第5話 ホルンの帰郷
「……寒いですね」
吐く息が瞬時に凍りつきそうな極寒の世界。
私たちは、メルジーナ将軍の監視下――という名目でついてきた数名の魔族兵士と共に、魔王城から遥か北の山岳地帯を目指していた。
「エリス、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
隣を歩くレオンハルト様が、私の背中をさする。
彼自身も寒いはずなのに、その手はいつも温かい。
「平気です。……それより、ホルンの様子が」
レオンハルト様の背中で、分厚い毛皮にくるまれたホルンは、高熱で浅い呼吸を繰り返していた。
しかし、彼が握りしめている『黒い種籾』は、目的地に近づくにつれてドクンドクンと強く脈打ち、赤黒い光を放ち始めている。
「……こっちだよ。……もうすぐだ……」
ホルンがうわごとのように呟き、雪に覆われた険しい谷間を指差した。
そこは、『地獄谷』と呼ばれる火山地帯の入り口だった。
地面から白い蒸気が噴き出し、硫黄の匂いが立ち込めている。
雪景色の中に突如として現れた熱源。
「こんな場所に村があるのか?」
ヴォルグさんが怪訝そうに眉をひそめた時だった。
「――止まりな!」
蒸気の向こうから、鋭い声が響いた。
同時に、ヒュンッ!という風切り音と共に、何かが飛んできた。
レオンハルト様が瞬時に剣を抜き、それを弾き落とす。
地面に突き刺さったのは、石で作られた矢じりを持つ原始的な矢だった。
「人間と……魔王軍の兵隊か。アタシらの隠れ里に何の用だい!」
湯気の中から姿を現したのは、小柄だが筋肉質な老女だった。
豊かな灰色の毛並みに、ピンと立った大きな耳。そして太い尻尾。
種族は違うが、その面影はホルンと酷似している。
リスの獣人――いや、魔族の特徴も併せ持つ、ハーフの老婆だ。
「お婆さん、待ってください! 私たちは怪しい者じゃありません!」
私が前に出て叫ぶと、老婆は鋭い目を細めた。
「人間が怪しくないわけあるかい。さっさと失せな、でないと……ん?」
彼女の鼻がピクリと動いた。
そして、レオンハルト様の背負っている「包み」に視線を釘付けにした。
「……その匂い。まさか」
老婆の声が震えた。
「ホルン……なのかい?」
◇
「……ばあちゃん……?」
レオンハルト様の背中で、ホルンが目を開けた。
老婆――シルバさんは、武器を放り出して駆け寄ってきた。
「ああ、ホルン! 生きていたのかい! 人間界に連れ去られたって聞いて、もう二度と会えないと……!」
シルバさんはホルンを抱きしめ、くしゃくしゃの顔で涙を流した。
強気そうに見えた彼女の目から、大粒の涙が溢れ出ている。
「よかった……本当によかった……」
感動の再会。
同行していた魔王軍の兵士たちも、気まずそうに顔を見合わせ、武器を下ろしていた。
私たちはシルバさんに案内され、蒸気の奥にある隠れ里へと足を踏み入れた。
そこは、地熱を利用して温められた、小さなオアシスのような場所だった。
外の極寒が嘘のように暖かく、岩肌には緑の植物が茂っている。
シルバさんの家は、巨大な樹木の根元をくり抜いて作られていた。
温かいスープ(薄味の木の実スープだったが)をご馳走になり、ホルンをベッドに寝かせた後、私たちは彼女から話を聞いた。
「……そうか。あの黒い種が、あんたたちを導いたんだね」
シルバさんは、ホルンが握りしめていた種籾を見て、懐かしそうに目を細めた。
「これは『ブラック・ライス』。かつて魔界が豊かだった頃、主食として食べられていた穀物さ」
「ブラック・ライス……」
「ああ。魔族にとっての力の源であり、心を安定させる作用がある。……だが、先代の魔王が倒れ、今のゼスト様が即位した頃から、この作物は『非効率』だとして栽培を禁じられたんだ」
シルバさんは悔しそうに拳を握った。
「あの女狐、メルジーナの差し金さ。『食事にかける時間は無駄』『栄養ブロックこそが至高』……そうやって、魔界から『美味しい』という概念を奪い去った」
やはり、メルジーナ将軍が元凶だったか。
「アタシら一族は、このブラック・ライスを守るために、こんな辺境に隠れ住んでいたんだ。……ホルンの両親も、そのせいで軍に追われ、命を落とした」
重い沈黙が流れる。
ホルンが人間界に流れたのも、魔王軍の追っ手から逃がすためだったのだろう。
「でも、ホルンはどうしてこんな高熱を?」
私が尋ねると、シルバさんはホルンの額に手を当てた。
