!」
極寒の雪原だったはずの中庭が、彼らの熱気で湯気を立てている。
兵士たちは上着を脱ぎ捨て、顔を真っ赤にして麻婆豆腐を貪り食っている。
その目は生き生きと輝き、さっきまでの人形のような面影はない。
「な……な……っ!?」
メルジーナ将軍は、その光景に言葉を失い、後ずさった。
「ありえない……。私の計算では、カプセルこそが最適解のはず……。なぜ、あんな非効率な刺激物に、彼らはこれほど……」
「メルジーナ、まだ分かりませんか?」
私はお玉を持ったまま、彼女に歩み寄った。
「貴女のカプセルは、車にガソリンを入れるのと同じ。確かに動くけれど、それだけです。……でも、食事は『心』の燃料なんです」
私は兵士たちを指差した。
彼らは「辛い、うまい」と笑い合い、汗を拭きながら肩を叩き合っている。
士気が上がっているのは、誰の目にも明らかだった。
「辛さを乗り越えて食べる達成感。仲間と同じ釜の飯を食う一体感。そして、美味しいものを食べた時の幸福感。……それが、兵士を一番強くするんですよ」
「くっ……!」
メルジーナは反論しようと口を開いたが、言葉が出てこなかった。
目の前の光景という「実績」が、彼女の理論を粉砕していたからだ。
そして。
バルコニーからその様子を見ていた魔王ゼスト様が、手すりに身を乗り出した。
彼の虚ろだった瞳が、今は赤く燃える兵士たちの熱気と、立ち上るスパイスの香りに釘付けになっている。
「……辛い、か」
ゼスト様が低く呟いた。
彼の鼻が、ピクリと動く。
呪いによって閉ざされた彼の感覚に、あの強烈な刺激臭が届いているのだ。
「……余にも、よこせ」
ゼスト様の声が、広場に響き渡った。
「え?」
「その赤い丼だ。……余にも食わせろ」
「へ、陛下!?」
メルジーナが悲鳴を上げる。
「なりませぬ! あんな刺激物、陛下の高貴な胃腸には毒です!」
「黙れメルジーナ。……余は今、久々に『何かを感じて』いるのだ」
ゼスト様は自身の胸を押さえた。
心臓が高鳴っている。
あの匂いを嗅ぐだけで、唾液が分泌され、胃がキュウと鳴く。
「味がしない」という絶望の中に、一条の光が差し込んだような感覚。
私は丼を一つ、新しく用意した。
たっぷりの麻婆豆腐と、仕上げの山椒を多めに振って。
「お持ちします、魔王様」
私はバルコニーへの階段を登った。
これが、本当の勝負だ。
味覚のない魔王の舌を、この激辛でこじ開けてみせる。
(さあ、覚悟してくださいね。……飛び上がるほど辛いですから!)