「『魔力欠乏症』の一種さ。あの子は魔族と獣人のハーフだ。人間の食べ物だけじゃ、魔族としての体を維持するエネルギーが足りなかったんだよ」
「そんな……私の料理じゃ、ダメだったってことですか?」
ショックを受ける私に、シルバさんは首を横に振った。
「違うよ。あんたの料理が美味すぎて、あの子の魔族としての血を目覚めさせちまったのさ。……成長痛みたいなもんだ。治すには、魔界の土で育った、強烈な魔力を持つ食材を食べさせるしかない」
「魔界の食材……」
「ああ。アタシが守ってきた、とっておきのやつを食わせてやりな。そうすれば熱も下がるし、あんたたちの『勝負』にも使えるはずさ」
シルバさんは立ち上がり、家の裏手にある洞窟へと私たちを招いた。
◇
洞窟の中は、地熱のおかげでサウナのように蒸し暑かった。
そして、そこには信じられない光景が広がっていた。
「うおっ、なんだこれ! 目が痛ぇ!」
ヴォルグさんが目をこする。
空気中に漂う、強烈なスパイスの刺激臭。
洞窟の畑一面に広がっていたのは、黒曜石のように輝く稲穂――『ブラック・ライス』。
そして、その隣で溶岩のように赤く発光している果実。
「……唐辛子?」
形は唐辛子に似ているが、大きさが違う。子供の腕ほどもある巨大な赤い実が、ドクンドクンと脈打っているのだ。
「こいつは『ヘル・ペッパー(地獄唐辛子)』。一口かじれば、氷の魔物も火を噴いて逃げ出すっていう激辛スパイスさ」
シルバさんが誇らしげに言った。
「ブラック・ライスは魔力を回復させ、ヘル・ペッパーは凍りついた感覚を強制的に叩き起こす。……味覚を失った魔王様には、うってつけの劇薬だろうね」
「これだ……」
私は震える手で、ヘル・ペッパーを一つ手に取った。
手袋越しでも熱気が伝わってくる。
少しだけ端をちぎり、舐めてみる。
「ッ!!!」
電撃が走った。
辛い。痛い。熱い。
でも、その奥に強烈な旨味と、柑橘系のような爽やかな香りがある。
これなら、あの冷え切った魔王城の空気を、一瞬で熱帯に変えられる。
「ありがとうございます、シルバさん! これなら勝てます!」
「持って行きな。……そして、魔界に再び『美味しい』を取り戻しておくれ。それが、ホルンやあの子の両親への一番の手向けだ」
私たちは感謝を述べ、ブラック・ライスとヘル・ペッパーを大量に収穫した。
その夜。
私はさっそく、収穫したてのブラック・ライスを土鍋で炊き、ヘル・ペッパーをほんの少し入れた粥を作った。
「ホルン、食べられる?」
「……ん……」
ホルンは粥を一口食べた。
黒い米はモチモチとしていて、噛むと甘みが広がる。
そして、ペッパーの辛味が体を内側から燃え上がらせる。
「……あつい。……おいしい」
ホルンの頬に、みるみる赤みが戻り、垂れていた耳がピンと立った。
種籾の共鳴も収まり、熱が引いていく。
「よかった……!」
レオンハルト様も安堵の息を吐いた。
これで、憂いはなくなった。
◇
翌朝。
私たちはシルバさんに見送られ、再び魔王城へと向かった。
ホルンはすっかり元気になり、今はヴォルグさんの肩車の上で「ばあちゃん、行ってきます!」と手を振っている。
「エリス、準備はいいか?」
レオンハルト様が私のリュック――魔界の秘宝が詰まったそれを、代わりに背負ってくれる。
「はい。最高の食材が手に入りました」
私は振り返り、遠ざかる隠れ里を見つめた。
あそこで守られてきた食文化の灯火を、今度は私が魔王城で燃え上がらせる番だ。
「待ってなさい、メルジーナ。貴女の『効率』なんて、この激辛スパイスで吹き飛ばしてあげるわ!」
目指すは決戦の地、魔王城の中庭。
作る料理は決まっている。
黒い米と、赤い悪魔を使った、魔界最強のスタミナ料理。
『激辛・黒麻婆豆腐丼』だ。
帰り道、護衛についていた魔族兵士が、恐る恐る私に話しかけてきた。
「あの……エリス様」
「はい?」
「その……リュックからする匂いだけで、汗が止まらないのですが……今度は一体、何を作るおつもりで?」
彼はハンカチで額の汗を拭っている。
まだ料理していないのに、ヘル・ペッパーの成分が漏れ出ているらしい。
「ふふ、楽しみにしていてください」
私はニヤリと笑った。
「食べたら最後、二度とあのブロックには戻れなくなる……『悪魔の誘惑』ですよ」
兵士がゴクリと喉を鳴らす。
魔王軍の胃袋攻略戦、第2ラウンドのゴングは、もうすぐ鳴ろうとしていた。




